薫と美雨
降りてみて驚いた。
そこは何もかもが、白と黒のモノクロの世界だった。
道も、空も、家も、自転車も、郵便ポストも、木も、花も、
薫の視界に入る全ての物が、モノクロの世界だった。
薫の不安は頂点に達した。
泣きながら、そのモノクロの町を歩き始めた。
しばらく行くと、女の子が1人、道の端っこに
蹲っているのが見えた。
薄いピンク色のセーターに
モスグリーンのスカートを履いている。
どういう訳か、その女の子にだけは色がついて見えた。
女の子を見て、薫は嬉しくて駆け寄った。
唯一の色付いたものを見つけたのだから……
「何してるの?」薫は声を掛けた。
女の子はボサボサの長い髪の隙間から薫を見た。
再び俯いて
『遊んでるの』と言った。
蹲った彼女の足元には、欠けた茶碗や、草花が無造作に
散らかっている。
おそらく、《おままごと》をしているのだろう、と薫は思った。
「1人で?」薫は再び聞いた。
女の子は、その質問には答えず、おもむろに、錆びた安全カミソリで
自分の指の腹を傷つけ始めた。
薫は驚いた。
驚き過ぎて、声も出なかった。
女の子が言った。
『こうすると、お母さんが、指に絆創膏を貼ってくれるの』
今にも消えてしまいそうな、儚げな笑顔だ。
『お母さん』という言葉で薫は、いなくなってしまった
パパやママの事を思い出した。
涙が、後から後から 溢れてきた。
女の子は また、髪の隙間から薫を見た。
『あんた、どこから来たの?』
それは薫が聞きたかった。
一体ここはどこなのか……
薫が泣き続けていると、今度は名前を尋ねられた。
しゃくりあげながら彼は
「萩原 薫」と答えた。
女の子は血の滲む手で、先程の安全カミソリを使って、
細長い草をゴリゴリと切りながら、
『女の子みたいな名前だね』
と言った。
よく幼稚園でもからかわれる。
何でこんな名前を付けたのか、とママを責めたことがあった。
薫が生まれた日、病院に駆けつけたパパの手には、
一輪のバラが握られていた。
一生懸命赤ちゃんを産んでくれたママへの、プレゼントだと言って……
ママはバラに顔を寄せて、
「何て良くかおる バラかしら!」と喜んだんだ。
ちゃんと素敵なエピソードがあるのに、名前を
からかわれて、薫は少しムッとした。
『でも、いい名前……』
女の子は切り終えた草を、欠けた茶碗に移しながら そう言った。
「あ、ありがとう…… 君は?なんて名前?」
『私は、美雨』
6歳の薫には、響しか分からなかったが、
可愛らしい名前だと思った。
「いい名前だね!」と薫は言った。
「ねえ、美雨ちゃん。隣に座ってもいい?」
美雨は、さっきの欠けた茶碗を自分の横に
『どうぞ』と言って置いた。
「ありがとう。いただきます」
薫は、ままごとに加わった。
「美雨ちゃんはいつも1人で遊んでるの?幼稚園には行かないの?」
『幼稚園って何?』
美雨は幼稚園には行っていないらしい。
「美雨ちゃん、何才?」
『5才。もうすぐ6才』
美雨は、傷だらけの5本の指を広げながら言った。
薫と同い年だ。それなのに幼稚園に行ってないなんて
どうしてなんだろう……
薫は不思議に思った。
「美雨ちゃん、お家どこなの?」薫が再び尋ねた。
『そこ』美雨は、車どころか、人っ子1人通らない
モノクロの砂利道を挟んだ、向かいの家を指差した。
家というには、あまりにも粗末な建物だった。
「お父さんや、お母さんはいないの?」
『お父さんは知らない。お母さんは、私の事が嫌いだから……
だから、私はいつもここで遊んでるの』
「そんな事ないよ。お母さんは美雨ちゃんの事好きだよ、絶対!」
『お母さんだけじゃないもん。誰も私の事、好きになんかならないもん。
私はいらない子だから……』
「僕は……僕は嫌いじゃないよ!今ね、僕、
どうしてか分からないけど、全部が白黒に見えてるんだ。
なのに、美雨ちゃんの事だけは、ちゃんと色が付いて見えるの。
だから、美雨ちゃんに会えて嬉しかったんだよ。とっても!」
『そっか……』俯いて、美雨が少しだけ笑った。
それを見て、薫は少し安心した。
同時に咲希姉ちゃんの事を思い出した。
「ねえ、美雨ちゃん。僕、咲希姉ちゃん……えっと、
叔母さんとバスに乗って来たんだけど、バス、
どこから乗るのか知らない?」
『付いて行ってあげる』
2人はバス停に向かって歩き始めた。
相変わらず、町はモノクロのままだった。
歩きながら美雨が言った。
『明日も来る?』
「うん。叔母さんに聞いてみるよ」
『本当?』そう言った美雨の髪を、
一陣の風がすり抜けた。
初めて見た彼女の顔は、目も、口元にも大きな
青黒い痣があった。
薫は驚いて立ち止まった。
「美雨ちゃん、その顔……」
美雨は、慌てて髪で顔を隠した。
「誰がそんな事したの?ねえ、どうして⁉︎」
『私は、いらない子だから……』
「僕が守るから!大きくなったら、迎えに来るから。
強くなって、美雨ちゃんを助けに来るから、だから待ってて」
『……』
美雨は下を向いて泣いていた。
2人でバス停を見上げた。
「これなんて読むの?」薫が聞いた。
『シンマチ』美雨が答えた。
「明日、叔母さんに聞いて また来るから」
やって来たバスはモノクロのままだったが、
薫はそのバスに乗り込んだ。
一番後ろの席に行き、座席にしがみつく様にして外を見た。
美雨がこちらに向かって手を振っていた。
見えなくなるまで、お互いに手を振り続けた。




