1話 少女の日常
1章に1話ほどヒロイン側の視点が入ります。
(アリスティア)
魔術学院。魔法の勉強をする場所。
アリスティア・ライラント侯爵家令嬢――学院で最高位の貴族。当然のように、この学院で一番の成績でなければならない。
そうだったはずなのに、そんなことはもう、とうの昔からできていない。
私は、毎日休むために学院に行っている。今日も教室の机から窓の外をぼんやりと眺めて体を休めながら、日が傾くにつれて、徐々に覚醒していく自分の体を感じていた。
最後の授業の終わりが告げられて、かばんを持って立ち上がる。
「アリスティア様、また明日。今からお忙しくて大変ですわね」
そう嫌みを言ってくる同じクラスの女子の言葉を無視するように、「えぇ、また明日」と微笑んでから、教室を出た。
まるで私を逃さないとでも言うように、今日も校門を出たところで待っている馬車に乗り込む。静かに馬車に揺られていると、ほどなく自分の屋敷に着いた。
学院から屋敷は近い。だから、私はまだ学院に通えている。これは運が良いのか悪いのか、どちらだろうか。そう思いながら馬車を降りて、今日もまっすぐ弟の部屋に向かう。
扉を自分の手で開くと、本を読んでいたらしい弟が顔を上げた。
「姉様。お帰りなさいませ!」
病でベッドに伏せていることも多い10歳の弟は、今日は元気そうだ。線が細いため、少し女の子のように見える弟に、私は微笑んだ。
「ただいま帰りました。マルセル」
弟の見張りをするために部屋に佇む無機質な侍女の視線を感じながら、ベッドの横にある椅子に腰掛けた。
「姉様! これは何と読むのでしょうか?」
今日も慌てて本をひっぱり出して、必死に私に見せてくる弟の様子に苦笑してのぞき込む。
「その文字は――」
今日も私は、一日で一番楽しいひとときを、弟と一緒に過ごした。
「では、マルセル。元気になるために、今はしっかり眠るのですよ」
「姉様。わかっています」
弟も病に倒れる2年前までは、元気に走り回っていた。きっと満足に動けない本人が一番悔しいだろう。
でも、あの子はできる子だから――自慢の弟だから、不満の言葉は一言も言わない。弟から私の方が元気をもらって、私は部屋を出た。
長い廊下を歩いて自分の部屋に行き、扉の前に立つ。
「アリスティア様。お帰りなさいませ」
無表情に頭を下げる侍女たちに「出て行きなさい」と一言だけ告げる。侍女が私の横を通り過ぎ、部屋の扉が閉まるのをしっかり見届けてから、ゆっくり自分の椅子に向かい、その椅子にもたれ掛かった。
「疲れた」
しばらく、だらしなく椅子に座って目をつぶる。今日も寝てしまう直前で、無理矢理目を開いて、立ち上がった。
行かないと。
空は暗くなっている。私はもう行かなくてはならない。侯爵家の仕事――どんなに体が疲れていても、できないなどと言うことは許されない。
制服を乱雑に脱いでから、いつもの魔術師のローブに着替えた。床にしゃがんで、制服に取り付けていた家宝のスクロールを取り出して、ローブの腰あたりに取り付ける。杖は正直なんでもいいのだけれど、お父様が買ってくれたいつもの杖を右手に持つ。
鏡に映るのは、顔色の悪いやせっぽっちの魔術師。
貴族の舞踏会なら、侯爵家たるものがこんなみすぼらしい様子は見せられない。だけど、今から私が会いに行くのは、闇の生き物だ。あいつらは私の格好なんて気にしない。
闇の生き物――貴族の会合で会う人の形をしたあいつらの方がよほどそう呼ぶにふさわしいものでないだろうかと今日も虚しく笑ってから、バルコニーに続くガラスの扉を開いて、外に出た。
空を見上げると、大きな月が端から昇りつつあるのが見える。今日は、雲が少ない。帰ったら少しは休めるだろう。
左の腰からスクロールを一本取り出して、広げる。
この国に一枚しか存在しない『召還』のスクロール。そのぼろぼろの紙に、触れている左手を通じて魔法の素となる魔素を体内から送る。うっすらと紙の上に浮かび上がった丸い魔方陣を右手の杖で優しく触れるようにすくい上げて、目の前の空間に貼り付けた。
魔方陣が消えた空間から『何か』が開いて、今日も『どこか』に繋がったのがわかった。その開いた黒い穴に、無造作に右手を突っ込む。
右手が触れた『それ』。今日も温かなその感触に、ほっとして、その柔らかい翼を優しく掴んで一気に引っ張り出す。引っ張られる方も痛いようだけれど、遠慮してはいけない。文字通り、体に刻まれるくらい私はよく知っている。左手で穴が閉じないように支えて、右手掴んだものを全力で引っ張り上げた。
『それ』の体が半分以上出て、最後はするするとこちらに滑り落ちる。しびれるような腕を投げ出して、肩で大きく息を吐いた。
「クゥ」
荒い息を止めて呼びかけられた声に顔を上げると、大きな瞳がすぐ目の前に見えた。鳥のような体に、白く柔らかい羽根。翼の先は、今日は青色だった。しばらく目の前のその体にわさわさと触れてから、
「リルメージュ」
その大きな体に笑顔で抱きついた。
温かい体。心が温かくなるその体からゆっくり体を離すと、ぐりぐりとあごで頭を撫でられた。
「くすぐったいって」
リルメージュはあごを離して、一度こちらを見下ろしたあと、しゃがんで、広げた翼の片方を大きくこちらに傾けた。『乗れ』と言われて、今日もその大きな背中に飛び乗る。
背中に強風を感じながら、温かい背中に抱きついて――
「リルメージュ、ありがとう」
私の言葉がどのくらい伝わっているのかよく分からないけれど、今日も私は私が言うべき言葉を彼女に何度も伝えた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
ライラント領国境にある城壁を空から乗り越えて、今日も国境沿いに広がる大渓谷に降り立った。広い広い大渓谷――2年前までは、お父様と何人かの貴族、騎士団で守っていたこの渓谷を、今は、私一人で守っている。
私の領地にいるあの薄汚いあいつらは、私に死んで欲しいのだろうか。それとも根を上げて、膝を屈して――私が身も心も捧げることを待っているのだろうか。私が意地をはってここで死ねば、この国境も危なくなると言うのに、自分たちの領地を危険な目に遭わせてあいつらはどういうつもりなのだろう。本当に理解できない。
理解できないけれど、あいつらの狙い通り、私は文句も言わずに毎日ここで働いている。
渓谷の闇をまっすぐ見つめる。静けさを感じるような真っ暗闇に浮かび上がるのは、さらにより深い色をした闇の生き物――魔物だ。
魔物たちは魔法の素となる魔素を嫌う。魔術師が絶えず魔素を補給している国内では魔物は滅多に自然発生しない。だけど国内とは違って、国の外は闇しかない。だから、魔物も育つ。
私の魔力を感じても、もう逃げ出す必要がないくらい大きくなった闇の生き物たちが、この広い渓谷に集まってきている。放っておくと集まって、合体してもっと大きくなる。だから、大きくなる前に倒さなければならない。国を、そして我が領地、ライラント領を守るのが、私アリスティア・ライラント侯爵令嬢の役割。
「リルメージュ。ありがとう」
左手から『飛翔』のスクロールを取り出して、浮かび上がらせた魔方陣を体に貼り付ける。上空から静かに眼下を見下ろすと、見渡す範囲に無数の魔物がいるのが見えた。
だけど――斜め上に浮かぶ月を見上げる。今日は月が隠れていないから、大きな魔物はいない。そのことにほっとしてから『飛翔』のスクロールの代わりに、今度は多くの貴族が持っているのと同じ、一般的な火のスクロールを取り出した。
時間が惜しい。闇の生き物を一刻も早く消し去るために、左手に力を込める。浮かび上がった魔方陣を杖に貼り付けて、空から順番にぽとりぽとりと落とした。魔方陣が空中でほどけて、現れたのは業火の玉。それが爆撃のように、大渓谷に降り注ぐのが見えた。
無駄撃ちが多いから、魔力を余計に使うけど、大渓谷に居たものはすべて一掃することができた。上空で軽く深呼吸をしてから、一刻も早く屋敷に帰るために、リルメージュの背に乗って大空に舞い上がった。
リルメージュの背からゆっくり顔を上げると、夜空に浮かぶ月と目が合った。少しずつ月は細くなってきているけれど、まだ直視するには目を細めなければならないくらい月は輝いている。あと、半年で新月の日。3年に一度来るその日に近づくにつれて、魔物はより活性化する。その日のことを想像して、リルメージュの羽根を掴む手に力がこもった。
だめになったら、学院を休もう。あいつらに膝を屈するぐらいだったら、他領の貴族に馬鹿にされても、私は学院を休もう。
私にはまだ取るべき方法が残っている。今日も無理矢理そう考えて、リルメージュの柔らかい背中に額をくっつけた。
屋敷に着くと、徐々に日が昇りつつあるのが見えた。今日は、そうだな――学院に行く前に2時間程度は休めるだろう。
湯浴みは後でいいと、着替えもしないまま、私は自分のベッドに倒れ込んだ。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
「アリスティア様。起きてくださいませ」
勝手に部屋に入ってきた侍女を睨んで追い出してから、ローブの左腰を見てスクロールが5本揃っていることを確認する。簡単に湯浴みを済ませてから、朝食を食べつつ髪を乾かした。
ドレッサーの前に座って、顔色の悪さを誤魔化すために薄く化粧をする。そして今日も最後の意地のように丁寧に銀色の髪をといた。
櫛を置いて、カバンを持って立ち上がる。
「行ってきます。お父様、お母様」
笑顔の肖像画の前で挨拶をしてから、私は部屋を出た。