向こうの国
「私、引っ越しするんだ。 ちょっと遠いところ。 一ヶ月経ったら、追い掛けてきて」
ある冬の日、僕の恋人はそう言って、駅のホームから線路に身を投げた。
飛び散る血飛沫だとか、そういう感覚も、最後に手を繋いだときの感覚も、その前の日の晩にしたキスの感触も、未だに覚えている。
彼女は、天国だか地獄だか知らないけれど、この世を去ってしまった。
嫌というほど鮮明に覚えている。あれ以来、電車を使うことも避けるようになった。
彼女を乗せるために取った免許だったけれど、結局、彼女の死を思い出さずに逃げる為の手段に成り代わってしまった。
彼女は一ヶ月経ったらと言っていた。
死んだ人間にとって、時間というものは存在するのだろうか、とか、そんな月並みのことを考えて過ごすうちに、その一ヶ月の節目も目前に控える頃になっていた。
彼女に依存するような生き方をしていたつもりはないけれど、あんなに衝撃的な形で目の前から去られてしまって、それを忘れるというのも酷な話だと思う。
それに、忘れて欲しかったのならばあんな言葉を残すはずはないし、きっと、憶えていてもらいたかったのだと思う。
いつまでも目を背けるわけにもいかない、そう思って、自宅の隅に重ねておいたアルバムに手を伸ばす。
キレイな写真なんてスマートフォンがあれば幾らでも取れるこのご時世に、わざわざ一眼レフカメラなんて高価な物を用いて写真を撮る。
それが僕と彼女の共通の趣味で、知り合ったきっかけでもあった。
お互いに好きな写真を撮って、各々が写真を集めたアルバムを作って、見せ合うのが楽しかった。
それを振り返ると、どうしても流れる涙を止められなかった。やはりどうしても、喪ったということは辛くて仕方なかった。
彼女は公園の風景写真とかを撮るのが好きで、特に、誰も座っていないベンチなんかを撮るのを好んでいたのをよく覚えている。
そんな公園の写真に混じって、何枚か空を写した写真があるのに気付いた。
そこにぼんやりと違和感を感じて、写真の裏を見る。そこには見覚えのない手書きのメッセージが残されていた。
「向こうの国」
向こうの国、と言われて、最初は全く理解ができなかった。
空を写して、どうして国なんだろう、とか、空の向こうは宇宙だとか、そういうものじゃないのかって、そう思ったりもした。
でも、少ししてふと気が付いた。向こうの国、空の向こう、天の国、「天国」。
そこまで辿り着いて、ふと、彼女の言葉を思い出す。
「私、引っ越しするんだ。ちょっと遠いところ」
そう言って彼女は死んだ。死んだということは、つまり、天国に行ったということだ。
推察があたったとして、彼女の言葉を借りるなら「向こうの国に引っ越した」と言えるのかもしれない。
彼女は何か思いつめていたのだろうか。
僕は、最後までそれに気付けなかったんだろうか。
それとも、向こうの国というものは本当に実在して、彼女は本当に文字通り「引っ越し」をしたのだろうか。
彼女の言っていた一ヶ月を目の前にして、急にいろいろなものの謎が解けた気がして、でも、それは謎に包まれたもっと大きな謎を開封しただけに過ぎなくて、僕は頭を抱えてうずくまった。
もう、彼女に答えを聞くことはできない。
本当に?
彼女は一ヶ月経ったら追い掛けてきてと言っていた。
拒否なんてことはせず、明確に僕を誘っていた。
ならば、彼女に聞きに行くべきなんじゃないか、きっと、答えてくれるんじゃないか、そんな気持ちが僕を支配した。
それからは、衝動が僕を突き動かした。
昼下がり、一月ぶりに訪れた、彼女が死んだ駅のホーム。
彼女が向こうの国へと渡った場所。
彼女がそうしたように、僕は線路に身を投げる。
死への恐怖はなかった。
ただ、彼女が向こうの国で待っている。だから、行かなくちゃ。そんな気持ちで飛び込み、僕の身体は通過する特急列車にあたって粉々になった。
僕として最後に視たのは、来てくれたんだね、と微笑む、彼女の姿だった。