棚ぼたの縁
「南雲、今時間ある?ちょっとついて来て欲しいんやけど」
徹君は再び急に笑顔を作って僕を覗き込んだ。彼の声はもう低く無くなっていた。僕は彼の笑顔につられてコクリと頷いた。徹君が僕へ手を差し伸べた。僕は彼の手を掴んで起き上がった。
「ありがとう。」
「おう。」
僕は彼に倣って笑顔を意識して、お礼を言うと、徹君はニッと笑った。彼の眼はさっきよりも、垂れていて優しそうに見えた。相手に向けた笑顔が意識して作ったものであっても、相手との距離を縮める事ができるのだなと僕は思った。距離を縮める事ができたと僕が感じただけなのかもしれない。例え気のせいだとしても、僕にとって昼休みに誰かと笑顔を交わしたのは久しぶりの事だったので心が弾んでしまったのを覚えている。
「じゃ、行こうか。」
そう言うと、徹君は僕に背を向けて体育館の出入り口へと歩き出し、僕は彼の後ろを着いていった。
徹君が体育館を出た後に向かったのは意外にも僕らの教室だった。僕は彼の後ろをついて歩いている時に、彼は僕に何の用があるのか、盗み聞いた事について責められるのではないかと思案して不安になっていたが、彼が向かう先が教室のある方向で少し安心した。もし彼が僕を責め立てたいのなら、人気のない体育館程うってつけの場所はないはずだった。もしかすると、僕が暇そうにしていたから、僕を何かの人手としてあてにしているかもしれない。そんな予想をした時、先程まで踊っていた僕の心に静寂さが戻ってきた。何の共通点も無い僕に徹君から声をかける理由として一番妥当な考えだと僕は思った。
僕達の教室の前まで来ると彼は立ち止まって、一点をじっと見つめ始めた。その視線の先には、学年で一番容姿がいいと評される 御守 智恵 さんが友達と楽しそうに話している姿があった。徹君が見とれるのは無理も無いと僕は思った。今日まで徹君の名前を知らなかった僕でさえ、彼女のフルネームを覚えていた。覚えずにはいられなかった。彼女は北欧の血を引く父親を持つハーフで、顔がかわいいだけでなく、モデルのような長い足を持つ日本人離れした体系を持っていた。当時、学校で一番かわいい女子または一番美人な女子という話題が出た時に真っ先に名前が挙がるのが彼女だった。加えて、彼女は成績は優秀で、誰にでも分け隔てなくやさしい態度と笑顔で接する非の打ちどころが無い存在だった。僕のような地味な生徒にとって、彼女は、同じ世界の住人ではなく、言わば、天使のような存在だった。僕達の中学では言うまでもなく、彼女の存在は他校の男子でさえ知らないものはいないという噂を僕は聞いていた。僕と同じで他人に興味を示さない徹君が見とれてしまうのは何ら不自然な事では無かった。
「気づかねーな」
徹君が呟いた。
「御守さん?」
徹君の呟きに対して僕は反射的に答えた。すると、彼は目を丸くして僕の顔を見た。
「よく分かったね」
徹君は意外だとばかりにそう言った。
「だ、男子なら皆そう思うよ」
僕は変に誤解されたくないと思い、『皆』を強調して答えた。徹君はニヤリとした。
「南雲も御守を見てたんやろ」
徹君は意外にも意地悪だった。徹君の問いに答えられず、僕は下をうつむいた。
「どうしたの?」
御守さんの声が僕のすぐ前から聞こえた。顔を上げると、そこには御守さんの姿があった。先程まで噂をしていた相手から突然質問を受けた僕の頭は真っ白になって、僕はただ顎をカクカクさせた。
「実は南雲がさ、」
徹君が御守さんに返答しようとした時、僕は反射的に徹君の袖を引っ張り、徹君の肩がわずかに下がった。御守さんはキョトンとしていた。
「あ、ごめん。ここでする話じゃないや。ごめん。ちょっと、一緒に来て欲しいんだけど。ダメかな?」
徹君は御守さんの顔色を伺うように彼女に頼み込んだ。彼女は目を細めると、徹君に近づいて顔を覗き込んだ。
「いいよ」
そう言うと御守さんは教室を出て歩き出した。徹君がその後を続いて歩き出した。何が起きているのか理解できず、僕は、ただ呆然と彼等の後を見送った。すると、徹君が振り返って僕に手を振った。それを見た僕は彼に手を振り返した。徹君が手を止めた。
「手振り返してないで、早く来いよ」
徹君の言葉を聞いた僕は、ここ一年で一番驚いた。今から授業がある訳でも無いのに、学年一番の完璧美少女の後をついて歩くという実感が湧かなかった。僕の心は混乱というノイズに埋もれた。もう僕自身には、自分がどんな気持ちなのか全く分からなくなっていた。彼らの後をついていきながら、私事で学年一番の美少女の後をついて歩く事を妙に意識するのは下心なのだろうかと考えていた。