大晦日には激闘を 前編
ルーシーはオレを恨んでいる。
これはあのやわらかな唇の報復なのだ。だったらオレは、罰を粛々と甘受するべきなのだ。
相も変わらずオレは机に向かっていた。
ひどく懐かしい感覚。なんとかかんとかやりごたえのある問題に向き合っている。
中学受験で合宿をしていたときのことを思い出す。
もし第一志望の中学校、高校に合格できなくて悔しい思いをしている人があれば言っておきたい。
今のオレよりはきっとましだ。
オレは幸運だったのだろう。
いや、不運だったのだろう。
往時の俺は、学業に燃えていた。勲立中学に入ろうと、ぐらぐらと豚骨を湯だたせ、それはもう濃厚な骨髄のエキスを満々と湛えた。催眠術にかかったかのように臥薪嘗胆、一意専心、前途洋々、受験に向けて邁進していた。
それでも、勲立中学校は厳しいと言われていた。何せ受けた模擬テスト全てでE判定。でもオレは諦めが悪かった。勲立対策の問題だけに集中して取り組み、進学塾で合格るためのノウハウを叩き込まれ、講師の読みも当たり、全てにおいて万全なバックアップを受け、エリートと呼ばれるような国立の中高一貫校、勲立中学に合格した。入ってしまった。
それがオレのピークだった。
オレは恍惚とした表情で麺を啜った。一学期は途方もなく美味だった。
入学して、二月もすると教科書に穴が空いた。学校の要求は高く、中学一年で高校で扱う内容を習った。豚骨ラーメンの獣臭さが鼻をつくようになった。悪い言い方をするとオレ達はモルモットだった。実験的な新しい教育理論を導入し、その成果を測る。「ここは欧米人的な思考や発想が必要だ」とか言い出して教科に関わらず英語で授業が進められることも多かった。もちろん現場の教師は優秀だし生徒の吸収力も高いのでどんな斬新な授業をされようが大して問題ではない。
クラスメートは柔和だった。何食わぬ顔をしていた。が、ひとたび問題を目にすると、傑出した発想力でたちまちねじ伏せた。クリーミィな髄の旨味が存分に楽しめる傑出した豚骨スープをつくりあげた。
平凡に青ネギを加えるだけのオレとはモノが違う。
生まれ持った、知性。
結局、オレは外部的要因に依って勲立に籍を置いただけの、虚構、紛い物、凡百の存在。
オレは只の人間だ。きっと彼らの中には。デザイナーベビー……所謂、遺伝子組み換え人間も居るだろう。何割がそうなのか知る由もないけど。
オレは学業から目を背けた。家に帰ってしまえば、穴のことは気にしなくて済んだ。ゲーム、アニメ、萌え、目を塞ぐ術はいくらでもあった。
一度、差がつくと、オレは一気に奈落の底まで落ちていった。毎日の授業が苦痛で仕方なかった。遅々として進まない長針を眺める日々。
今思えば、落ちてしまった方が良かった。
進学塾をやめたオレは裸同然だった。自分の能力が足りない。努力もしないではこうなるのは必然だった。
だからね、滑り止めの学校に通っていたとしても、後悔なんてする必要はない。オレから見れば授業が簡単なのはメリットだらけだと思う。定期考査で点数を稼げば、推薦入試も狙えるしね。
水を張り、蒸し器に細かく刻んだ生姜を入れてスイッチを入れる。
チサトは毎晩三つ編みで寝るようになった。朝、目を開ける度にトラウマが蘇る。
オレは本当におかしい。
呻くように呟いた。
「ここかぁ……」
チサトはぐったりとノートPCにしがみついて目を瞑った。
何かが終わったらしい。
「カガミ、DOFやっていいよ」
?
突然お許しが出た。多少、困惑しながらもチサトの気が変わらないうちにとオレは立ち上がった。蒸し器の加熱を止める。蓋を取ると清涼感溢れる芳しい香りが部屋に広がった。
麻薬中毒者って、こんな感じかもしれない。ゲームに飢えていたオレはノートパソコンをこたつに据えて「パソコン起動。DOFログイン。皮下脂肪弁慶。ゲームスタート」とつぶやく。
DOF時間はまたもや夜だった。
見覚えのある日本庭園が目の前に広がっていた。前回ログアウトしたのはここだった。少し季節も進んで桔梗の蕾も膨らんでいる。気配がして振り返るとルーシーもログインしていた。
?
ノートPCのスピーカーから、もう一つ足音が聞こえた。今いるエリア、『政治都市わんわん京』は邪魔が変な動きをすることはない、ダンジョン扱いの領域だ。
西中門から誰かが庭に入ってくる。
鶴やら鳳凰やらが乱舞し、白い生地に椿やら牡丹やらが咲き乱れる巫女装束風な衣装を身にまとい、赤無地の袴、髪上具を被った黒髪ストレートに色白の女だ。
チサトが感慨深げにつぶやく。
「やっと……見つけた」
そしてオレの家に沈黙が訪れた。オレはキーボードを叩く。
皮下脂肪弁慶:こんにちは
???:こんにちは
オレはふっと息を吐き出した。吹き出しそうになったが息を呑んで抑え込む。さて。
皮下脂肪弁慶:これからここのボスを食べようと思うんですけど一緒にやりません?
反応が遅い。
???:はい
無事PT加入と相成った。途端になぜかチサトの眉が曇る。ああ、ルーシーと一緒なのが嫌なのか。
「ナ……」
オレは自分の目を疑った。PT加入により???と表示されていたキャラの名前が見えるようになったのだがそれが、その。
花散里って名前だったのだ。
皮下脂肪弁慶:散里さん、ロールは何ですか?
やはり反応は遅い。
花散里:?
皮下脂肪弁慶:初心者さんですね。どんな仕事ができますか?
花散里:仕事はしていません。中学生です
オレはとうとう吹き出した。
皮下脂肪弁慶:いえ、リアルじゃなくて、DOFでの職業です
「あ……」
リアルのチサトが呻いた。どうやら息を呑んでオレの様子を伺っている。オレは気付かないふりをして。
花散里:パンが焼けます
オレが休止している間に随分長閑な職業が増えたものだ。一体DOFはどこに行こうとしているんだろう。街を構成する人々の職業を網羅して文字通りみんなで楽しくお遊戯でもしようと言うのか。
皮下脂肪弁慶:おそらく援護系の職ですね。承知しました。早速ですがここにパンがあります。これで何か作れませんか
花散里:やってみます
巫女服の少女は携帯調理器具を颯爽と取り出して何やら作業を始めた。と、「チン♪」と音が木霊して。
花散里:できました
そして花散里のアバターは緊張した面持ちでパンを差し出した。パソコンのカメラも切ってないだろうし表情認識もオンのままなのだろう。
手渡されたものはとても活きがいいパンで、ぴっちぴち躍動しており手からこぼれそう。さて、新鮮なうちに食べてみましょうか。ダブルクリック。
「あ……」
パンから鳥が飛び出して、どこへともなく飛び去った。
「なあ、散里……」
あ、やっちまった。
「なんだ、気付いてたんだ」
「てか、本名入れちゃうとかやばいだろ。まあまさか本人だと思う奴もいないかもしれんが」
「だってさ、何度も死んだからもう名前思いつかなくってさ。ああ! タイピングしなくていいって楽だわ」
おそらく、オレを驚かせようとでもしてたんだろう。それで何日も広いDOFの世界を彷徨い、迷子になったり邪魔に殺されたりして、今日、ようやくここにたどり着いたってわけだ。本当に、まったくもって馬鹿な奴だ。
パンは『かつてうぐいすパンだったもの』という名前に変わっていた。わずかにパンにうぐいす餡が残っている。もう一回ダブルクリックすると、ゆっくり噛みしめて食べ始めた。体に力が籠もる。効果は十分間。
三人は忍び足で反橋を渡って中島に至った。
「何してるの? 早く行きなさいよ」
チサトが急かす。
オレはうっとりと柴式部先生を眺めていた。
「ああ、卦魂もいいけど柴犬も可愛いな」
こんがり美味しそうに焼けた背中、胸回りから腹部は真っ白でどこからどう見ても食パン。そしてちんまりとした肢体がすっぽりと絢爛にして雅やかな十二単《五衣唐衣裳》の中に収まり、真っ黒でつぶらな瞳が隈なき望月を眺めていた。こんなににぷりちーな生き物を殴れと言うのか?
「ねえ、月に、なんか影があるんだけど」
「今日は美術と健康の神の祝祭日なんだ。祝祭日は満月で、月に神の影が映る。そしてその神の信徒は強い力を発揮する」
豊かな髪を垂らし、体を反らし手を上へと差し伸べる美術と健康の神が我が身の美しさを誇示している。
「ここ、死体がすごいね。ごろごろ」
「そうだな」
DOFはオンラインゲーム初心者にお勧めできるものではない。ほとんどのオンラインゲームは、戦闘不能になると自分の意志で街などの復帰ポイントに戻ることができる。
DOFは違う。誰かの手を借りなければ、いつまでもそこに転がっていることになり、持っていたアイテムと現金を奪われる。もちろん、もう一人キャラを作って、自分の手で助けることはできる。
そこに自力で行ければ、だが。
このシステムは現在に及ぶまで賛否両論だ。議論の行方がどうあろうと今も仕様は変わっていない。
近づいても柴式部に反応はない。
でも、これはゲームだからね。
ファンクションキーを押して、《再三再四》という必然を使用。三の数字を模した鈍器と四の数字を模した鈍器が現れる。右手と左手に装備。振りかぶったまま忍び歩きで柴式部に接近し、襲いかかった。
「あな助けよワン。曲者よワン!」
柴式部先生は扇で顔を覆うと、叫んだ。と、あちこちから犬達の唸り声が聞こえた。
再三と再四は攻撃回数を増やす効果がある武器だ。柴式部をしこたま殴りつけた。
闇から湧き出てくるように、慌てて物の具を身につけながら衛士の皆様方が喚声響かせ殺到してきた。
戦闘開始。あらかじめ組んでおいた『対強敵』のデッキをダブルクリック。
護衛が湧いて来るのは想定内。でも先に衛士を掃除しておくべきだったかもしれない。
「オレはこいつらを食い止める。攻撃は任せるぞ」
「おっけぇー♪」
「了解」
この戦闘で負けて意気消沈したルーシーがDOFをもうやりたくないというそぶりを見せやしないか、危惧した。DOFがどんなに面白いか、知ってもらいたかった。
オレは《牽制》カードをダブルクリックしスロットにねじ込んだ。まず相手の出方を見る。そんな意味のカードで相手がどんなカードを出そうがひどい結果にはならない。いい結果にもならないが。
二足歩行する甲斐犬と北海道犬がオレのお相手だ。立派な大鎧に兜も身につけている。
三人のカードが出揃い、衛士の差し出すカードが裏返った。《猛攻》《振り回し》。斬り合いの結果、なんとか最小限の被害に食い止める。
2ターン目の受付が始まり、新しいカードが配られた。DOFのキャラクターには知覚力という能力値が設定されており、これに依って視野が広がり遠くのものまで見えるようになり、物音が聞こえるようになり、異変を鋭敏に感じ取れるようになる。数使いはそれなりにこの能力が高く、深夜とはいえルーシーやチサトの様子が確認できた。
ルーシーは《闇の抱擁》という必然を行使。ルーシーの姿が闇に沈む。オレの背後でチサトはボールに粉を入れている。まさか今からお料理のお時間が始まるのか。一方、当の柴式部先生は背中を向けて逃げ出した。オレはとことん壁役に徹するのみ。《回避》をセット。
カードが裏返る。衛士のカードは《先の先》《防御》。一人目のカードは見たことのない必然だった。カードの色で《振り回し》系のカードであることは解るが。
オレが回避行動を取る前に、素早く甲斐犬は斬りつけた。さすがに避けきれず、深手を負った。《先の先》はどうやらこちらが行動する前に攻撃してしまう効果があるようだ。チサトはボールにレモンを絞り、お湯を加えている。ルーシーは見えない。
「助太刀致すワン」
「かたじけないワン!」
厄介なことにまた、槍を持った紀州犬が参戦。これは痛い。
3ターン目。オレはカードを出さず、チサトの前方辺りにポインタを合わせ、クリック。これで《移動》という行動が取れる。
衛士のカードは《後の先》《挑発》《突き》。甲斐犬のカードはやはり見慣れないものだ。青いので《反撃》系のカードだと判る。
さて、チサトは木べらでまぜまぜ。
視界の奥で何かが蠢いた。
闇は妖しい艶を帯び、やがてそこだけ屹立し、人の形を現した。振りかざした刀身が月光を浴びて緩く弧を描いた。
《背面攻撃》。
《闇の抱擁》の効果で全く不意を打たれ、闇の中から突如伸びてきた短刀に北海道犬が刺し貫かれるとオレに《挑発》しようとしていた北海道犬は転倒。オレはチサトの前に陣取る。
衛士の一人が出した《反撃》系カード、《後の先》は《反撃》の上位互換で《反撃》同様、相手の攻撃する力を利用するカードだろう。対象にしていたオレが退がったたために反応せず。《突き》からも首尾良く逃げることができた。前のターンでダメージを受けると次のターンの行動にペナルティーが課せられる。が、《移動》はそのペナルティーをリセットする効果がある。
何か物音が聞こえる。ああ、仮想サラウンドにしておけば良かった。どの方向からか判らない。どうせ良くないことが起きるに決まってるし。急いで設定をいじる。
4ターン目。《軽量化》をスロットにぶち込む。
チサトはパンのタネを捏ね始めた。
混乱したのは衛士の三匹だ。背後を見せないようポジショニングするが何せ一人は闇の中、どこにいるかよく判らない。二人がオレに背中を向けた。北海道犬は瀕死。オレに攻撃してくるものはいない。オレは悠々と数使いの必然、《軽量化》を発動。再三と再四の質量が激減する。
ルーシーは甲斐犬と紀州犬を相手に交戦。どうやら衛士の処理は何とかなりそう。
5ターン目。《猛攻》を選択し甲斐犬にマウスを合わせてクリック。
チサトはボールにパンの種を戻して、仁王立ちでご満悦のご様子。発酵か。
オレは甲斐犬に挑みかかった。甲斐犬のカードは不運なことに《回避》。《猛攻》の天敵と言えるカードだ。我が身を省みず渾身の力を込め攻撃するため大振りになり、《回避》されやすく、避けられた次のターンはバランスを崩し、ペナルティーを負う。
しかしそれでも《軽量化》の効果はすさまじく、再三と再四は躍動し、オレの腕は千切れんばかりに荒ぶり、逆巻くスープの如く衛士を強襲、一,二、三、と回避はしたものの四発目を肩口に受け、そこからは次々に被弾、次のターンで逆襲どころではなくなってしまった。もう一人の衛士は《突き》を繰り出すがさしたる被害は受けなかった。
「東中門の方から木が軋むような音が聞こえるわ」
ルーシーの報告。さてはて。
6ターン目。
DOFの戦闘はカードを用いるが、補助カードとメインカードの二枚を1ターン内で使うことができる。補助カードは頭脳戦を仕掛けるものだが、基本的にカードを使うと体力や集中力を消費し、能力が低下するのでカードを使えば良いというものではなく効果的な運用が求められる。
オレは補助カード《予測》をセット。槍を構えた紀州犬をクリック。すると紀州犬がここまで使ったカードが表示された。てか、こいつ《突き》しか使ってない。《突き》をクリック。そしてメインカードとして《反撃》《カウンター》カードをセット。
花散里:では、予め発酵させておいたものがここに
と、料理番組みたいな事を言い出してチサトはどこからともなく発酵済みのパンのタネを取り出した。最初っからそれを使っとけばいいんじゃないかな。
衛士の出したカードはやはり、《突き》。
「オッケー」
オレの体が明滅する。《予測》が当たった徴だ。槍を最小動作で躱し、前のめりになった紀州犬の頭部に渾身の打撃を加え、続けざまに肩口に、胸に、連打を叩き込む。紀州犬のカードを読んでいたのでオレの行動に修正がついたのだ。逆に読み間違えればペナルティーが課せられるので《予測》は出せばいいというものでもない。紀州犬はもんどり打って倒れた。
そしてオレは重苦しい物音に耳を澄ませ、闇に目を凝らした。
そうか、車宿か。
東中門に隣接した施設、紫……じゃなかった柴式部先生はあそこに行って車を出して来たんだ。
7ターン目。の入力受付時間が終わる。茫然自失。カードを出さず《移動》もしなかったオレは自動的に《待機》状態になった。そして牛車が宙を舞い池を次々と飛び越えて目の前に現れるのを眺めていた。牛車が着地すると前簾が跳ね上がり、中から華やかな着物の袖口が覗いた。
「オレの知ってる牛車と違う」
チサトはパンのタネを円状に伸ばしておいて、棒状に伸ばしている。ルーシーは戦闘力の低下した衛士を半死半生に追い込んでいた。とりあえず柴式部先生以外は無力化した。
さて。
ターン8。オレは手元に唯一あった守備系カード《防御》をセット。
カードが裏返る。《柴式部の暴走》 。
御者もいないのに鞭の音が鳴り響いた。牽牛は双眼に紫と青の炎を宿し、オレを見据え、モー然と駆けだした。幸いにも牽牛が狙うのはオレ。そりゃそうだ。先制攻撃したのはオレで、柴式部の敵対心があるのはオレだけのはずだ。
伸びやかに。
それが意志そのものであるように、四肢を存分に躍らせて、牽牛は平橋を飛び越え、オレを踏みつけようとした。オレは再三と再四で受け止める。
ああそうだ。オレが間違っていた。
とても耐えられるものではなかった。オレの体は湯に落ちる刀削麺みたいに跳ねた。オレの体は池に落ち、衝撃を多少緩和してくれたのはわずかに幸運だった。
うん。まだなんとか体は動く。牛車は勢い余って築地に激突した。
一方チサトはまたも仁王立ちでパンのタネを眺めていた。二次発酵か。まるで別世界に存在しているようだ。
ターン9。《回避》が欲しかったが引けなかった。仕方ないので《移動》で代用する。
柴式部のカードは、《移動》。どうやら一息つけそうだ。
牛は築地に激突した体をゆっくり反転させ、オレを正面に見据えた。まだまだやる気十分のご様子。
チサトは何やら必然を行使してレンガ造りのパン焼き釜を出現させる。
ルーシーは? おそらく闇に潜んで機を窺っている。彼女ならうまくやってくれるだろう。
ターン10。以降。オレはひたすら牛車から逃げ続けた。柴式部は、《移動》と《柴式部の暴走》をひたすら繰り返した。オレはチサトとルーシーが牛車との対角線上に入らないよう留意しながら且つもちろん自分も先に避けられるよう細心の注意を払いつつ逃げ回り続けた。走りっぱなしだったので息が切れ、少しずつ足が止まり始めた。牛車が飛んでくるターンにオレが攻撃するわけにはいかない。かと言って牛車が体勢を立て直すターンにオレが攻撃しようとしても牛車は遙か彼方。もう築地はあちこち穴だらけ。庭は四方八方蹂躙されている。チサトは釜に火を入れ、またもや「では、予め発酵させておいたものがここに」とか言い出してまた新しいパンのタネを取り出し、そいつに切り込みを入れて、ようやく焼きに入った。ルーシーは何度か奇襲を試みてはいるが何せ一つ所に留まらない柴式部先生、右往左往して手を焼いている。ようやく攻撃が当たっても牛車の後部にかすり傷をつけるだけだ。
ターン25。
来た!
「ルーシー、次のターンで勝負に出る。オレの近くに来てくれ」
「わかったわ」
オレは寝殿から延びて中島に架かる建物――釣殿の中に移動。
「何この果物。うわー中、黄緑だ。……ねちょねちょしてる」
チサトは生ハムとアボカドでトッピングかなんかを作っていた。中の人がまったく料理しないのですこぶる違和感がある。
ターン26。オレは前のターンで引いた念願の《回避》をセット。
《柴式部の暴走》は赤いカードだ。つまり《猛攻》系のカード。つまり《回避》が有効。
オレもボロボロだが牽牛もだいぶ疲れが見える。《回避》が《移動》より優れているところは避けた後に相手との距離がそう遠くならないところだ。
さあ来い。オレは振り返る。「ようやくオレを捉えられる!」と仰る泥だらけの牽牛の歓喜の雄叫びが地鳴りのように鳴り響く。突進。オレは慌てて飛び退いた。
轟音と共に釣殿が崩れ落ちた。崩落した釣殿の破片で多少のダメージを負う。でも、これで牛車と肉薄したまま次のターンを迎えられる。
「チーン!」レンガが叫ぶ。
どうやらパンが焼き上がったようだ。チサトがトングを燃え盛る釜に突っ込むと灯火の光を受けて燦然と輝く細長い棒状の炭がお出ましになった。チサトがトングを振ると炭がレンガに当たり、キンキン鋭い音が鳴り響く。
「うーん、ちょっと焦げたかも」
それをちょっととは言わない。
さすがDOF。中の人のスキルも影響してるのか。
ターン27。何をするかはとうに決めてある。ポインターがうまく合わない。
《予測》→《移動》。《数の暴力》。
オレは大胆に牛車の前に躍り出た。動き出そうとする牛車の機先を制する。
オープンフェイズ。カードが裏返る。
は?
色が違う。
《柴式部の暴走》。
は?
連続で《柴式部の暴走》だと?
オレの《予測》は外れた。オレの行動にペナルティを負う。オレは無防備な体を牛車の前に晒したのだ。
なあに、《数の暴力》は数使いの切り札。これで十分のはず。
オレは両手を突き出した。
数字が湧きだし、くるくる踊る。
アラビア数字。漢数字。ギリシャ数字。インド数字。ローマ数字。
膨大な数字の奔流がうねりとなって迫り来る牛車と激突した。
そうか。別に2ターンに一度《柴式部の暴走》って訳じゃなかったんだ。体勢を整えるために1ターン費やしていただけで状況が許せば連発も可能……。
そうだよ。前のターンに《柴式部の暴走》が来ることは確定していたんだ。そこで《予測》→《柴式部の暴走》。メインカードを《回避》としておけば最小動作で《回避》でき、オレはこのターンにボーナスを持ち越し、より効果的に《数の暴力》を叩き込めた。
口で息をする。牽牛が痛みに喘ぎ、夜空を仰いで呻いた。
果たして《数の暴力》は《柴式部の暴走》を止めて尚余りあるものだった。
しかし、皮下脂肪弁慶の体も脳も完全に疲労してしまった。もう動けない。もう何の必然も使えない。呆然と戦況を眺めているとルーシーが駆けつけ、簾を掻き分け牛車の中に飛び込んでいった。
物音がした。ああ、オレのキャラは疲労しきって知覚力に影響を受け、今の今まで気づかなかった。後ろから何かが近づいてくる。……太刀を腰に帯びた土佐犬だ。
「何奴……」
あ。抵抗する術がねえ。
攻略サイトで柴式部先生について予習しておくべきだったかもしれない。彼を知り己を知れば百戦殆うからず。
でも。敗北するかもしれないけど能動的に適宜判断して最適解を導き出す、それがゲームの醍醐味じゃないか? その面白いところを放棄して攻略サイトの仰せのままになぞるなんて、そんなの傀儡じゃないか。そんなのゲーム実況でも見てた方がましだ。最近のゲームは面白くないと言ってる奴に限って攻略サイト見まくってクリアしていやがる。可哀想に。そんなやり方しか知らないのかもだけど。
仮に敗北したとしても、試行錯誤して突破口を探すんだ。ゲームのいいところは死んでもそこで終わりじゃないところだ。そうして創意工夫が実って倒せたときの充実感とカタルシスと言ったら!
座椅子にもたれ、マウスカーソルが明滅するのを焦点の合わない目で眺める。さすがにピンチを悟ったのだろう。チサトがしゃしゃり出てロクに戦闘能力もないくせに土佐犬に向かい駆けていった。真っ黒なバゲットを振るう。耳をつんざくものすごい音がした。そしてガランガラン足下から音が鳴り響く。折れた刀身が床を回りながら転がり、やがて止まった。
目を凝らす。何が起こっているのか理解するまで少々時間を要した。
つまりチサトはキラキラ輝く真っ黒なバゲットを手に突撃し、土佐犬の太刀と邂逅し、ぽきりと折ってしまったのだ。
チサトの得物にマウスを合わせ、ダブルクリック。これで《調査》という行動が取れる。どうせオレはもう戦力にならないのだ。何が起こったのか興味があった。
調査結果。『バゲットのなれの果て。あまりに狂った高温加圧の末、炭素とダイヤの混合物ができあがった。食べられない』
ファンタジーだ。
チサトは猛然と土佐犬に打ちかかり、腹部に強烈な打撃を加えた。土佐犬が前のめりに倒れる。
「パンは剣よりも強し!」
オレを救出して英雄気取りのチサトが大見得を切ってみせる。ついでに案の定おならをした。するとまだカメラを切ってないのだろう。ゲーム内の花散里まで大見得を切った。うーむ。チサトのことだから明日は「パンが無ければペンを食べればいいじゃない」とか言い出すに違いない。
「チサト。その勢いで柴式部先生も頼む」
「ふふ。仕方ないなあ」
こりゃまた大した救世主様だ。チサトは意気揚々と牛車の中に飛び込んでいった。どったんばったんすったぁもんだぁの末、唐突に牛車がかき消え、ルーシーとチサトだけがその場に放り出された。
倒したのか……?
放心状態のオレはどっしりと背もたれに体重を預ける。
「チサトがやっつけた!」
と、チサトはノートパソコン越しにオレを見る。
「あー、すごいすごい」
と、これで我が妹君はおならをした。
「あ、なんか落とした」
柴式部先生その他の衛士達が煙になって消えると、後に一振りの刀が残された。オレは重い体を引きずるようにして中島に降り、拾い上げる。
インベントリを覗く。銘は冷刀『薄氷』。見た目よりは軽い。抜いてみると碧い刀身は確かに氷でできているように見える。試しにその辺の岩を斬ってみるとラードでも切るように手応えなく切れた。刀身に見る見るうちに水滴が浮かび、右手に絶えず伝った。
「あの、その刀、わずかだけれど少しずつ短くなっているわ」
「なん……」
思わず呻いた。溶けてるのか? 慌てて鞘にしまう。
「今の戦闘で《後の先》というカードを手に入れたわ」
「それはいいね。もしかしたら、ルーシーは刀の潜在能力が高いのかもしれない。さて、撤収しよう。二人とも死体をどれか、回収してくれ」
柴式部先生に討たれたであろう遺体は無数に転がっていた。回収してないということはDOFをやめてしまったんだろうか。
「なんでそんなことするの?」
「うーん……」
深夜にも関わらず甘い甘い鶯が主の死を嘆いて一声、鳴いた。
光輝く装備を沢山身につけた女の子が転がっている。この子にしよう。
「DOFの習いなんだよ。みんながみんなやってるわけじゃないけど」