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 逃げられない招待状がやって来た。

 王宮からの舞踏会の案内状である。賢者となったという叔父からも、必ず来るようにと念押しされてしまったようだ。

 セバスチャンはそれをイザベラに伝えると、大きくため息をついた。


「……仕方がないわね」


 イザベラは真っ白な顔をもっと蒼白にして絞り出すように言った。


「何時かは逃げられないと思っていました。準備をしてください」


 断頭台に向かう罪人のような顔つきのイザベラを、不憫に思ったのだろう、使用人たちがザワザワと騒めく。


「ドレスを作りましょう」


 ざわめきを断つようにオレは声を上げる。少しでも空気を和らげたい。


「ご主人様をとびっきり綺麗にするドレスを」

「ジャン、お前が中心になって見立てなさい」


 セバスチャンが命じた。イザベラはまだ戸惑っているようだった。


「そして、お前の分の服も一緒に仕立ておくように」


 暗に一緒に行くことを命じられる。オレは思わず嬉々として頷いた。




 黒い髪に黒い瞳、雪のように白い肌。

 シルバーのボールガウンには、惜しげもなく最高級のビーズと真珠を散らして、ランプの光を反射する様は、そこだけ雪が降っているようだ。細いウエストを強調する大きなリボンは、深く艶めく貝紫のレース。長く伸びるストレートの髪には、雪の女王のような真珠の髪飾り。

 メイドが磨き上げた肌に、いつもより濃いめのメイクを施されたイザベラは、白雪姫の様に可憐だ。 

 オレはイザベラにリンクするように、イザベラのドレスと同じ布のポケットチーフだ。


 ホールの入り口に立てば、ざわめきが一瞬止まった。まるで、雪の妖精イザベラが音を吸ってしまったかのように、シンとして視線が集まる。

 イザベラは表情を凍らせたまま、ただただ様子を見ている。

 俺はその細い腰を抱き寄せた。

 その瞬間、静寂は一瞬で増幅されたざわめきに変わり、オレ達を包んだ。


 好奇心の視線の中で王への挨拶へ向かう。イザベラは特訓の成果を発揮して、そつなく挨拶をこなす。脇に控えていたのはイザベラの叔父らしく、気さくに声をかけてきてくれたので、二人でホッとする。


 とりあえず、すべき仕事を終えて王の前から下がれば、好奇心をあらわにしたご婦人に声をかけられた。


「お久しぶりですわね。イザベラ様、社交界にはお出ましにならないのだと伺っていましたが」

「……この度、兄の代わりを務めることになりましたので」


 イザベラは表情も変えずに答えた。


「そちらは? 何度かお見掛けしたことがありますが、今のお名前は何というのかしら?」


 仕掛けるようないやらしい顔で尋ねてくるメギツネに対して、イザベラはきょとんと瞬きをした。

 嫌味がわかっていないのだ。


「ジャンですわ」

「社交界では有名な方でしてよ。愛の悪魔なんて呼ばれていましたが、……実際はどうなの? 離れられないほどお上手?」


 メギツネが下卑た顔で笑う。


「私より詳しいのですね」


 イザベラは裏もなくニッコリと笑い返した。

 メギツネは、憎々し気にオレを睨みつけてドレスを翻した。


 性奴隷を脇に従えながらも清廉な物腰のイザベラに、男たちの目の色が変わる。ひしひしと伝わってくる熱視線からイザベラを守るように、力強く腰を抱く。

 イザベラはその様子に呆れたように、胸を押して距離を取る。


「もう大丈夫よ、そんなに心配しなくても慣れて来たわ。あなたのおかげであまり恥をかかなくて済みそうよ。……準備してくれてありがとう」


 イザベラはそんなふうに笑うけれど、ちっともわかってやいやしないのだ。


「イザベラ嬢」


 ダンスの誘いがかかる。イザベラは戸惑うように瞳を泳がせたが、差し出された手を取ってフロアに出る。

 今日のために練習してきたダンスは、下手には思われないレベルには育っている。少しの間違いは、長年の引き籠りから考えれば御愛嬌というところだろう。

 何人かの相手をしたところで、イザベラがオレの元へ帰って来た。オレは疲れた様子のイザベラに飲み物を用意してやる。


「さすがにここは断れなかったみたいだね」


 マルチェロがやって来た。イザベラは体を固く強張らせる。


「僕とも一緒に踊ってくれるだろう?」

「主人は疲れております」


 オレが断りを入れれば、マルチェロは不機嫌に顔を歪める。


「本当にお前は躾がなってないな。僕はイザベラと話しているんだよ」


 イザベラはうつむいたままだ。マルチェロはその顔をしたから覗き込むようにして顔を近づける。


「ねぇ? イザベラ、もしかして躾けられてるのは君の方じゃないよね」


 ギラギラとした瞳、息の上がった声、まるで獣のようだ。


「『ジャン』といったっけ? コイツの評判はすこぶる悪い。かかわった女はみんな身を持ち崩すそうだ。君がそんなものに溺れる女だとは思っていなかったが、まぁ、今回だけは大目に見てあげるよ。叔父様の不幸もあるしね、君が血迷っても仕方なかったさ、でも、目を覚ませ」


 イザベラの首筋に嚙つかんばかりの距離で、マルチェロが続ける。


「セシリオは知っているのかい? 君が性奴隷なんかを飼っているってことを。あの家はセシリオのものだろう? 君が食いつぶしていいものじゃない」

「わかっています」


 イザベラが絞り出すように答えた。声が震えている。


「ああ、賢い君のことだ。当然わかっているだろう。そんな奴隷を連れて歩いて女主人を気取るより、きちんと結婚すべきだと」


 マルチェロは笑った。


「君がその犬を捨て、僕にきちんと謝罪できたら、僕は君の過ちを赦してあげる」


 オレはマルチェロの顔を押しやった。


「我が主人は過ちなどありません。失礼します」


 イザベラの腰を抱いて、マルチェロに背を向けた。


「いい気になっているお前に教えてやるよ、『ジャン』それはリッツォ伯爵家で昔飼ってた犬の名前だ!」


 背中から撃ち抜かれるような言葉に振り返りそうになる。グッと唇を噛みしめて、イザベラの背を押した。


 今更じゃないか。何をいまさら。イザベラの中で俺は飼い犬くらいの価値しかない。今までだってそうだった。どの主人もオレをペットとして可愛がった。それでよかったじゃないか、それ以上は迷惑でしかなかったじゃないか。


 それなのに、そのはずなのに、なぜか悲しかった。悲しくて、悲しくて、この場にいたくなくて、グイグイと強引にイザベラを庭へと連れ出す。

 もう嫌だった。


 あれ以上、他人に見せたくなかった。見られたくなかった。


 王宮の明かりが薄くなるほど二人で黙って歩く。

 心細くなるほど細い柱の先に、仮設のランプがポツポツと吊り下げられていた。

 そんな暗がりの庭の中でも、ドレス姿のイザベラは雪のように美しかった。


「すいませんでした……」


 そう頭を下げる。


「いいえ。ありがとう、すっきりしたわ」


 イザベラはそう言って笑った。


「マルチェロ様がおっしゃることはすべて正しいわ。でも、あの方には簡単に見えることが、私にできるとは限らないのよ」


 小さくため息をつく。


「簡単に結婚結婚と言うけれど、私には無理よ。リッツォ家を当てにされても、私に相続権はない。何も持っていない私なんか誰が望むと思うのかしらね」


 イザベラは肩をすくめた。


「オレはあなたが欲しい」

「ありがとう、ジャン」


 イザベラは聞き流して笑う。

 暗がりの中で木の葉がかすれた声を上げる。恋人の秘密を隠してしまう月のない夜。それなのに、この人はみじんも疑ったりしないのだ。


 引き寄せて抱きしめて、その首筋に顔を埋める。体温で立ち上がってくる、白粉おしろいの甘い香り。


「ジャン?」


 首筋に鼻を押し付け、耳元へゆっくりとなぞりあげる。大きく開いた背骨のラインを確認するように掌を這わせる。

 ビクリとイザベラが慄いて、戸惑ったように声を上げる。


「ジャン?」


 それでも、逃げ出さない。押し返さない。そんなだと、そんななら。


「っ!」


 耳たぶに唇を寄せれば、イザベラは大きく背をのけ反らした。

 

「やめなさい、こんなところで」

「こんなところで? こんなところだからです」


 植込みのそこかしこで、恋人たちが唇を合わせている。暗がりで顔が見えないことをいいことに、夜の逢瀬を楽しむのはこの社交界の暗黙の了解だ。


「いやよ! 帰るわ!」

「オレがそんなに嫌ですか?」

「そんなことは言っていません」

「だったら、なんで」

「私たち恋人同士じゃないわ。こんなところでキスする理由がないでしょう?」

「理由がなければしちゃいけないの?」


 イザベラは固い声で答えた。


「キスは好きな人とするものだって、お母さまが言っていたもの」


 パチン、頭の中で何かが弾けた。いや、胸の奥だったのかもしれない。


「犬とは無理だと、そうおっしゃる」

「そんなこと言ってないわ」

「そうにしか聞こえない」


 オレが好きではないから、キスはできない、そう言っているじゃないか。

 オレはこんなに好きだって、貴女が欲しいと言っているのに。


 オレはイザベラの細くとがった顎を捕まえた。


「放しなさい」

「嫌だ」

「無礼よ」

「オレは無礼を許されている」


 空しくて悲しくて、ムシャクシャとして、それなのに愛しくて。

 大切で大事なのに、だからこそ傷つけてしまいたい。


「痛いわ!」


 オレの方がもっと痛い。ずっとずっと痛かった。


「オレが貴女を好きだから、オレは貴女にキスをする」

「っな!」

「好きな女にキスをする」


 理由ならある。反論なんか許さない。胸を押し返す手の力。必死なのにたわいもない。

 抑え込んで唇を合わせ、むちゃくちゃに蹂躙する。初めてだからなんて知らない、色々なものが混じり合って、鼻の奥が痛くなる。

 弱々しくなる抵抗、ぐらつく腰にグッと力を込めて抱きしめる。鼻の奥から漏れる吐息が、イヤらしくオレを煽る。このままどこかへ連れ去ってしまいたい。こんな汚い世界から隠してしまいたい。違う、もっともっと、汚してしまいたい。オレと同じように泥まみれの犬にしてしまえ。

 

 グラグラにおぼつかない足もとの癖に、ギリギリのところで唇に噛みつかれ、あまりの拒絶に心が凍った。緩やかに顔を上げれば、ホロホロと頬を伝う涙が真珠のように美しい。


 傷つけても、こんなに美しいままだから。


「……なんで、ジャンが泣くのよ……」


 鼻声で非難されて、慌てて頬を拭った。


「私と違って、あなたはたくさんしてきたのでしょう? 初めてじゃないんでしょう?」


 確かにたくさんのキスを知ってる。だけど、自ら望んだキスは初めてだった。ましてや奪ったキスなど初めてで。


「ごめんなさい。犬に嚙みつかれたと思ってください」


 素直に頭を下げる。


「……嘘ではない、のね?」


 イザベラが俯いて問うた。真っ赤な顔だ。


 息を飲む。


「本当です」


 伝わった?


「ならば、許すわ」


 ふいとイザベラは背中を向けた。その汗ばんだ背中まで桃色に色付いていて、思わずもう一度、そう手を伸ばそうとした、その時。


「何にも知らない乙女のようなふりをして気を引くなんて、さすが頭の良い方は違いますわ」


 刺々しく懐かしい声が、闇夜の中にスルリと入り込んだ。


「ねぇ、そんなに嫌ならちょうだい。泣くほど嫌なら私に返して」


 振り返れば懐かしい女が幽鬼のように佇んでいる。そういえば濃い赤の好きな女だった。唇もドレスも髪飾りも赤。贈って喜ぶ花は真紅の薔薇。前の主人、男爵夫人だ。


「アルベルト、帰ってらっしゃい。私ならあなたを愛してあげるわ。知ってるでしょう? 愛してあげるから。もっと素敵な服を買うわ、靴だってたくさん買ってあげたでしょう? 時計は? カフスも、黒ダイヤ買ってあげる。あなたが一番綺麗に輝くように、一番のものを望みのままに買ってあげるわ」


 媚びるような声に、オレは背を向けた。もうオレはアルベルトじゃない。

 夫人の後ろに立つ男は新しい奴隷なのか。ただの侍従なのか、目をそらして止める気配を見せない。


「ねぇ、アルベルト、こっちを向いて」

「夫人、オレはもうこの人のものだ」

「でも、望まれてないわ。キスぐらいも許されないで、首輪すら貰ってない」


 その言葉に顔が強張る。


「男爵夫人……彼は私に必要です」


 イザベラは困った様子で夫人に答える。


「リッツォ伯爵家の深窓のご令嬢、イザベラ様は聖女をお望みとの噂でしたのに、こんなことではいけませんわよ。もう少しの我慢なのでしょう? 欲情になど流されてはいけません。わたくしが愁いを取って差し上げますわ」


 ニィと赤い唇が不気味に微笑んだ。


「ねぇ、アルベルト。あなたも聖女様の行く手を阻んではなりませんよ。私と参りましょう……!!」


 イザベラが不思議そうな顔で、オレと夫人を見ていた。何が起こったかわからない、そんな感じな。


「好きよ、アルベルト。あなたもそう言っていたじゃない。嘘だったの? 嘘じゃないでしょう? ねぇ、私にも本当だと言って! お金で引き裂かれない真実の場所へ行きましょう?」


 『あなたも』だって? 『私にも』だって?


 身も凍るようなセリフ。何度も嘘で好きだと言ってきたことが、今更ながらに突きつけられる。仕事だと割り切って、お金だと割り切った愛の言葉。こんなオレの唇から告げられる言葉を、聡明なイザベラが信じるわけはなかったのだ。


 男爵夫人はかんざしを髪から引き抜き、オレに襲い掛かった。真っ赤な長い髪が乱れて散らばる。

 オレは夫人の両腕をかろうじて捕らえる。


「新しい首輪をつけてあげる。とれない首輪があれば良いでしょう?」


 夫人のかんざしはギリギリとオレの首を狙って力を込めてくる。喉の皮膚に冷たい鉄の感触。


「ご主人様! 逃げてください!」


 オレの声に、イザベラは助けを求めるように周囲を見渡した。

 逢瀬の恋人たちの騒めく気配。好奇心丸出しで見ているのに、誰も止めない。かかわらない。きっと痴話ゲンカだろうと覗き見しているのだ。


 いつだってそう。誰だってそう。人の不幸は面白がって高みの見物。大したことじゃないと、ふざけてるんだろうと、それくらい、なんて思って助けたりなんかしない。


 イザベラは困ったように両手を胸の前で握りしめた。震えている。いつも外に出ない、ひきこもりの彼女にはどうすることもできないのだろう。


 でも、このままだと彼女も傷付けられる。


「イザベラ! 逃げろ!」


 初めてイザベラの名を呼んだ。こんな風に叫びたくなかった。


 イザベラの唇が小刻みに震えている。


 オレの首筋に赤い筋がジワジワと伸びる。


 イザベラの震える手が、ランプの下がった細い柱に手が触れた。その瞬間に、イザベラはハッとしたように顔を上げた。

 そして何を思ったか、その柱にもたれ掛かる。不安定な柱が倒れて、オイルに火が燃え移る。


「ひ、火よ! ……火事、火事よ!!」


 イザベラは大きく息を吸い込んで、あらん限りで叫んだ。

 初めて聴いた大きな声。


 闇の中からザクザクと警備隊が現れる。火元はどこだとイザベラを見れば、イザベラは真っ赤な男爵夫人を指さした。警備隊は無言で、男爵夫人を取り押さえる。彼女は、クスクスと笑っている。


「聖女になるだなんて気取ってたって、同じじゃない」


 投げつけられた言葉に、イザベラは硬直したように立ちすくんでいた。唇が震えたまま、声も出ないようだった。

 オレは慌ててイザベラを抱き抱え、その場を離れる。お咎めは後で受けようと思った。

 こんな薄汚い場所に、イザベラを置いて置きたくなかった。


 



 




 




 あれからイザベラは熱を出して、部屋にこもりきりだ。ショックが大きかったらしい。

 オレの首の傷は皮膚を傷つけただけで、瘡蓋がひきつってはいるけれど大したことはない。


 イザベラの寝室に入り、お茶を用意する。セバスチャンから預かった手紙を、サイドテーブルに置いた。

 そして透明の筒に浮かぶガラス玉の色をみて、隣に置かれたノートに数字を書き込む。これは温度計というものらしかった。その隣には結晶の張る瓶があり、その様子と天気を合わせて記入する。


 文字の書き方も、計算の仕方もすべてイザベラに教わった。


 イザベラが手紙を読み終えて、封筒に戻したのを確認してから、イザベラのベッドに横座りに腰かけて、額に手を当てた。


「大分よくなりましたか?」

「ええ、迷惑かけてごめんなさい」

「オレがトラブルに巻き込んでしまいました」

「貴方は被害者よ」


 イザベラはオレの首の傷に指をそっと伸ばした。


「キチンと首輪を付けるべきだったのかしら。そうしていれば傷つかなかったわ。わかるけど、でも、嫌だわ。私は嫌だわ」


 真面目な顔をして、唇を噛むからおかしかった。みんな当たり前にしてること。


「ご主人様が嫌なら、それで良いと思います」

「ジャンは欲しかった? あの人みたいに私、たくさんの物はあげなかったわ。知らなかったのよ」

「良いんですよ、そんなこと」

「でも、それが貴方の権利ではないの? 受けとるべき物は受けとるべきよ」


 イザベラは本当になにもわかっていないのだ。主人とは、与えたいものを与える。与えたくないものは与えなくて良いし、奴隷が欲しがる権利など無い。

 はじめの金と、死なない程度の衣食住。保証されなければならないのは、それだけだ。だから、奴隷なのだ。


「はじめからご主人様は、欲しいものは買って良いと仰った。だから、欲しいものは買っています」

「私の服ばかりじゃない」

「そんなこと無いですよ」


 不満げに曇らせる顔。可笑しくなって笑ってしまう。


「笑わないで、真面目な話よ」


 これ以上怒られる前に話を変えよう。


「どうしてあの時ランプを倒したのですか?」

「人はね、自分に火の粉が飛ばない限り、他人を助けたりしないからよ」


 何にも知らないようでいて、意外なことを知っている。


「……貴女は本当に聖女になりたかったんですね」


 部屋をみれば解る。壁を埋めつくす本たち。珍しいカラクリは星の動きをよむのだという。


「子供の頃の夢よ。叔父さまに憧れただけだわ」


 憧れだけで、難解な古い本を今の言葉に写しかえる仕事なんかできるだろうか。

 伯爵家の不幸さえなければ、この人は残りたった一年で念願の聖女になれたはずだった。

 あんな悪意だらけの薄汚い社交界に出ていく必要もなかったのに。


「他に方法は無いんですか。なんで貴女ばっかり犠牲にならないといけない」


 この人が夢を諦めなくて済む方法。

 夢のために守ってきたものを奪われ、夢も諦め、そしてセシリオが成人すれば守ってきた家から捨てられる。


 搾取されて搾取されて、最後には捨てられて、いくら身分がよくたって、こんなのは奴隷と変わらない。

 自由なんて、彼女にはもともと無いじゃないか。貴族なんていったって、ただ裕福な奴隷だ。


「犠牲じゃないわ、最善を選んでる」

「それは貴女の最善じゃない、選ばされてるだけだ」


 イザベラは小さく首をふる。


「私がセシリオの側にいたいの。それがたった十年しかないとしても、その十年は何にも代えられない。だから、それでいいのよ」


 オレはギュッと拳を握った。自分の未来を投げ捨てて、それでも側にいたいと思われるセシリオが羨ましかった。

 親も知らないオレは、そんなの理解できない。


「……明日伯母様が屋敷に来るそうよ。あの不祥事で心配をされているようなの」

「そうですか」

「覚悟を決めなくてはね」


 イザベラは蒼白な顔をオレに向けた。


「あ、」


 口に出してうつむく。


「ご主人様?」

「いいえ、なんでもないわ」

「仰ってください」


 指先が震えている。イザベラは大きく息を吸った。


「あ、明日、私の側に居てくれるかしら?」


 イザベラの震える指先を、オレの両手で包み込む。


「もちろんです」


 ニッコリと微笑んで見せる。イザベラはホッとしたように頷いた。




 明るい日差しのはいる応接間にシニョリーア伯爵夫人がいた。

 イザベラへの視線は穏やかだが、オレにはあからさまな嫌悪を向ける。まるで、昔のセバスチャンのようだ。


 たわいもない昔話で場が温まった頃、夫人が貴族の顔で微笑んだ。


「イザベラに大切な話があります。人払いを」


 そう言って、オレを見た。さがれと言う意味だ。

 イザベラは喉をひきつらせた。


「……こ、ここ、には、人などおりません、わ。伯母様」


 自分で口にしながら不本意なのだろう、イザベラはギュッとスカートを握り締める。

 シニョリーア伯爵夫人はため息を吐き出した。


「貴女は本当に不器用で困ったものね」


 イザベラはビクリと体を縮こまらせた。


「うちの馬鹿息子(マルチェロ)のせいだともわかっています」


 シニョリーア伯爵夫人は苦笑いした。


「そして、私もバカ親なのよ。ごめんなさいね。イザベラ」


 夫人は頭を下げてから、イザベラを見据えた。


「マルチェロと結婚なさい。セシリオの後見人に二人でなれば良いわ。それが一番いい道だと貴女だってわかるでしょう?」


 イザベラは俯いた。


「伯母様のお考えはよくわかります。しかし、……マルチェロ様にはさぞやご迷惑なことでしょう」

「あの子は関わりかたがネジ曲がっているだけで、貴女のことが好きよ。未だに腰を落ち着けられないくらいにはね。迷惑どころか喜ぶでしょう」


 イザベラは困ったようにオレを見た。


「奴隷のことは聞いています。でも、イザベラ、貴女のことです。使えてなどいないのでしょう?」

「そんなこと!」


 夫人は小さく笑う。


「もし使えていたとしても、それは些末な問題よ。イザベラ。悪いようにはしないわ。あのバカ息子にはよく言って聞かせるし、私が貴女の一番の味方になります。ただ、聖女の印についてだけは、どうか我慢なさい。バカ息子が嫌なら嫌でいいわ。その子がいいならそれでもいいのよ。交合っておしまいなさい」


 イザベラは困ってしまって体を小さくするばかりだ。


「そしてその奴隷を解放してあげて」


 その言葉に、イザベラは顔を上げた。驚いたように目を見開いてオレを見た。

 唇が小さく『解放』と呟く。悲痛な顔で、もう一度『解放』と呟いた。


「オレはそんなこと望んでいません。そもそもご主人様に縛られてすらいない」


 そう答えれば、シニョリーア伯爵夫人は呆れたように笑った。


「イザベラらしいというのか……」


「イザベラはそのままではいけないのですか?」


 オレは思わず口を挟んだ。


「何を言っているの?」

「聖女にならなくても、仕事は続けられるでしょう。今まで通りこの屋敷で、今まで通りに生きればいい」

「いつかはセシリオが妻を迎えるでしょう。そのときにイザベラの居場所は無くなるわ」

「そうしたら、イザベラ。オレと一緒においでよ」

「何をばかみたいなことを!」

「大きな家は用意できないけど、贅沢はさせてあげられないけれど、でも仕事の邪魔はしない」


 イザベラはオレを見て、それはそれは綺麗な笑顔で微笑んだ。


「ジャン、ありがとう。貴方のおかげで気が付いたわ。私、そうね、私、聖女じゃなくてもできることがあるのね」

「そうだよ」

「今と変わらないだけだものね」


 オレは力強く頷く。


「そうだ。イザベラは聖女じゃない今だって、立派な仕事を残してる」


 イザベラは頷いた。


「ごめんなさい。伯母様。やっぱりシニョリーア家に嫁ぐことはできません」

「イザベラ! 目を覚ましなさい!」

「夢を見ているわけではないの。私がセシリオの後見人のまま嫁ぐことで、シニョリーア家にあらぬ疑いをかけられるのは嫌なのです」


 シニョリーア伯爵夫人は黙った。


「……わたくしもそれは考えました。それでも、きちんとセシリオを成人させれば疑いなど晴れるでしょう?」

「ええ、晴れます。でも、シニョリーア家が疑われること自体を私は良しとしません」

「でも、そうしたら貴女は……、あなたはそんな得体のしれない男を信じるというの? 幸せになれないわ。身分もお金も失って、考えるより大変なのよ? イザベラお願い、我慢してちょうだい。一時の甘い言葉に惑わされないで」

「優しい伯母様」


 イザベラは微笑んだ。


「ありがとうございます。私はジャンと一緒になろうと思っているわけではないの。リッツォ家の身分自体が重荷なのにシニョリーア家の名など、とても背負えません。だったら、全てを失った方が私らしく生きられるのだと、今気が付いただけなのです」

「重荷ですって」

「嫌いなわけではないわ。大事なのよ? でも、伯母様、私は着飾ることも知らないし、上手く話すこともできないの。伯爵夫人などとても務まらないわ」


 シニョリーア伯爵夫人は大きくため息をついた。


「イザベラは本当に末の弟によく似ていること」

「叔父様に?」

「強情だわね」

「……申し訳ありません」

「でも、その真っ直ぐな性格は誰よりも研究者向きよ」

「伯母様!」

「わかりました、好きなようになさい」


 シニョリーア伯爵夫人はそう言うと席を立った。



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