プロローグ はじまりの契約
デューイ・オスター様
放課後、教室で待っています。
今朝、俺のロッカーにこつ然と入っているこれを見つけてから、もう何度読み返しただろうか。白い便せんに可愛い女の子の字。ただ、それだけで良い匂いがしそうな手紙を折り目に沿って丁寧に畳み封筒に戻してから、ポケットにそっと仕舞って、籠城していたトイレを出た。
トイレの中では何もしていないが、念のため手を洗う。顔を上げると鏡にどうしようもなくにやけている俺の顔が見えた。ついに俺にも――そう俺にも春が来たのだ。長かった。振り返れば俺の17年間は本当に長かったけど、これから俺の人生が始まるのだ。
手紙の彼女は、肝心の名前を書き忘れてしまううっかりさんのようだが、そんなおっちょこちょいな彼女のことが俺は好きだ。これから始まる未来を想像しながら、顔だけはきりっと引き締めて、放課後の静かな廊下を歩いて教室に向かう。
3回生――
見慣れた教室の扉。その扉の前で静かに立って、中から物音がしないことを確認してから、いつもは意識せずに開けるその扉を、今日は粛々と開いた。
「あれ……誰もいない……」
空っぽの教室が俺を待っていた。念のため俺は、皆と同じように一度教室を出て、皆が出払うころに戻ってきたけど、手紙の彼女はまだ戻って来ていないのだろうか。
そうだな。騎士たるもの、女性を待たせるわけにはいかない。どれだけ彼女が遅れても、俺は待とうではないか。
いつもと同じ教室。誰も居ない夕方の教室。いつもと同じはずなのになぜか全然違うものように見えて、非日常的な感覚のする教室にゆっくりと足を進めたとき――
「遅かったな」
男の声に慌てて振り返った。
目に入ったのは、扉のすぐ横――廊下側の壁にもたれ掛かった学術学院の制服を着た小麦色の髪の、俺より少し背の高い男だ。上級生だろうか? それにしても、どうしてお隣さんの学術学院の生徒がここに?
わけがわからずしばらくじろじろと俺が観察していると、その男はふっと笑った。
「今朝、手紙を送っただろう?」
その言葉に、白い頭のまま、自分の制服のポケットを見つめる。顔を上げると、俺をからかうように笑った男の顔が見えた。
そうか、これはそういうことか――
何も言わずに、まっすぐと教室の扉に向かう。
「待て、デューイ・オスター。話はまだ始まってもいない」
男の鋭い声に、俺は一度足を止めて言葉を返した。
「話すことなんてない」
俺が勝手に勘違いして、喜んでいたのはわかっている。だけど、それでも騙された怒りは収まらない。
男の前を通り過ぎて、俺は教室の扉に手をかけた――
「デューイ・オスター。オーティス魔術学院3回生、17歳。オスター騎士家次男」
淡々と読み上げるような男の声に、扉にかけていた手が止まった。
「オスター騎士家には跡継ぎとして問題のない優秀な長男がいる。多くの貴族と同じように、次男の将来についてご両親は悩まれていたが、5歳のときに魔法の希有な才能が発覚。騎士位では国一番の魔術学院であるこの学院への入学は許可されていないが、特待生と入学が決定した。ご両親はたいそう喜ばれていたが――」
そうだ。俺の両親は俺に魔法の才能があることがわかってそれはそれは喜んでいた。俺だって、剣では兄貴にはどうやっても敵わないけど、魔術師として兄貴の手伝いができるのだとわかって嬉しかった。だけど――
「突然変異としか言いようがない膨大な魔力量を期待されての入学であったが、入学早々、なぜか一つの魔法も発動できないことが発覚した。本人は努力していたが、何も変化がないまま2年が経ち、早3回生」
男の、淡々と俺の歴史を語る言葉にぐっと唇を噛んだ。
「そうだ。だけど、何だ」
魔術学院と言っても、魔術の授業ばかりではない。俺と本来は友人になれないような身分にある貴族の友人は、魔法の使えない俺をわざわざ責めたりはしない。
魔法が使えなくても、魔力だけは余るほどある俺は、この国では存在しているだけで魔物避けとして役に立つ。だから――
だから、いいのだと。そう思うしかないに決まっているだろう。俺は扉の横で佇んでいる男を睨んだ。
俺の視線など、何も感じていないように学術学院の制服を着た男は淡々と言葉を続ける。
「この国で、貴族と魔術は切り離せない。しかし、両親が魔術師であっても、魔法の才能を持った子どもが必ず生まれるとは限らない。貴族の中でも貴重な魔術師――そんな中、貴族以外の庶民から選ばれる『特待生』枠は、庶民から特別に入学が許可されるが故に、貴族もうらやむような優秀な魔術師が多い。国は国防のために、必ず魔術師が必要だ。けれども貴族の皆が皆、必ず優秀な魔術師とは限らない。つまり、庶民から選ばれる特待生というのは、言ってしまえば庶民から選抜された『種馬』枠――」
「種馬って言うな」
『貴族の女性からお呼ばれした場合は、失礼のないようにお相手をすること』と、入学前に先生に呼び出されて、そう言われたときは開いた口がふさがらなかった。
「オーティス魔術学院――国一番の魔術学校で、伯爵家、侯爵家出身の貴族も多い。そんな学院の中で、『貴族の淑女の方々から、お呼ばれされた場合は断る権利なし』などという、そんな国中の男の夢のような権利を持っていながら――君はまったくその権利を活用できていない」
うるせぇ。
「何が言いたい」
もう、何なんだ。俺だって、わかっているさ。
俺は騎士だ。騎士として最愛の人を守るのが俺の使命だ。
たくさんの女性に手を出すのは、騎士として許される行為ではない――が、それが女性から望まれていることならば、騎士としては致し方ない。騎士家に生まれた男子として、無垢な女性が望まれていることを無下にすることなどできない。
そうであったはずなのに、この学院で俺はその責任を果たせていない。
扉にかけていた手はとっくの昔に離れていて、体の横で固く拳を握っていた。その手を意識してほどいてから、男の顔をまっすぐ見るために体の向きを変える。腕を組んで壁にもたれていた男は、腕をほどいて俺の顔をじっと見た。
「デューイ・オスター。俺は、君に協力しよう」
俺のことをここまで徹底的に調べてたこいつが、ただ俺を気の毒に思って協力してくれるなんてことはないだろう。こんなやつの話を真面目に聞きそうになるくらい、俺は神にでもすがりつきたい気分だったが、俺が何も言えずに黙っていると、何かを思いついたように男は急に笑った。
「俺と契約して、魔法少年にならないか?」
怪しく笑った男の言葉に、しばらく悩んでから俺が頷くと、俺に話を持ちかけた男の方がなぜか慌てていた。
「いや、俺としては嬉しいんだが、契約内容をきっちり聞く前に、契約するのはどうかと思う。かわいらしい姿をしていた契約相手が、実は鬼畜だったと言うことも世の中にはあり得るからな。気を付けた方がいい」
かわいらしい? 何の話だ。男は独り言のようにそう言ってから、懐からスクロールのようなものを取り出して、近くの席に座った。
「デューイ。座ってくれ」
男と向かい合うように、教室の椅子に座る。
「あの、名前は?」
男は俺の言葉に、そうだったと頷いてから、じっと俺の顔を見た。
「デューイは俺のことを知らないのか?」
学術学院に知り合いなんていないから、この男のことは当然知らない。俺が頷くと男はしばらく考えこんでいた。
「ではそうだな……俺のことは『センパイ』と呼んでもらおう」
「センパイ?」
「そう『センパイ』だ」
名前ではないのだろうか。よく分からないが、本人にそう呼べと言われているからそう呼ぼう。
「デューイ。これが契約書だ」
センパイが、机の上に置かれたまままだ開かれていないスクロールを指さした。
「俺は、この世界に生まれたときから魔法に強く憧れている――だが制服から見て分かるように学術学院の生徒で、魔法の才能はまったくない。俺はデューイにいくつか協力して欲しいことがある。その代わり、君が魔法を使えるようになるようにできる限りの協力はしよう。それが俺たちの契約だ」
センパイがスクロールを俺の前で紐解いて、机の端から端まで丸まっていたスクロールを一気に開いた。
よかったらサインしてくれと言われて、読むように促される。
一、 甲は乙に魔力を提供する
二、 乙は、一に関して命の危険がない範囲とする
三、 一が満たされている場合に、乙は甲が魔法を使えるよう協力する
四、 本契約に関する費用はすべて乙が負担する
はじめて見る文面に、あまり内容が頭に入ってこないが――
「お互いに協力して、必要な金はセンパイが出しますってこと?」
「そうだ。よかったら、ここに名前を書いてくれ」
センパイが示す『甲』の文字の下に、デューイ・オスターと自分の名前を書く。センパイは契約書を自分の方に向けてから『乙』欄に、さらさらとサインをした。センパイのサインは崩されている上に俺から見ると逆さまなので、一瞬では読めない。
センパイが立ち上がった。
「では、デューイ。早速明日から始めよう」
「あ、はい」
センパイがこちらに手を出すので、立ち上がってその手をしっかりと握った。
「よろしくお願いします」
「よろしく」
俺は、これで魔法が使えるようになるのだろうか。まったく信じられないけれど、センパイの満面の笑みを見て信じたくもなった。
センパイもう一度席に座って、先ほど作った契約書を丸め始めた。
「デューイ。契約をするときは、破棄する方法を確認した方がいい。でないと、永遠に縛られるぞ」
センパイはそう言ってから、俺の目の前で契約書をきっちりと紐で縛って封をした。
本作ではヒロインの手により男の夢は叶いません。