憧れの世界
魔法を使える世界。子どもの頃に誰もが例外なく憧れた事のある世界だと僕は思う。僕も決してその例外では無かった。あの時の普段僕が読んでいたのはな数学書や理学書といった科学的な本ばかりで、ファンタジー小説等は余り手に取っていなかったけれど、魔法という非科学的な世界への憧れを捨てていた訳では無かった。夢の世界への扉の鍵を目の前に差しだされた僕は胸が熱くなるのを止められなった。しかし、同時に不安に感じる事もあった。目の前にある扉は、実は、夢の扉などでは無く、底が見えない暗闇なのかもしれない。そんな怖さも感じていた。魔法などという非科学的な世界は存在しなくて、扉の向こうの闇へと誘いこみ、そこに僕は閉じ込められて笑いものにされるのかもしれないという不安が僕の頭を過った。しかし、僕は御守さんと徹君がそういった品のない幼稚ないじめをする様な人では無いという事を良く知っていた。誰もが注目し、噂する御守さんについて、そういった話を聞いた事は皆無だった。徹君は最近の僕が観察していた中では、彼は僕と同じように他者に干渉するような事よりも他に熱中してしまう事を持っているという確信があった。
「突然過ぎてびっくりさせちゃったよね。」
固まっていた僕を御守さんが気遣ってくれたが、僕はまだ何と返答していいのか未だに分からなかった。すると、徹君が可笑しそうに鼻で笑った。
「クリスマス・イブの子どもみたいに、目が輝いてんじゃん。以外だったわ。南雲は現実的な理学書とかしか読んでないから、こんな現実的で空想的で非科学的な世界なんて興味ないのかと思ってたよ。」
徹君の皮肉ともとれる言葉とは裏腹に、彼の顔は少し嬉しそうに微笑んでいた。御守さんがため息をついて徹君を睨みつける。
「言い方。」
御守さんが口の悪さを注意した。
「褒めたんだよ。あんな読むのに時間がかかる難しい本、例え好きでも読むのには根気がいりそうじゃん。尊敬するよ。南雲。」
徹君は輝くように笑っていて、その笑顔は彼の言葉が嘘偽りないものである事を物語っていた。
「よく人を見てるんだね。僕は理学書を図書室でしか読まないのに。」
「俺もたまに図書室で調べ物をするんよ。俺が図書室に行くときは、必ず南雲は同じ席にいて、何か難しそうな本を読んでた。大概、いつも同じ本を読んでたよね?」
徹君が僕の事を知っていてくれて、僕は嬉しくなった。クラスで目立たない存在で、同年代にマイナーな本ばかり読みふけっていた僕の事を色々な本を漁っている『本の虫』と呼ぶ人は多々いたが、僕が数冊の数学書や理学書を熟読していた『数理学書の虫』だと知っている人は担任の教師だけだと僕は思っていた。
「へー。南雲君すごいんだね。今度、数学教えてよ。」
御守さんも顔を輝かせて僕を称賛した。御守さんにまで褒められて、僕は産まれて初めて顔が赤くなるのを感じた。僕が読んでいた本はその価値を同級生に理解してもらえる事は少なく、同級生から「へぇ」などという、曖昧で興味が無さげな反応をもらう事もあっても、褒められる事は皆無だったのだ。
「ま、今すぐには決められないでしょ。掃除の時間が始まるし、とりあえず、放課後、俺について来てよ。魔法の事と昼休みの事、あと、放課後、俺についていくことは他言無用でよろしく!」
そういうと、徹君は僕の返事を聞かずに歩き去っていった。僕は反応を返せずに彼を見送った。御守さんは徹君を見つめながら、ため息をついて、僕を振り返った。
「がさつな人でごめんね。でも、悪気は無いと思う。南雲君、今日の事忘れたい?それとも、魔法の事、もっと知りたい?」
御守さんの問いに僕は悩んだ。
「とりあえず、もう少し知りたい。今日、徹君についていってから決めてもいい?」
おそるおそる答えた僕を見て、御守さんは微笑んだ。
「やっぱり、急には決められないよね。それじゃあ、放課後、徹君について行ってよ。今日の事、絶対に内緒だからね。」
御守さんはゆっくり優し気に僕に語りかけて、教室へと帰っていった。彼女を見送ってしばらくしても僕の興奮は収まらず、普段の冷静さを取り戻すまで、僕は窓を開けて外の冷気を感じながら肉眼では見えないずっと遠くの景色を眺めていた。