実感が湧かない
あの日の午後、僕は何も手につかず、午後の授業もほとんど頭に入って来なかった。チョークの音が響いては消えてを繰り返していくのを感じていたが、先生から注意を受けるまで、僕の筆は一音も鳴らさなかった。普段なら授業中も目立たない僕だったが、その日は珍しくぼーっとしていた。放課後が待ち遠しくてしょうがなかった。これから自分が踏み入れた事の無い世界へと足を踏み入れる時の不安と期待が僕の胸に押し寄せていた。もしかすると、この学年で新しい友達を作る最後のチャンスなのかもしれないと僕は自分に言い聞かせていた。僕はこの感じを以前味わった事がある。小さな規模の小学校を卒業して、街の中学へ進学した時も僕は、不安を感じながらも、大きな期待を抱いていた。中々理解して貰えなかった僕の世界に理解と興味を示してくれる友達が見つかるのでは無いかと、新入生の頃の僕はワクワクしていた。しかし、その期待はすぐに裏切られて、僕は1人図書室に籠るようになってしまった。
「今度は、ちゃんとやるんだ。」
僕は、そう独り言ちた。かすかに聞こえていたチョークが黒板を叩く音が消えた。ハッとして、僕は前を見た。先生が僕を見て笑っていた。
「そうだぞ、南雲。今度は、ちゃんと授業を聞いとかないとな。珍しいな、今日、二度目だぞ。いや、1年で2回目だな。よし、ここの数式の導出を前に出てやってみろ。」
教室にクスクス笑いが響いた。ばつの悪くなった僕は下を向きながら黒板の前へと進み、早く席に戻りたい一心で一片の迷いなくチョークを黒板に走らせた。板書を終えて先生の顔を伺うと、先生は目を丸くしていた。
「なんだ。聞いてたんだ。ごめんな。独りごと言ってたから授業聞いてないのかと思ってたよ。」
「せんせーひどーい!」
先生が僕に向かって弁明を述べると、クラスのお調子者が先生をからかった。再びクスクス笑いが教室に響いた。いじりの対象が僕から先生へと移行した事を察知した僕はそくさくと自席へと着席した。その後、僕が徹君の方を見てみると、徹君は僕の顔を見て微笑んで、口元を動かした。
「さすが」
徹君がそう言った気がしたので、僕も微笑み返して口元を動かした。
「まあね」
僕の返事を見た徹君はまた微笑むと、黒板の方を向いてしまった。僕も彼に倣って、真っすぐ黒板の方を見る事にした。季節はもう冬至へと近づき、これから一年で一番寒い季節へと向かっていくというのに、あの時の僕の心はあの一年で一番温かかった。




