09.One cannot put back the clock.
心地良い風が少し開いた窓の隙間から流れ込み、ゆらゆらと白いカーテンを揺らしている。カーテンが揺らめく度に、陽の光が顔を照らした。
「ん……ん? ここは……」
朦朧とする意識の中で辺りを見回すと、見慣れない殺風景で小さな部屋にいた。何気なく枕元に目をやるとそこには空色の長い髪と翡翠色の瞳が印象的な美しい少女の姿があった。
「お兄ちゃん……」
聞き覚えのある声に、ようやくその少女がルカであることを認識した。改めて、ルカの顔を見ると涙を流している。どれだけの時間泣いて、袖で涙を拭ったのだろうか。肉眼で分かるほど、制服のコスチュームの袖が湿っていた。
「なんで、泣いてんだ?」
「だって、もうダメかと思ったから」
ああ、そうか。あの時、ルカが飛び込んできて気を失ったのか。と、ルカの一言で大体の事は把握できた。
最初は自分がどれほどの重傷を負って、危険な状態にあったのか分からなかったが、震える声で一生懸命説明してくれたルカのおかげで大体のことは分かった。
あの時、背骨骨折による脊髄損傷。内臓破裂によるショック状態で、すぐさま治療しなくては死んでしまうほどの重症を負っていた。幸運なことに、天皇陛下の住まう皇居周辺には最先端の医療技術を備えるメディカルセンターがいくつも点在していたため、旧国会議事堂と皇居のほぼ中間地点に位置する第2メディカルセンターへと搬送されたユウラに緊急手術が施された。
破裂した臓器は人工臓器と取り替えられ、背骨の骨折により損傷した脊髄は、ユウラ自身の細胞から生成された特殊なボルトで固定することにより、難なく固定することができた。術後、2日間ほど安静にしていれば、全ての生体機能がそれらと適合するらしい。
鎖国をしていたと思えないほど、医療技術は飛躍的に発達している。
今や日本の医療技術において、致命的な外傷を負ったとしても、再生可能部位であれば1時間以内に処置を施すことで、89%の確率で蘇生することが可能なところまできている。
それほどまで、発達した最先端の医療技術を完備したメディカルセンターが近くにあったことは、不幸中の幸いと言える。
「どれくらい眠ってた?」
「えっと、62時間48分17秒かな」
「(細かいな……)今日で3日目ってことね」
「うん。もし、今日お兄ちゃんが起きなかったら諦めるように、お医者様に言われていたの」
「そうだったのか、心配かけたな」
「ううん。私が悪いの。ごめんなさい」
手術は無事成功していたが、ユウラが目覚める保証はなかった。いくら医療が進歩したとしても、人の体はそう簡単には変化しない。重傷を負えば、その負担は確実に蓄積される上に、手術を施せば更に体への負担が増える。だからこそ、手術が成功からと言って容易に安心することができないのだ。
特にユウラは外傷がひどく、生存確率も通常の半分以下と極めて危険な状態だった。
それを医師から聞かされていたルカは、自身がメディカルチェックした数値と照らし合わせ、ユウラの生存が僅か9%だということを知り、死を覚悟していた。
「もう泣くな。ちゃんと兄ちゃんは生きてるだろ」
涙が止まらないルカの頭にそっと手を乗せ、優しい声で言った。ルカはその言葉に何度も頷き、溢れ出す涙を拭った。
「ようやく目覚めたようだな」
1人の男が病室の中に入ってくると、ベッドに横たわるユウラに声を掛けた。
彼は、警備室でルカとアルマの監視、尋問を行っていた警備隊長。ユウラが意識を失った後、迅速な応急処置を施し、第2メディカルセンターに搬送した命の恩人ともいえる人物だ。手術後も、ユウラの生体反応を病院の設備で常時モニタリングしており、その経過を見守っていた。
「隊長さん……」
「隊長? ルカの知り合いか?」
「お兄ちゃんが旧国会議事堂から出て来るまで、隊長さんのお部屋で待たせてもらったの」
「部屋!?」
ユウラは警備隊長とルカの顔を交互に見て、警備隊長がルカに何か良からぬことでもしなのではないかと睨みつけた。
「何か勘違いをしているようだから教えてやる。君が制限を解除したままにしていたせいで、そこにいるALICEが旧国会議事堂まで助けに来た。おかげでこちらは迷惑しているのだ。クラフターである君なら、この意味は理解できるだろう?」
「ええ。理解していますよ。それで俺の処分は?」
「クラフター資格の剥奪とALICEの没収だ」
妥当な処分だった。ALICEの制限を解除したまま、保有者としての責任を怠ったのだ。自分の軽率な行動で招いてしまったこととは言え、大切な妹を失うことは決して耐えられるものではない。
しかし、規則は規則。法で定められたことを守れなかったのだから、その事実を受け入れるしかない。ましてや、軍の人間が証人ともなれば、弁解の余地もない。
悔やむに悔やみきれない結果に言葉が出なかった。
「……と、言いたいところだがアマテラス国王のご意向で今回の件は始末書の提出だけで、無罪放免だそうだ」
「え!? 無罪放免ですか!?」
「そうだ。将来有望なクラフターということで、寛大な措置をしてくれたようだ。話す機会があれば、礼を言っておくのだな」
「そうだったんですか。良かった」
絶望に似た喪失感から一転。まさかのアマテラス国王の粋な計らいで、暗く閉ざされ始めていた視界が明るくなった。
「ルカ」
「お兄ちゃん」
2人は見つめ合い、互いを失わずに済んだことを心から喜び、抱きしめ合った。
「喜んでいるところ悪いが、始末書を書き終えたらすぐに退院手続きを済ませて、領長に連絡しろ」
そう言うと、漆塗りを施した真っ黒な指輪型の通信機を手渡した。
「これは?」
「クラフター選抜大会本戦参加者用に作られた特注品だ。軍事連絡用の通信機を改良したものになるが、主に今後の日程や国王からの伝令をやり取りする為にしか使わん。肌身離さず身につけていろ」
原稿用紙10枚ほどの始末書をユウラの足元に置くと警備隊長は病室を出て行った。
「始末書か」
デジタル化が進んでも、誠意を表すものに関しては必ず手書きで行わなければならないという決まりがあった。普段は音声認識機能で文書を作成し、メッセージを送ることができるのだが、こればかりは反省の意味を込めて昔と変わらぬ手法を取っている。
ユウラは使い慣れないペンを持ち、ベッドの右隣にある机に向かって始末書を書き始めた。書いては消し、書いては消し、それを何度も繰り返す後ろ姿をルカは嬉しそうに見守った。
「っしゃあ! 書き終わったぁぁああ!」
始末書と奮闘すること5時間。元々、文章が得意ではなかったこともあり、必要以上に時間がかかってしまった。
「お、お兄ちゃん」
書き終えるのを静かに待っていたルカが急にそわそわし始めた。
「ん? どうした?」
「もう……我慢できないよ」
病衣の裾を引っ張り、頬を赤らめ潤んだ瞳で物欲しげに訴えかけてきた。
「我慢できないって、な、何を?」
見るからに様子がおかしい。何を我慢できずに自分に要求しているのかと、思考を巡らせたが、全く見当がつかなかった。
「それって今じゃないといけないのか」
「今じゃなきゃダメなのデス」
「も、もしかして……」
語尾が少し変なことに気づいたユウラは恐る恐る壁に掛けてある時計に目をやると、時刻は15:01と表示されていた。
「ちょっと待ってろ!」
ルカが何を求めているのか察すると、病み上がりの体に鞭打って、病棟の廊下を駆けた。そして数分後、ある物を手にルカの待つ病室へ急いで戻ってきた。
「今何時だ!?」
「15時14分39秒……デス」
「やっべ……早く口を開けろ!」
「お兄ちゃサマノお願令ヲ承認シマシだったらお口開キマス。早くッン」
人工知能による人格と兵器としてのプログラムが混濁し始め、支離滅裂な言葉を発している。
「美味しく召し上がれぇぇええ!」
目一杯に開けている小さな口めがけて、急いで用意したある物を投げ込んだ。
「あま〜い!」
両手を頬に当て、ある物を美味しそうに頬張っている。ユウラにとって、日常茶飯事のことだが、目覚めるのがあともう少し遅れていたらと思うとゾッとした。ALICEはより女の子らしさを追求している為、エネルギー源は主に糖質。それ以外の理由としては、体内に蓄積している核物質の兼ね合いもあり、石油などの燃焼系のエネルギーを使用することができないということもある。
「もう一個いくぞ!」
「はむっ! しあわせ〜!」
次々に口の中へ放り込んでいるある物とは、秋葉原で有名なスイーツ店アキバナナの売れ筋ナンバー1を誇るアキバナナプチシュー。バナナをベースに作った濃厚なクリームをふんわりと焼き上げたシューの中に詰め込んだそれは、女子の間で不動の人気を誇るスイーツである。
「ご馳走様でした!」
総額で6000円、個数にして30個のアキバナナプチシューがルカの体内に取り込まれた。
あっという間に食べ終えると、満足気に笑みを浮かべた。髪や肌のツヤも良くなりエネルギーの補給は万端のようだ。
ルカは1週間に1度、糖質を補給しないと自己防衛機能が発動し、エネルギー源を求めて予備動力源が停止するまで暴れ回る危険性を秘めていた。
今から3年程前、自宅の地下室でルカを再起動させた時の話だ。再起動に必要な最低限のエネルギーしか与えなかったせいで、起動直後に自己防衛機能が発動し、体を固定していた拘束具を無理矢理外して奇声を上げながら暴れ回ったことがあった。
再起動には、それなりの手順を踏み細心の注意を払って行わなくてはならないため、かなりの時間を要した。ユウラは集中力を切らさない為に、たまたま持ち合わせていたアキバナナプチシューをルカの口に放り込み、大事に至るとこはなかった。
アキバナナプチシューを与えた時間が午後3時少し回ったこともあり、それ以降、エネルギー補給から最低でも1週間置きにアキバナナプチシューをおやつ時に与えなくてはならなくなった。
本来ならば、糖質が多く含まれているものであれば、何でもいいはずなのだが、ルカはそれ以外を口にすると拒絶反応を起こしてしまう。単に好き嫌いがあるのか定かではないが、そういう感じになっている。
「ふう。お腹いっぱいになったか?」
「うんっ! エネルギー充填100%だよぉー!」
「ったく、世話の焼ける妹だぜ」
「お兄ちゃん、領長さんに連絡しなくていいの?」
「おっと、忘れるとこだった」
人差し指に指輪を嵌めた右手を正拳突きするように前方に突き出し、気合いを込めて叫んだ。
「オペレーションシステム起動! ターゲット、エリア3ハチオウジ・クダイ領長!」
「か、カッコイイ!」
「だろ?」
ドヤ顔で歯をキラリと輝かせながら格好をつけているが、「エリア3領長に繋いで欲しい」と言うだけで通信は可能だ。
昔からある原因不明の病《厨ニ病》に侵されているユウラは、危険度を示すGからSのランクの中でAランクの重病患者だ。Sランクまでいってしまうと、現実と二次元の区別がつかないほどになってしまう。
Aランクで留まることが出来ているのは、二次元の世界に求める欲求をルカという存在が解消してくれていることが大きな要因だ。
ボーカロイド初音ミクのコスプレをさせたり、好きな声優の声を真似た声帯装置を取り付けて、マニアックなセリフを言わせたり、それはもうやりたい放題だった。
『こちら、エリア3司令本部クダイだ』
そんなマニアックで異常なまでの厨二病患者であるユウラの呼びかけに、クダイ領長が応答した。
「ALICE CRAFTER Beginner Class No.13 アズマ・ユウラです!」
『君か。今日で退院できると警備隊長から連絡を受けているが、思いのほか元気そうだな』
「はい! ご心配お掛けして申し訳ありませんでした!」
『気にするな』
「ありがとうございます!」
ユウラは1次予選の時にクダイ領長が鬼の形相で激怒していた姿を見ていた為、かなり緊張していた。いかにも体育会系な雰囲気を醸し出していたため、決して失礼のないように、細心の注意を払い、必要以上にハキハキと話しているが、実際のところ、クダイ領長は規律や道徳に厳しい反面、部下や自分より年下の人間にはとても優しく理解ある人なのだ。
『退院祝いでもしてやりたいところだが、少し立て込んでいたのでな』
「何かあったのですか?」
『ああ、だが情報が不足して詳しい事は言えないが、何かわかれば、君にも連絡がいくと思う。それまでの間は日程通りに行動してくれ』
「日程通り? あの、特に日程とか聞いていないですけど」
『君と親しく話していた負けん気の強い女性のクラフターに伝えておくようにお願いしていたのだが、聞いていないのか』
「いえ、何も」
『そうか。聞いていないのなら仕方あるまい。君には至急パトロールに出発してもらいたい』
「パトロールですか?」
『巡回経路をALICEに転送しておく、それを頼りに行動してくれ』
「わ、わかりました!」
『では、健闘を祈る』
通信を終えると、ぶつぶつと何も教えに来なかったスズナの文句を言いながら、備え付けのロッカーに入っていた濃いカーキ色の軍服に着替え、真っ黒なブーツを履き、準備を終えると、お腹が満たされご満悦のルカと共に病室を後にした。