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首に下がる武骨な鉄の鎖と、これ見よがしの南京錠。
オレは奴隷No.1919194。名前はまだない。購入したご主人様が新たにつける。そういうものだ。薄い茶色の髪は蜂蜜に例えられ、紫色の瞳はブドウ酒に例えられる。主な仕事は、色恋にまつわることだ。いわゆる、性奴隷。
オレは十八歳にして、すでに三度目の出戻りである。
けして能力が低いわけではない。その逆だ。能力が高すぎるために、オレを買ったご主人様は恋に溺れてしまうので、最終的にオレはご主人様の親族に嫌われて、店に戻されてしまうのだ。
しかし、それはオレにとって悪いことでもなかった。箔がつくのだ。おかげで、オレはこの町で一番高値の性奴隷である。
その上、オレが店に戻されるのを待っているお客もいるから、買い手はすぐにつくのだ。そしてより良い条件で買われることになる。それは生活の安定を意味するし、収入が増えることでもある。奴隷の買い取り金額の半分は、奴隷自身に入るからだ。
オレの夢は、最終的に自分の権利を買うことだ。奴隷を辞める。そして、安くて低い地位でいいから、貴族の地位を買う。
「おい、行き先決まったぞ」
店の主人が下卑た顔でオレに笑いかけた。オレもそれに笑って答える。
「へぇ? 昨日、顔見に来たマダム? それともおとといのご令嬢?」
お客は、未亡人はもちろんだが、未婚で処女の令嬢もいる。
この国では、二十五歳までに異性と交わらなければ、手の甲に賢者の印が浮き出てくるのだ。と同時に、一般人の持たない不思議な力を手にいれることができる。
癒しの能力だったり、ずば抜けた記憶力だったり。性格的にも達観し、穏やかになってゆく。彼らは、賢者・聖女と呼ばれ、宮廷や学校、教会や病院などで、教育や政治、治癒などにまつわる仕事に就くのが常識だ。それは高貴で尊敬を集める職業でもあった。
だからこそ、その仕事に憧れるものも多く、あえて禁欲をし、その力を手に入れるものも多い。ただし、手の甲に賢者の印を持つものは、俗世とは縁を切り、家族を持てないことが決まりとなっていた。
逆に言えば、二十五までに交わらなくては賢者の印が出てしまうから、結婚相手が決まっていない跡継ぎのご子息ご令嬢などは、正式な結婚前に奴隷で交わりを済ますことも多いのだ。
賢者の印が出てしまっては、家を継ぐことができない。
変な相手を選んで、お家乗っ取りだとか、風評被害にあうよりは、自分の家で購入した奴隷で済ませてしまえば心配はない。
性奴隷は見た目が美しいし、社交界に連れて歩くのも一種のステイタスですらあるくらいだから、それを持つことは恥ではない。豪華に着飾らせて自慢するペットの一つと言うわけだ。
だから、ぶっちゃけ結構美味しい仕事だったりする。上手くやれば、衣食住は十分すぎるほど与えられるし、下手すれば平民の男からは羨望の眼差しで見られる。
「いや、お前の顔は見に来てない。何しろ、ここいらあたりで一番の奴隷を探しているお人だ。誰でも落とせる手腕が欲しいとのことだ。お前の話をしたら即金で一千万って言いやがった」
「一千万!?」
「ああ、すでに狂ってやがる」
一千万レラといえば、奴隷相場の百倍だ。俺は前回百万レラで売られた。それだって破格だった。
そして、奴隷が平民の権利を買うのに必要な金額は五百万レラ。奴隷売買の半額は奴隷のものになる。
ということはだ、その支払いが済んでしまえば奴隷は自由を手に入れるのだ。だから一般に奴隷売買はどんなに高くても一千万レラを超えることはない。
「どういうことだよ……。オレに自由になれってか?」
「さぁね。お代の半分は直接お前に払うそうだ。そっから先は知らねーよ。ただこっちにすれば、お前がソイツ食いつぶして戻ってきてくれたほうが稼ぎになる。お前も平民の身分を買うより、もう少しここで荒稼ぎして男爵の称号でも買ったほうがいいんじゃねーのか? どうする?」
「まぁ、どっちにしても、断るわけないよな」
「うまい話すぎて怖くねーか?」
「たしかに」
行ったその場で殺されたりして。
奴隷なのだ。危ない橋がないこともない。殴るのや、いたぶることが好きな主人もいる。逆に、殴られたり、いたぶられたりするのが好きな主人もいるが、そういうのは黙って殴ってやればいい。
「でもまぁ、死んで惜しがる命でも無し、行くだけ行ってみるさ」
「だったら、待ってるぜ」
「もう?」
「ああ」
ドアを開けば、燕尾服姿の老紳士が立っていた。片目の眼鏡が光る。老紳士は、店の主人に布で包んだ塊を渡した。きっと五百万レラだ。
思わずゴクリとツバを飲み込む。
店の主人はヘコヘコと頭を下げて、南京錠の鍵を老紳士に渡した。これで契約成立という意味だ。店の主人は、そそくさと去っていった。
コイツがオレを買ったのか。今までは女ばかりを相手していたが、そういうことか、納得もいく。
嫌なら五百万レラを手に入れてから、嫌われるように仕向けるか、隙を見てトンズラこけばいい。そう思った。
「こちらへ」
低く清んだ声は、嫌悪でオレを突き刺してくるようだ。少なくとも、オレが欲しくて手に入れたというような、こびるような声ではないから薄ら寒い。
オレは黙って愛想笑いを振りまいて、店の裏に付けられた馬車に乗り込んだ。黒い馬車はシンプルだが上質だ。家紋の装飾などはない。
門をくぐり、長いこと中庭を走りたどり着いたエントランス。広々とした緑の庭は、手入れの行き届いた芝で開けている。建物の周りには色とりどりの薔薇が咲き誇る。
重厚で対称的なレンガ造りの大きなお屋敷。白いアーチと窓の枠が、煉瓦のオレンジに映えて美しい。
性奴隷を飼う様な淫靡な雰囲気は微塵もない。まっとうな健全さで拍子抜けする。
もう少しオドロオドロシイ郊外の別宅にでも連れ去られて、地下牢にでも押し込まれるのかと思ったら、そうではないらしい。
恐る恐る促されるままに老紳士へ付いていく。
明るい広間には、大きな花瓶に新鮮な花が飾られている。派手ではないが優雅だ。
何が目的なのか見当もつかない。
通された応接間に入ると、中には黒いワンピースで化粧っ気のない顔をした女がいた。まるでメイドのように地味だ。でなければ修道女だ。
真っ黒の髪を二つに分けておさげに結っている。真っ白な肌の色は病的ですらあり、色白は七難隠すのかもしれないが、それ以上の怖さを感じた。
「お連れしました。お嬢様」
お嬢様?
老紳士は彼女に礼をした。彼女はゆっくりと頷いた。そして、オレに椅子を勧める。オレは言われた通りに彼女の前に座った。
「私は、イザベラと申します。この屋敷の女主人です。今日からあなたの主人です。あなた、名前は?」
色恋など知りませんなどという顔で、この町で一番上手い性奴隷を呼び寄せる色情狂に、オレは思わず舌なめずりをした。
面白いじゃないか。
「ご主人様がお好きなようにお呼びください。奴隷とはそういうものです」
従順な顔をして、作り声で定型文を答える。名前なんか初めからない。みんな勝手に呼ぶ。
初恋の相手だとか、思ってはいけない相手だったり、死んでしまった旦那の名前。俺はいつだって、そういった名前で呼ばれてきた。
「困ったわね」
イザベラはため息をついた。
「皆さんはどんな名前を付けたの?」
「この間までは、アルベルト、その前はレオ、マルコって言うのもありましたね」
「その中に気に入っている名前はある?」
「まさか! 新しい名を付けてください。貴女のための名前で、貴女に呼ばれたいのです。ご主人様」
今までの主人をいちころに転がしてきた完璧な微笑をたたえて、すがるようにイザベラを見つめた。
イザベラはオレのキメ顔を見て顔を赤く……していないだと?
イザベラは心底めんどくさそうにため息をついた。
「そうねぇ、だったら、みんなの名前から一文字ずつ。アレマにしましょうか」
のんびりした声に、老紳士が小さく吹いた。そして、取り繕うようにゴホンと咳払いをする。
あまりの適当な名前の付け方に愕然とする。
「ちょ、それはないでしょ!?」
思わず突っ込めば、ギロリと老紳士がオレをにらんだ。そうだった、オレが逆らっていい相手ではない。
「申し訳ございませんでした、ご主人様」
慌てて頭を下げる。
「うーん、アレマは嫌なのね。そうねぇ、そうねぇ……」
イザベラは真剣に考えているようだ。
「だったらジャンはどうかしら?」
暫くして、イザベラはオレを見てそう言った。
「はい、喜んで!」
アレマよりずっといい。骨を見せられた犬のように飛びつく。それ以上変な名前を付けられたくない。
「では、ジャン、あなたの仕事を言いつけます。私は次の誕生日で二十五になります。それまでに私と交合いなさい。交合った時点であなたの契約は終了します。もし今夜できれば、今夜中にはあなたは自由の身になれます。宜しいですか?」
真昼間の明るい応接間でする話ではない。
トン、とテーブルの上に五百万レラが置かれた。
「これはあなたの代金です」
ゴクリ、生唾を飲む。自由を手に入れられる金額だ。
「これを受け取ったら、あなたは今日から私の私室に自由に入ることができます。どんな無作法も咎められません」
イザベラは業務連絡を告げるように感情なく言い切った。まるで乱暴を認めるような言い方だ。
しかしこれは、彼女の初めてなのだ。そんなに粗末に扱うものではない。それくらいオレにだってわかる。
「ご主人様! どうしてオレを? どこかで見かけたことがあるのですか?」
何でこんな役にオレを選んだのか。どこかの社交界で見かけたのだろうか。オレを連れて歩くマダムもいたからその可能性もある。顔の良いオレは実際声をかけられることもあったし、引き抜きの打診も受けたことがある。オレに一目ぼれしたご令嬢のために、主人の命で一肌脱いたこともある。
そうやって何処かで見初めたなら、理解もできる。一目ぼれの相手に捧げたい、そういうことなら話は早い。
「いいえ。あなたの事は今日初めて拝見しました。時間がないので確実に契約を果たしてくれる者を探していただけです」
ガツリと否定される。
「断ったらどうなるんですか?」
「だったらそれで良いわよ。他の者を雇うだけだわ。どうしますか?」
イザベラは真っ直ぐな目でオレを見た。黒い瞳はオレを心に映していないことがありありとわかった。
どうしますか、なんて買った奴隷に聞くなんてありえない。
普通は店が金を受け取った時点で、オレたちに選択肢はない。殴られようとも蹴られようとも、ニッコリと微笑んで『ご主人様のおおせのままに』そう答えるように躾られてきた。
オレはどうしたらいいのかわからなかった。
こんな判断を自分でしたことがなかったからだ。
逃げることは考えても、断れる、そんなことを想定していなかった。
だけど、オレが断ったら、この女は他の性奴隷に乱暴に扱われるかもしれない。そういう趣味のやつもいる。
大体オレたちは買主を快く思ってはいないし、この身上から逃げられるならちゃっちゃと逃げたいのだ。ムカつく身分の女を痛めつけた上に、金も貰らえて自由になれる。より残酷に痛めつけたい、そう思うものがいたっておかしくない。いや、多いだろう。オレだって、まったくその気がないわけじゃない。
そう考えたらゾッとした。
「契約させてください」
答えは一つだ。
答えれば、イザベラは俺の首にかかる鎖の錠を外した。ジャラリと重い鎖が、病的にまで白い掌に落ちた。
新しい首輪をつけられるのだろうと、大人しく顎を上げて待っていたら、イザベラは不思議そうな顔をした。
首輪は奴隷の証だ。逃げても逃げきれないように付けられる。まぁ、金さえ払えば秘密裏に外してくれる裏の稼業もあるけれど、金がなくては逃げられないようになっている。
「どうしたの?」
「あの、新しい首輪をつけるのでは?」
「そんなの嫌よ、みっともない」
イザベラは嫌悪感を丸出しにして吐き出した。
今までの屋敷では豪華な首輪を用意されていた。肌当たり良く鞣された革をきらびやかな宝石で飾り立て、家の家紋をゴールドのプレートにして付けるのが流行っていた。
美しい奴隷はステイタスなのだ。
「それにこの屋敷には子供がいるの。まだ、その子に性奴隷の存在を知られるのは嫌なのよ」
「承知いたしました」
オレは頭を下げる。スカスカした首元が、なんだかこそばゆかった。
いつでも逃げ出せるという心の軽さと、なぜかわからない不思議な不安感。これはいったい何だろう。
逃げ出すとは思わないのだろうか? 疑うことを知らないような世間知らずのお嬢様。
「では、セバスチャン。ジャンに家を案内してあげてちょうだい」
「承知しました。お嬢様」
イザベラはそう言って部屋を出て行った。
残されたのは不機嫌そうな老紳士とオレだけだ。オレは呆然とする。
「行くぞ、ジャン」
セバスチャンと呼ばれた老紳士に呼びつけられ、オレは慌てて席を立った。
無言で進む背中は悪意でささくれだっていた。よくあることで慣れている。男から見ると、オレみたいなモノは認めたくないらしい。
業務感丸出しで、屋敷の中を案内される。
「ここがお嬢様の私室だ。お前の部屋はこの上の三階に用意した」
オレに用意された部屋は、立派な客室で驚いた。バスやトイレまでついている。
普通はじめにあてがわれる部屋は、良くても使用人と同じ屋根裏部屋で、集団生活だ。
まあ、だんだん時間がたてば主人の部屋に入り浸りになるのが常だけれど。
「良いのでしょうか」
「お嬢様の命令だ」
命令なら従う。
「明日には仕立て屋が来る。他に欲しいものがあるなら言え。用意させる」
それだけ言って、セバスチャンは出ていった。
深い緑の壁紙には精巧に描かれた金の蔦の柄。重そうなカーテンはえんじ色。洗い立てのベッドのリネン。
テーブルには本が何冊か。一冊は聖書。よく見かける花の表紙は、有名な詩集だと聞いたことがある。もう一冊は見たことのない本。文字の読めないオレにはよくわからない。
飾られた小さな絵。小さな花瓶。大きな鏡は金色の縁取りが華やかだ。銀細工の凝った置き時計。テーブルの上の小鉢にはチョコレートが入っている。
自分の部屋。初めて用意された、一人だけの部屋。まるで客人のような扱い。
ジワジワと胸の奥が熱くなって、それと同時に苦しくなる。にやけてくる唇は嘘じゃないのに、コイツらだけが当たり前のように持っている空間に憎しみが募る。
ツンと尖ったイザベラの鼻を思い出した。へし折ってやりたい。何にも知らない世間知らずを、オレの啜ってきた世間の泥で汚したい。苦しさや辛さを知らないような、お嬢ちゃまを泣かしてやりたい。
オレは乱暴に上着を脱ぐと、ベッドに投げつけた。
イザベラの部屋に行こう。そうして今すぐにでも片をつけて、明日には自由の身だ。
ツカツカと石造りの廊下を小走りにイザベラの部屋へ向かう。
ドアの前で息を整え、営業スマイルを張り付けた。場数は踏んでる。わかってる。女がどんな言葉を望むか、どんな男を欲しがるか。
例えば、初恋の人。例えば、失った夫、結ばれない憧れの人。
だから、オレはそれを演じる。そいつらに言って欲しかった言葉を吐く。誰も、オレなんか欲しがってない。
上品にドアをノックした。固い声が、入りなさいと命じる。
オレはドアの内側に滑り込む。
オレに用意された部屋とは全く違う、シンプルそのものの部屋。壁は上までビッシリと本に埋め尽くされ、窓は北側だけ。窓の前に置かれた重厚な机の上にまで本が積み重なっている。
壁紙は模様の無い水色。置時計はシンプル。姿見すら無い。
おおよそ令嬢の部屋とは思えない。良くて書斎だ。ただ、ガラスのペン置きとつけペンだけが、その中で輝いて見えた。
「ご主人様」
「何かしら?」
「貴女のお顔がもう一度見たくてやって来てしまいました」
「……」
「大それたこととは思いますが、初めてあなたをみた瞬間、真実の愛に気がついたのです……!」
瞳をキラキラさせて、愛の言葉を囁けば、ご主人様は頬を赤く染め……てなかった!?
「御託は要りません」
「……本当です!」
ついた嘘は例えバレたとしても、最後まで突き通す。これが男としてのマナーだ。
「交合いに来たのでしょう? 寝室はこっちよ」
表情ひとつ変えずに、奥に繋がる扉を開いた。すべての壁は腰下まで本棚になっている。本棚の上には珍しいカラクリ物がたくさんだ。
壁にはさまざまな地図。昆虫が並べられたガラスケース。水の入った大きな筒には、色とりどりのガラスの球が浮いている。その横に開かれたノートにペン。何に使っているのかわからない。
中央に置かれた天蓋付きのベッドと、草臥れた犬のヌイグルミだけが女の子の名残に見えて、不自然に思えた。
「さあ」
イザベラはベッドに腰かけた。昼なのに薄暗い部屋は、小さい窓しか無いからか。
昼の情事にためらいすら見せないこの人は、きっとナニが起こるか解ってない。
オレは何とも言えない気持ちになった。少なくとも、良い雰囲気とは程遠い。
ゆっくりとイザベラの隣に座る。ギシリとしなったベッドに、イザベラが驚いたようにオレを見た。
怯えさせないように慎重に、そっと頬に手を沿わす。
「好きです。美しいご主人様」
「煩いわ。嘘は聞きたくない。黙りなさい」
イザベラはピシャリと答える。
「さっさと済ませて」
オレはイザベラをベッドに押し倒した。
硬い身体は緊張しているからだ。きつく目を閉じて、唇を噛みしめる女。微塵もオレを受け入れる気なんてない。
きっちりと首まで止められたボタンを一つ開ける。
ビクリと大げさに震える肩。
もう一つボタンを開ける。
ひ、と小さく声が漏れる。
怖いくせに、止めてと言わない。
指先までガタガタと震えているくせに、なにを偉そうに、さっさと済ませてだなんて。
なんなんだよ、この女。
胸糞悪くなる。こんな風に拒絶されたことはなかった。いつだってほしがるのは主人の方で、俺はそれに答えるだけだった。
「止めた」
オレは体を起こした。興覚めだ。
こんな屈辱初めてだ。嫌がる主人を無理やりになんて、町一番の性奴隷の名が廃る。
好きにならせてやる。
「なにを言っているの。早く終わらせなさいよ」
イザベラも起き上がる。
「無理」
「なんで! さっさと終わればあなたは自由なのよ?」
「ご主人様いやでしょう?」
「いやだとかいやじゃないとか関係ないのよ。私は二十五までに済ませなければならない。だから済ませるだけよ」
「なんで?」
「私は後見人だからよ。甥が成人するまではこの家にいなければいけない。聖女になるわけにはいかないの。あの子の身寄りがなくなってしまう。嫌だなんて言ってられないわ」
まくしたてる様にイザベラが怒った。怒りに燃える瞳が黒く光って綺麗だ。初めてむき出しの感情で見つめられた。
「でも、オレが無理です」
「アナタは上手だって聞いたわ! どんな相手でも文句ひとつ言わずに抱いて、誰をも虜にするって!」
「でも、無理だ」
「どうして」
「ご主人様、アナタはまだ幼過ぎます」
「はあ……? もう二十四よ。熟女の域だわ! 何言ってるの」
「あなたはまるっきり子供だ。身体は二十四かもしれないが、心はまるっきり子供だよ。ガキ過ぎて、全然抱く気になれない」
乱暴に言い放てば、イザベラはギュッと唇を噛みしめた。
「バカにして……。だったら……どうすればいいのよ……」
泣き出しそうな声だった。
「女性として魅力がないことは知ってるわ。だから、一番の性奴隷だったら我慢してでも交合ってくれるって、そう思ってあなたを買ったのよ。それなのに、無理だなんて、どうしたらいいのよ……」
悲痛な声だ。膝の上に握りしめた拳に、涙が落ちる。
「あの子を独りにはできないのよ。この家を失くすわけにはいかないわ。それには私がこの家を守らなくてはいけないのに、賢者の印が現れたらここにはいられない。時間がないのよ! 性奴隷にすら無理だと言われる女を、他の誰が交合ってくれるの?」
「焦らないでよ。ご主人様」
声をかける。年上なのにまるで幼子のようだ。守ってあげたくなってしまう。
イザベラは顔を上げた。瞳が涙で潤んでいる。
「『まだ幼い』といいました。もう少し時間をかけましょう?」
「時間がないのよ」
「一年あります」
「一年しかないわ」
「大丈夫です。オレが貴女を大人にします」
「……ジャンが?」
「ええ、オレが」
そう答えれば、イザベラは可笑しそうに笑った。
「馬鹿なことを」
「まずは、ご主人様、手を」
そう言えばイザベラは疑いもせずに、オレに右手を差し出した。
疑うことを知らない綺麗な心。
「綺麗な手ですね」
苦労を知らない綺麗な手。貴婦人の手。
「二十四歳おめでとうございます」
手の甲にキスを落とせば、イザベラは顔を真っ赤にした。
「……な!」
こんな儀礼的なキスで顔を赤くするなんて、意外すぎてこちらが照れる。
「今日が誕生日だったのでしょう?」
イザベラの瞳が涙で膨れ上がる。
「もう、だれも祝ってくれないと思ってたわ」
裕福だけれど悲しい人なのかもしれない。
その時オレはそう思った。
こうやって始まった新しい家の日々。オレはイザベラを見かけるたびに、甘い言葉で口説きまくった。綺麗に飾り立て、何人ものご令嬢を魅了してきた笑顔を作り、女の喜ぶ言葉を並べて尽くす。それなのにイザベラは、頑として聞き入れない。一瞬たりとも、心を動かしたりしないのだ。それどころか、冷たい目線で突き放す。こんなこと今までにはなかった。
もうひとつ、今までなかったこと。イザベラの屋敷では、オレの食事は使用人たちと一緒なのだ。今までの屋敷ではご主人様と一緒に取ることが多く、他の使用人と話すこともなかったから、それも新鮮だった。他の屋敷ではオレは嫌われ者だったのだ。奴隷という一番身分が低い癖に、一番待遇が良い使用人。嫉妬され、恨まれる、そう言うことが多かった。
しかしこの屋敷では違う。オレは他の使用人と同じ扱いなのだ。そのうえ、オレがこの屋敷にいるということは、すなわちご主人様とイタしてないわけで、ちょっと不憫そうな生暖かい目で見られているが、そのおかげか皆親切だ。性奴隷として機能しない性奴隷、すなわち無能ものと言うわけで屈辱的ではあるが、若干応援されてすらいる。
ちなみに、セバスチャンと呼ばれた老紳士は、この屋敷の執事らしかった。
イザベラはいつも七歳の甥セシリオと一緒に食事を取る。まるで母親のようにかいがいしく世話をしている様子は、明るく微笑ましい。
なぜ今まで結婚しなかったのか、不思議なくらいだ。良い母親になれると思う。華やかではないけれど、別に不細工でもない。やりようによっては化けるのではないかと思った。
あんな真っ黒のワンピースなんかやめて、黒髪が映えるような明るい色のワンピースを着ればいい。そして人並みにメイクをすれば。
メイドの一人に聞いてみる。
「ご主人様はなんでいつも黒いドレスなわけ?」
古くからのメイドは痛ましそうな顔をした。
「そもそも地味なものがお好みのようですが。お嬢様のお兄様、……前の伯爵ご夫妻が亡くなられてから、黒しかお召しにならないのです」
「それっていつ?」
「昨年のお嬢様の誕生日です。それからお嬢様はお坊っちゃまの後見人として リッツォ伯爵家の女主人になったのですわ」
難儀な女だと思った。一年も喪に服せば十分ではないか。
勝手にイザベラのクローゼットを確認すれば、黒いドレスと黒いワンピース、その間にイザベラ色の地味なワンピースが挟まっている。きっとそれは、以前に着ていたものなのだろう。
宝飾品は母親から譲り受けたのか、それ相応に豪華な物なのに、合わせるドレスが用意されていなかった。
どういうことだ?
社交界に出ていなかったのだろうか。それにしても、喪に服して一年だ。いい加減、伯爵家の女主人として顔を出さねばならない場所だってあるだろう。
「聞きたいことがあるんだけど」
オレはセバスチャンに声をかけた。
セバスチャンはいつでも不愉快そうにオレを見る。
「ご主人様は社交はどうしてるの?」
「今まではお断りしておりました」
「そのままというわけにはいかないよね?」
「いずれ……とお考えのようです」
いずれって何時だよ!
オレは社交界にアクセサリーとして連れて歩かされていたから、少しは様子がわかるのだ。
訳もなく断り続けるには、それなりの力がいる。ただのお嬢様だった頃はひきこもりも可能だっただろう。だけど、今は伯爵家の女主人だ。
果たしてこの伯爵家には、断り続ける力があるのだろうか。
たぶんない。正式な嫡子はまだ七歳。後見人のイザベラは、未婚の二十四歳で、見た様子では宮中に仕事もないだろう。
喪に服すといっても一年が限界だ。
何の準備もなく社交界に引きずり出されたら、痛い目を見るのはイザベラだ。
「ご主人様の仕立て屋をオレの部屋に呼んでください」
セバスチャンは不服そうに、でも無言で頷いた。
イザベラのいつも使っている仕立て屋を部屋に呼び、新しいワンピースを仕立てた。
「色はあまり派手なものは好まないようだから、シックなものを。その代わり、ご主人様に似合う最新のモデルで作ってください」
そう願えば仕立て屋は満面の笑みで微笑んだ。取り急ぎ、普段着用のワンピースも何点か買い取った。
メイドたちにも相談をする。あの野暮ったいオサゲ髪をどうにかしなければいけない。セシリオを追いかけるには便利だろう。しかし、だ。髪をまとめるにしたって他にやりようがある。
聞けば、イザベラは自分で髪を結っていると聞く。明日から部屋にヘアメイクをしにきて欲しいと頼んだ。
翌朝。
朝早くに、イザベラの部屋に入る。寝室から出てこない事をいいことに、新しく買ったワンピースを広げた。
大きな姿見を持ち込んで、その前に椅子を置く。
メイドたちは少し嬉しそうな顔つきで待っていた。
イザベラの机には、古臭い本とノートが並べられて置いてある。文字の読めないオレには何が何だかわからないが、令嬢らしからぬものだということはわかる。
「ご主人様って、いつも何をしてるの?」
メイドに尋ねる。
「子供向けの本を書かれているのですわ。領地の学校の教科書はお嬢様の作られたものですし、今はお坊ちゃまのために子供向けの百科事典を作られているそうです」
「百科事典……」
「ええ、屋敷にある大人向けの事典を子供の興味のあるものに絞って、わかりやすくするのだとおっしゃっていました」
そんなことをしていたのか。
オレはびっくりした。そういうことは賢者がやっているのだと思っていた。貴族の令嬢がそんなことをしているという話は聞いたことがなかった。
からくり時計が音を鳴らして、イザベラが部屋から出てくる。
無防備な寝間着姿のまま、オレを見て驚愕に慄いた。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
自由に出入りしていいなんて言っておきながら、なんてザマなんだろう。自分が言ったことと、実際に起こることの自覚が全然できていない。
とんだ頭でっかちだ。
「おはようございます。ご主人様」
にっこりと微笑めば、オレを指さしてパクパクと口を動かす。まさに声にならない、というところだろう。
「『あなたは今日から私の私室に自由に入ることができます』そうおっしゃいました」
「な、な、な、で、でも、こん、な、朝から……」
「期待しましたか? でもまだ、交合いませんよ、ご安心ください」
「な! もう! あなたは!!」
「さぁ、着替えてください。メイドを連れてきました」
「メイドなど必要ないわ。自分でできます!」
きっぱりとしたイザベラの否定の声に、メイドたちはガッカリとする。
「自分でできていないようだから連れて来たんですよ。ご主人様」
「なにを」
「無様な髪のままで、女になれるとお思いですか?」
「失礼な!!」
「『どんな無作法も咎められません』、ご主人様がそうおっしゃいました」
強気で返せば、イザベラは口を噤んだ。
「さぁ! かかれ!!」
オレの号令と共に、メイドたちが襲い掛かる。あれよという内に、イザベラはメイドの玩具になってしまった。
きっと今まで、飾り立てたかったのだろう。みんな生き生きと目を輝かせている。
反対にイザベラは、生気を吸われたかのように、されるがままになってしまった。
全てが終わって、姿見の中を覗き込めば、なかなか綺麗なご令嬢がそこには映っていた。
イザベラはそれをぼんやりと見つめている。
最新モードのワンピースは、イザベラが昔から好んで着ていたグレー。それでも明るいグレーだ。動きやすいように華美なレースは避けた。ウエストが目立つように濃い目のリボンで引き締める。
「この服……私のものではないわ……」
「オレが買いました」
「勝手なことを!」
「『他に欲しいものがあるなら言え。用意させる』とセバスチャンから言われています」
「それは貴方が必要なものだわ!」
「ですから、オレが買ったんです。デザインが気に入りませんか? 色ですか?」
「……そうではない……けれど」
「サイズが合ってない?」
「違います。満足はしているわ」
「なら良かった。オレ、ご主人様のことを何も知らないなって思ったんです」
服を選びながら思った。好きなもの、好きな花、好きな詩、好きな男のタイプ、何も知らない。そう思った。そして知りたいと思った。
イザベラに手を差し出す。
「ご主人様を知りたい。教えてください」
真摯な目でイザベラを見れば、目を見開いて驚く。
「……嘘はいらない、言ったでしょう」
イザベラはそう言って、差し出した手を叩き落とした。
可愛くない女だ。
思わず小さくため息を吐き出せば、イザベラは諦めたような顔で俺を見て笑った。
イザベラはそのまま朝食へ向かった。オレはそれについていく。テーブルではすでにセシリオ坊ちゃまがイザベラを待っていた。
「叔母さま、かわいい!!」
セシリオが立ち上がってイザベラに駆け寄る。
イザベラは顔を真っ赤にして、膝を折ってセシリオを抱き留めた。
「とってもお似合いです! どこかにお出かけですか?」
セシリオがキラキラとした目でイザベラを見て、小首をかしげた。
「いいえ。予定はないのだけれど……」
答えを聞いて、セシリオはウフフと笑った。
その笑顔にイザベラは相好を崩している。こんな顔、オレには絶対見せないのに。
「僕、嬉しい。叔母さまがずっと黒を着ていると、時間が止まってるみたいだったから……」
その言葉にイザベラはハッとしたようだった。
「気がつかなくてごめんなさい」
「ううん。叔母さまがお父様とお母様を大切に思ってくれてるのは嬉しいの。でもね、なんていうかね……上手く言えないけど……」
「……うん、そうね、セシリオの言おうとしていること、叔母さまにも少しわかるわ」
「わかる?」
「このままじゃいけない、ってことかしから?」
「! うん! そう、そう思う! それだとお父様が悲しむと思うの」
セシリオが少し大人びた顔で笑った。それを見てイザベラはセシリオを抱きしめた。
「愛しているわ。セシリオ」
「僕も。叔母さまが好き」
二人は頬を擦り合わせて、目を合わせてから微笑みあった。そして改めて食卓に着く。
本当に仲の良い二人。
その姿を見て、オレの心にチクリと棘が刺さった。オレはあんなふうには愛されない。愛されたことがない。
あんな風に。
そう思いかけて頭を振った。