21話 人が憧れしもの(2)
やっと来た休みの休日。魔物を一掃してから、アリスより少し先に戻った俺は、センパイに案内されて王都のど真ん中に来ていた。
「隠れ家ってここ?」
大通り沿いの家を隠れ家っていうのだろか?
「華やかでいいだろう。下を覗けば色々なものが見えるぞ」
窓の下を眺めていたセンパイに招かれて一緒に窓の外を覗くと、日の出前のまだ薄暗闇の時間から、もう動き始めている王都の街並みが見えた。楽しそうな横顔で眺めているセンパイとミラには言えないが、王都ではごくごく普通の景色だ。
でも、そうだな。こんなメンバーで見ると、もう窓の外は別の世界なのかもしれない。
「そろそろ時間だ。デューイ、出口を設定してくれ。だが、使うのはこれだ」
センパイから一本のスクロールを手渡される。
「俺、出口のスクロール持っているけど?」
「それを使うと、ルイスやツヴェルク伯爵の持っている門のスクロールでも、ここに来ることができてしまう。そうならないように少し細工をした」
「細工?」
「簡単に言えば、その出口のスクロールに鍵穴を組み込んだ。その出口のスクロールを使うには、門のスクロール側でそれに対応した鍵が描かれている必要がある。だから、今のところはその出口を使えるのは俺たちだけだ。アリスティアと何度も試して調整済みだ」
へぇと渡されたスクロールの中を見る。何が違うのかさっぱりわからないが、違うものらしい。
「てことは、出たい出口によって、使う門のスクロールをかえなくちゃいけないってことか?」
「そうだ。これが新しい門のスクロールだ」
もう一本スクロールを受け取る。これがあれば、この隠れ家に来られる。日の沈んだあとならばいつでもだ。
唾を飲み込んでから、丁寧に腰に仕舞った。この件はあとでじっくり考えよう。
「じゃあ、出口を設定するぞ」
「頼む」
俺が設定した出口は、魔素が多い所為か無駄に明るいので邪魔にならないように部屋の隅に設置する。
「来るまで待とう」
小さなテーブルに3人で座った。ミラが部屋の中をきょろきょろと見回している。
「兄様。ここは借りたままのように見えるのですが、なにか家具は置かないのですか?」
「む。何も考えていなかった」
「だめですよ。お二人はここで暮らすのですから」
センパイは「家具か」と考え込んでいる。
「家から持ってくるか?」
「センパイ。そんなことしなくても、この辺の空き家から余っているの貸してくださいって頼めば貸してもらえると思うぞ」
センパイが眉間に皺を寄せてこちらを見た。すごく嫌そうだ。
「いや、俺がやるからさ」
「頼む。俺はそういう交渉ごとは得意ではない」
交渉って。
「部屋を飾り付けるためのレースも必要ですね!」
「そっちはミラに頼むよ」
ミラは楽しそうに頷いた。
そのとき音がしたので振り返ると、俺が設置した輝く魔方陣の上に、雪の妖精のような容姿をした銀髪の姉弟が立っていた。
「アリス」
「あら、思っていたよりも良い部屋ね」
アリスは部屋を見回してからセンパイの方を向く。
「ありがとうロデリック。恩に着るわ」
そしてアリスは自分の横に立っていた、線の細いアリスと似た容姿の少年の肩を支えるように軽く押した。
「マルセル」
「初めまして。マルセル・ライラントです」
アリスの弟は、倒れそうな足取りでなお俺たちにしっかりと挨拶をしてから、少し儚げに笑った。
「俺はロデリック・アーチモンド」
センパイが立ち上がってマルセルのもとに向かう。
「歩けるか」
「大丈夫です」
センパイがマルセルの手を引いて、マルセルを部屋の反対側に設置してあるベッドに座らせた。そしてマルセルの前でしゃがむ。
「俺は医者だ。まずは今から君に、いくつか質問をする」
「はい」
センパイはそう言って、マルセルに体調について――普段何を食べているか、咳をするか、呼吸が苦しいことはないか、お腹の調子はどうか――を順番に聞いていった。
「ありがとう。良い子だ」
最後の質問が終わったのか、そう言ってからセンパイはハンカチを取り出して中を開いた。
「よかったら食べてくれ」
「いいんですか?」
「あぁ。君はよく頑張っている」
センパイはそう言って、空いた方の手でマルセルの頭を撫でた。マルセルは少し泣きそうな顔で笑ってから、飴玉を口の中に入れた。
そんなセンパイを全員でぽかんとした気持ちで眺めていると、センパイがこちらにやってきた。
「ロデリック。あなた一体どうしたの?」
まったく本当にその通りだ。センパイはどうしたのだろう。
センパイは俺たちのそんな言葉など聞こえていないように少し辛そうな顔をしていた。
「今から診察をする」
そう言って、部屋の隅にあった鞄を手に取る。そこから取り出されたのは聴診器だ。
「診察ってあなた――」
「アリスティア。俺が医者だったのは本当だ。遠い遠い昔の話だがな」
センパイは何を言っているんだ? 俺もアリスもミラも誰もがそう思っているだろうけど、誰もそう言えないほどセンパイは遠い目をしていた。
「信じられないのはわかるが、今は信じてくれないか」
その困ったような表情に、アリスは「ええ」と頷いていた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
マルセルの診察が終わったのか、センパイはベッド脇のカーテンを軽く閉じてからこちらに戻って来た。
「調べたいことは山ほどあるのに、ここには何もない……」
センパイはそう言って席に着くと冷めてしまった紅茶がセンパイの前に置かれる。センパイは、行儀悪く音を立ててそれを飲んでから顔を上げた。
「主な症状はめまい、吐き気、下痢、出血。該当する病名はそれこそ山のようにある」
「アリスティア。周囲の者で同じ症状を示したものは?」
「いないわ」
「おそらく感染症の類いではない……」
そう言って考え込んだセンパイを、アリスはすがるような様子で待っていた。
「アリスティア。治癒のスクロールは効かないのだな?」
「毎日、毎日やっているわ。でも……」
「治癒のスクロールが、実際にはどのような効果で怪我や病を治しているかはわかっていない。アリスティア。俺が今日診たところでは、抜本的な治療薬を示すことはできない。だが、まずは食事の改善だ」
「食事?」
「アリスティア。忙しいのはわかるが、弟が何を食べさせられているのかを、把握していたのか? 毎日毎日、芋や穀物を水で溶いたもの――そんな食事では健康な大人であっても病にかかる」
責めるようなセンパイの言葉にアリスは目に見えて戸惑っていた。
「マルセルが食べていたのは病人食よ? ちゃんと毒味もさせていたわ」
そのときセンパイが、机の上に置いていた手を横に倒した。少し大きなその音で、アリスの肩がびくっと動く。
「すまない」
どこか怒ったようにセンパイが謝ってから、立ち上がった。
「本当は点滴を打ちたいのだが――ないから食事だ。俺が作る。あとアリスティア」
センパイに呼ばれて、アリスは怯えたように顔を上げる。
「マルセルには、ずっと寝てばかりではなく窓の外を見て、日の光を浴びさせろ。あとはお前が側に付いて、起きたときに楽しい話をしてやれ。それが一番の薬だ」
アリスは小さく頷いて、そのまま首を落とすように下を向いた。センパイはしばらくそれをじっと見つめたあと、扉に手を掛けて部屋を出て行った。ミラが慌てたようにそれに続く。
扉がバタンと閉まったあと、アリスは鼻をすすって、時折目元を拭っていた。
どうしよう。センパイは怒っていて、アリスは泣いている。こういうときに俺は、どうすればいいんだ。
「姉様」
小さなマルセルの声にアリスが顔を上げる。
「姉様。お話は終わりましたか?」
アリスが急いで顔を拭ってから立ち上がった。
「マルセル。何かしら」
いつもより少し高い声で答えてから、アリスはカーテンを開いてベッドの側の椅子に座った。
俺は動くことなどできない。邪魔なんてできない。だからアリスの背中しか見えない。
「姉様。さっき先生から、これから姉様とここで暮らせると聞いたのですが本当ですか?」
「ええ、本当よ」
マルセルの顔はカーテンが邪魔で見えない。でもアリスの優しい声に、マルセルがどんな顔をしているかは容易に想像ができた。
「姉様。ここから見ていいと言われたので、窓の外をずっと見ていたのですが、ここはどこですか? 僕が見たことがないものがたくさんあります」
「今居るのは王都よ」
「王都? 僕、初めて来ました。姉様はよく来るのですか?」
「いえ、学院くらいしか――」
「あっ、見て姉様。さっきから、あそこから細い煙が出ているのですが、何でしょうか?」
「どこ?」
「あそこです!」
「あ、本当だ。ねぇデューイ」
その声に軽く飛び上がった。大慌てで椅子を押して立ち上がる。
「何?」
少し裏返った声に恥ずかしくなって軽く咳をする。こちらに振り返ったアリスに呼ばれて、ベッドの側に立つと、二つの銀色の頭が、窓に張り付いていた。
「ねぇ、あれ何かしら」
アリスが窓の外を指さしている。銀の妖精たちは窓を譲る気はないらしく、わずかに空いているスペースから真下を覗く。
「あれは屋台だ。屋根しか見えないから何を売っているか見えないけど、客が持っている器を見ると、なんかのスープじゃないか?」
「屋台。食べ物を売るところですか?」
初めてマルセルに話しかけられた。俺より身分の高いこの子が、俺に対して敬語で緊張する。
「あぁうん。そ、そう」
俺は敬語を使わなくていいのだろか。
「ここから家に持って帰ると冷めませんか? 皆さんこの近くに住んでいるのですか?」
「ん? いや、あっちの方にまとまって食べる場所があるし、まぁ立ったままでも食えるから。今からみんな仕事だろうし、行儀良くは食べない」
俺の言葉に、育ちの良すぎるお坊ちゃまはひどく感心していた。
「ねぇ、マルセル。あとでロデリックに食べていいか聞いてみましょう」
「姉様!? いいのですか!?」
マルセルの驚きっぷりは尋常ではない。
「いいじゃない。一度くらい」
「はい」
マルセルは心から嬉しそうに笑ったあと、急に横に倒れた。
「マルセル!?」
「姉様。少し頭がくらくらしてきたので、休みます……」
気丈に振る舞うマルセルに対して、アリスは世界の終わりのような顔をしている。見かねてアリスの両肩を軽く叩いた。
「アリス」
とがめるように名前を呼ぶと、気がついたのか、アリスの表情が和らいだ。
「マルセル。また、起きたらお話しましょう。私はここにいるから、ゆっくり休んで」
「はい」
マルセルはそう嬉しそうに答えてから目をつぶった。
もう一度テーブルに戻ると、アリスはどこかすっきりとした顔つきでカーテンの閉じられたベッドを見つめている。
「ねぇデューイ、私もう学院に行かない。貴族の会合にも行かない」
「えっ?」
「もう、いいの。誰に何を言われようが、いいの。私の代で、ライラント家の名声が地に落ちるかもしれないけど、別にいいの」
アリスはそう言ってから、椅子にもたれ掛かって天井を見上げた。
「アリスティア・ライラントは、『そんなことしてはダメだ』って言うのだけど、お父様とお母様は『仕方ないわね』って言ってくれるからいいの」
自分のことを、きっと誰よりも縛っているのは自分自身だ。
「いいんじゃないか」
「うん」
「アリスが決めたことなら、俺は何でも応援するよ」
頼ってくれと伝えると、「うん」と小さな返事が返ってきた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
外の物音に、剣を持って立ち上がる。
「ただいま戻りました」
ミラの声に固く握っていた指を緩めた。ミラが両手で開いた扉の向こうから現れたのは、鍋を持ったセンパイだ。センパイは鍋をテーブルの上に置いて、カーテンの閉じられたベッドに目をやった。
「マルセルは?」
「頭がクラクラするからって、休んでいるわ」
「今日は早かったからな。昼食の時間には起こして食べさせてやってくれ」
センパイに見ていいかと一言断ってから鍋のふたを開く。
「スープ?」
甘い匂いのする、とろとろのスープだ。
「胃腸が弱っているから、消化にいいものを柔らかく煮込んでいる。大きいものが残っていれば、食べさせるときに小さく砕いてやってくれ」
そう言ってからセンパイの目はアリスの方を向く。少し冷たいその目に、初めて見るが本当にセンパイは怒っているらしい。
「できるか?」
「やったことはないけれど、やるわ」
「夜は国境守護もあるだろう。今日は俺が手本を見せよう」
そう言ってセンパイは席についた。
「そう言えば、これはどこで作ってきたんだ?」
俺の言葉にミラはセンパイを横目で見た。
「デューイ。ここは王都だ。俺が名乗ればなんとでもなる」
さっき家具を借りる話をしたときは、あんなに嫌がっていたのに。マルセルのためだったらこうも簡単に動くのか――
「あのさセンパイ。医者だったっていうのは、どういうことなんだ?」
俺の言葉にセンパイが俺をじっと見る。隣のミラの方が、なぜかあたふたと慌てていた。
「ミラは何か知っているのか?」
「そうではないですが――」
「なぁ、皆には昔の記憶はないか」
突然のセンパイの質問に、皆の視線が集中する。
「昔の記憶? そりゃあ、あるだろ?」
「生まれる前の、今の自分とは異なる自分の記憶だ」
異なる自分? しばらく考えてから、そっとアリスの方を向くと、アリスは首を振った。
「いや、ないです」
「あるわけないじゃない」
俺たちの反応に、センパイは残念がるでもなく、何も期待していなかったように笑った。
「俺は鮮明に覚えている。まるで今の俺が偽物であるかのようにだ」
センパイは指を組んで遠くを見始めた。その横でミラが泣きそうな――今にもセンパイを止めそうな顔をしていた。
「俺はあの世界で医者だった。人の命を救いたい――そんな立派な志があったわけではない。あの世界では頭の良い奴は、医者になるのが当たり前だった。だから俺は医者になった。だが、実際に医者になってみて、偉そうに人の命を救ってみれば色々と思うところはあった。救えない命もあったが、確かに救えたものもあった」
センパイの目の焦点が合う。
「自分がいつ死ぬかを考えたことはあるか?」
その暗い色の目に耐えきれなくなって、いいえと首を振った。
「あの世界の俺の最期、いや最期の数日間の記憶――雪の降りそうなあの寒い冬の日だ。俺は、あのとき即死はしなかった。直撃ではなかったのだろう。コンクリートの建家内に居た多くの者は助かった」
何かを思いだしているのだろうか。センパイの視線が窓の外に向く。
「だが、いずれ死ぬのは明白だった。凍えるような気温の中、多くの死体に囲まれて、俺はこれから死ぬ人たちの治療をした。自分のしていることが正しいか間違っているかなどという感覚はない。ただ、生きていたいから治療をした。自分の最期はよく覚えていないが、おそらく治療中に俺も死んだのだろう」
「センパイ。その……すごい魔法で攻撃されたってこと?」
聞いていいのか、今口を開いていいのか悩んだ末での言葉だったけど、センパイは穏やかな顔だった。
「あの世界には魔法はなかった。だから魔法ではない――魔法ではないが、あれをこの世界の言葉では何と表現すればいいのだろうな。ボタンひとつで、誰もが破滅を引き起こすとができる兵器。それがある日、突然飛んできた。どの国が放ったものかもわからない。突然の破壊。圧倒的な力。俺はそんな力に、国もろとも滅ぼされた」
「国が滅んだ……」
「前世の俺は、圧倒的な力に踏みにじられた。だが、どうして人は、そんな理不尽な力を恐れると同時に、憧れてやまないのだろうな」
センパイはそう言って、自嘲めいた笑みをこぼした。
「たとえ生き残っていたとしても遅かれ早かれ死ぬ、死の領土。あの世界に戻れたとしても、俺はあの国を元に戻すことはできない。あの国の景色を取り戻すことはできない」
センパイはささやくようにそう言ってから、空を見上げるように上を向いた。
「もし、あの国を元に戻すことができるのだとしたら、時を戻して、あの兵器を防ぐことのみ――すべてが奇跡、子どもの夢物語。まさに魔法のようだ。そんな夢物語に、今世の俺は憧れた。だが、そんな夢のような『魔法』のある世界で、俺は、魔法が使えなかった」
何の話かまるでわからない荒唐無稽な話。だけど、むしろだからこそ、始めからでたらめだったセンパイにはしっくりきた。
俺がそう伝えようとしたとき、
「兄様。私、兄様のことが好きなのです」
アリスと並んで、口を開きかけたまま固まった。




