雨の日の話
日本では、燕は野鳥で、法律によって飼うことは禁止されているらしいですよ。ええ。
「紫の兎」
霧は深く濃い。
眩い光が白々しい。
私は森の中を歩いていた。何故だか私は、ひたすらにここを歩き続けていた。
思えば私の人生には何もなかった。
より良い進路を進み、良い会社に入って社会に貢献する。自分の生活に疑問を抱くことはあれど、余念は必死に振り払って生きてきた。
そういえば、今日は仕事で少し、やらかしたんだったな。
記憶が蘇ってくる。雨だ。雨が降っていた。私は雨の中を、傘も差さずにいた。
信号機が酷く不気味に光っていたのを覚えている。
視界は悪く、人気もない。
私は俯いたまま道をふらりと横断した。しようした。
記憶にある閃光は、そうか、車のヘッドライトだ。鉄の塊は速度を一切落とすことなく接近する。私は動けずに、動かずにいた。運転手は私に気付いていないのだろうか。反応が無い。紅色の真新しい乗用車は駆動音と雨音を巻き込みながら、静かに、何も言わずに、私に触れた。瞬間、私の意識は無くなった。
霧は不快だ。土は湿り気を帯び、靴に柔い泥の重さを感じながら、緑色の気配と、淡い自然の神秘に囲まれ歩く。
不意に視界に朱が混じる。
私は、微かな人への執着に身を任せた。
途端に霧は晴れた。
見上げれば青空。周辺の樹木は無骨にひび割れ、大層な老木であったことにようやく気が付く。これほどの森林を、私は見たことがない。
「おや、迷い人か? 珍しいな」
ふと声がした。若い、女の声だ。
目前には焚き火をするあどけない少女がいた。紫色の艶やかな髪と鮮やかでいて仄暗い瞳。
「良かった」
私は人に会えた安堵で知らずそう言った。
「ここはどこだ?」
見ず知らずの人に大変失礼な態度やもしれないが、聞く。
紫の少女は私を一瞥すると、視線を揺らめく炎へ戻す。
「君は、中々不思議な格好をしているね」
「ただのスーツだが」
「スーツというのか? 祖国ではそのような衣服は見なかったな」
祖国では見なかった? 彼女は××人ではないのだろうか。なら、何故言葉が通じよう。
「ここがどこか、君は把握していないのだな?」
「そう言ったが」
ふむ、と、彼女は僅かに思案する。倒木に腰掛け、足を組むと、焚き火の側に座るように言った。
「君は死んだのだよ」
ああ。はあ。
「まあ、確かに、車にはねられた記憶はあるけど、そんな荒唐無稽というか・・・」
「車? ・・・あぁ、・・・そうだね。君は今、文字通り生死の淵を彷徨っている所だ。
ここはね、イサカの森と言って、近隣の村からは聖域として畏敬されている場所なんだ」
聞いたことがないな。
夢か、幻か。胡蝶の夢だったか。そういう現象なのかもしれないな。
森の奥から轟くような音がした。
「じゃあ、なんだ。お前も死んだのか?」
彼女はそれに答えない。やや不機嫌な顔していた。
「そういえば、自己紹介がまだだった。私は、そうだな。紫の兎とでも名乗ろうか。
イサカの森には、私個人の探究心でのみ侵入したんだ。私は生きているよ」
兎ね。ここが夢なのか異界なのかは知らないが、この世界においてはそれが名前になるのだろうか。それとも、通り名的なものだろうか。
「私は、えと何だったかな。確か、裕二という名だ」
兎と名乗る少女は静かに頷く。
「裕二か。うん。それで君、裕二、このまま放浪を続ければ、裕二は死ぬことになるだろう」
黙ることしかできなかった。彼女の言葉は重く、切なかった。
「だが、私なら裕二を救ってやることができる。どうだろうか」
「そんなもの・・・」
決まってる。とは、言えない。言えないはずだ。
不自由な無かった。理不尽も無い。私の人生には、何も嫌なことがなかった。なら、僕はあの世界に、帰るべきだろうか。
不幸は無かった。代わりに幸福も無かった。私の日常には、“何か”というものが欠けていた。帰るべき世界などない。
僕に、居場所は無いのだ。
私は彼女の紫の瞳を見据えて、言った。
「やめとくよ」
兎は、嘲笑うでも、不思議がることも何もせず。ただ、一言、素気なく返した。
「そっか」
けれど、僅かに、哀しみがあった気もした。多分、私がそう願ったからだ。気のせいなのだろう。
私は、静かに森を歩き始めた。
森は静かだ。
眩い陽光が霧を抜けて清々しい。
そして、私の意識は、少しづつ、微睡むようにゆっくりと、 消えていった。
もし、次に私の生があるのなら。僕らしく生きようと思う。
そうだね。次は、ツバメでも飼ってみたいかな。
僕に幸福がありますように。