陽の光を浴びて…
……コング!
神虫の叫びを激突音が掻き消した。
二つ目の階段であった。
その猛ましい音の直後、真上から瓦礫がコングを襲った。
砕け散った階段と打ちすえられた窓の枠。そして無数のガラス片。
反射的に壁に張り付き、身体を丸める。
両手で頭を覆い被せ、とっさに角を手放していた。
角が床の上でコマの様に回転し、コングから遠ざかる。
その方向の先にエルを視た。半身で片腕を伸ばし、手のひらが開かれていた。
「クッソーッ!」
背に積もる瓦礫を吹き飛ばし、全身のバネが床を蹴った。
フンッ!
角に向かって伸び上がり、宙を飛んだ。
うつ伏せの着地が大理石の床を滑る。
伸ばした指先に角が触れた。
握ると同時に、視界がニコを捕らえる。
「ニコ!起きろ!」
明らかに意識を失ったままだ。不自然に身体がねじれ、横たわっていた。
首を振りステンドグラスの窓を視る。
そこにチルチルとミチルの姿は無い。
ニコに駆け寄り、その肩に触れた時、
……上だ!
神虫が声を張り上げた。
コング目掛けて石像が降って来た!
高窓の真横に据えられた等身大の石像であった。
ニコの脇に片腕を差し込み、床から一気に引き抜いた。そのまま身をひるがえし、踏み出すと同時に背後で轟音が弾けた!
突然、鈍い衝撃がコングの背中を襲う。
ズンッ!
硬い破片が背中を叩いていた。
たまらず息を詰め、一瞬、その動きが固まる。
……来た!
第二、第三の石像が宙に翔んだ。さらに後が続く。
聖者を模した石の彫刻が次々と襲いかかっていた。
右へ跳ねた。左へ反転した。コングの巨体がギリギリで攻撃を避ける。
四方からの波状攻撃が、一直線にコング達に襲いかかっていた。
交わした直後、床に撃ち込まれた石像が砕け、つぶてが破裂する。
粉塵を舞い上げ、破片が破片と衝突する。
ニコを脇に抱えていた。さすがのコングも息が荒い。
『ヤッベェ!』
その時、床が上下に揺れた。
地震の揺れでは無い。自然界には絶対に存在しない不気味なうねりだ。
固いはずの大理石の床が、波の様に上下を始めていた。
それは、ある一定のリズムで歪み、大きく捻れて折り返した。
その動きは、まるで生命体の脈動であった。
……隙を見せるな! こいつは奴が見せる幻だ!
『だろうよ。こんな事、あっちゃなんねぇ』
神虫の警告を聴くまでもない。コングも状況は理解していた。
だが、理解はしていても恐怖は沸き上がる。
その光景の恐怖もある。しかし、最大の恐怖は、自身の視覚をジャックされた事にある。
歪みがコングの足元で恐怖を誘っていた。
自分の眼に写る全てが、罠かも知れない。判断を誤れば、エルの餌食となる。
……眼を閉じろ!
自分は今、壮絶な攻撃を受けている。それを紙一重でしのいでいる。
『バカヤロウ!』
毒づいていた。しかし、コングも解っていた。視覚の罠を振りほどく選択肢は他に無い。
【ミズ】の力を借りれば、恐らく幻は消え失せる。しかし、その【ミズ】は瓦礫に埋もれていた。
さらに、それを探すための視界は、エルの支配下にある。
次第にうねりが勢いを増していた。その山と谷の落差は人の背丈に近い。
……信じろ! 恐怖はお前の敵じゃない。受け入れて、捨てろ!
『そんなややっこしい話を聴ける状況じゃねぇ!』
……恐怖から逃げ出すな! 信じろ!
波紋が引き潮の様に姿を変えた。
足元が遠くへ引き伸ばされる。伸びながらひねりを加え、渦を形作り始めた。
床や壁、天井がこらえきれず、その渦に呑み込まれている。
おぞましい光景であった。
突然、コングの背中に悪寒が疾った!
『……何!?』
何かが突き刺し、その一点から恐怖が拡がる。
それは瞬く間に皮膚を伝い、全身を埋め尽くした。
今までに経験したことの無い、黒々とした感情だ。
恐怖が実体化し、鋭利な刃物となって撃ち込まれていた。
その一瞬で、血が凍てついていた。
……そいつを受け入れろ! そして手放しせ!
エルが恐怖を操っていた。時空に漂う細かな恐怖をかき集め、実体化させていた。
『ふざけんな!』
コングは恐怖と闘っていた。気持ちを集中し、恐怖を否定していた。
そのコングの足元に、地を削る振動が近づいていた。
重いはずの石棺が渦の向こうから迫っていた。
猛烈な速度で距離を詰め、瓦礫を蹴散らして来た。
逃げる間も無く、角を握った側の肩に衝撃が疾る!
ウオォーッ!
受け止めた。しかし、それは止まらない!
重い石棺の勢いがコングを引きずる。受け止めたままの姿勢で床を滑る。
両足に渾身の力を込め、流れる床を踏みつける。
片脇にニコを抱え、もう一方の手に角を握っていた。
体制を立て直す間は無い。うねった分厚い壁が瞬く間に迫る。
そこに挟まれれば、無事では済まない。
……そいつを信じろ!
神虫が声を振り絞った!
『……!?』
角を握る拳が分厚い壁を叩いた。その瞬間、角の切っ先が石棺に向けられていた。
深紅の尖端が強い閃光を放った!
闇を居抜く陽の光その物であった!
眩い光に眼をきつく閉じる。しかし、瞼の向こうが明るい。
直後、重い衝撃が教会に響き渡り、ステンドグラスを震わせた!
一瞬の出来事だった。
ほんのわずかな時間を挟み、静寂が訪れていた。
ドサッと鈍く、石棺の一部が崩れ落ちた。
無音の中、ガラガラと小石が転げ、動きを止める。
石棺が原形を失い、一部を壁にめり込ませていた。
舞い上がる粉塵の中、崩落し、その動きを終えている。
辺りには、パラパラと砂を散らす小さな音が降り続けていた。
永い年月を挟み、石棺は自然界にあった元の石に還っていた。
その一角をエルが視ていた。
じっと身動きの無いまま、無機質な視線をそこに注いでいる。
その石の塊の中に、二人の男が立っていた。
巨大な男と、背は高いが細身の男の二人であった。
「エル! こいつはこの世のもんじゃねぇな?」
巨大な方の男が口を開いていた。生身の声でコングがエルに問いかけた。
エルに動きは無い。感情の見えない面持ちで、声に出さず応えた。
……お前には関係の無い事だ。それをそこに置いて行け。
その言葉を受け取りながら、コングは感じ取っていた。
【エルから殺気が感じられない】
無造作に崩れ落ちた小石を拾い上げ、手の上で遊ばせ始めている。
「おい、おい。諦めちまったのか? こいつの力を消しちまうことを」
その言葉にエルは応えず、爬虫類の眼がまばたく。
「こいつは【血】を浴びると、力を失っちまうんだろう?」
……争い事の【血】が必要なはずだ。
神虫がそれに続けていた。
「だが、自分でこいつに血を浴びせることは出来ねぇ…。何しろこいつの力がお前に触れることを許さない」
そのコングの言葉に神虫が付け加える。
……だから、人間を操って封印した。遥か昔、歴史の向こうのことだ。
……大男、それは正確では無い。それの力と、私の力が相入れ無いのだ。
「どういう意味だ!?」
意外なエルの言葉に、思わずコングは隣のニコと眼を合わせた。しかし、そのニコは不可思議な表情で応えるだけであった。
……お前には私が視えていないようだ。文蔵にでも聴くがいい。
再びエルが文蔵の名を口にした。
コングは目線をエルから反らさずニコに声を掛けた。
「そう言やぁ、さっきも奴は、文蔵さんやお前のことを知ってるって言ってたけど…、どうなんだ?」
「いえ、そんなことありませんけど」
ニコが答えると同時に、遠く離れた扉が開いた。
その気配にコングとニコが振り返った。
荒れ果てた瓦礫の向こうに、ずらりと並んだ木製の椅子が続いていた。
それを左右に二分する通路がある。
その通路の先に扉があった。
その扉から、二人の影が近づいていた。
文蔵とマイケル。
まるで気ままな散歩でもする様な、力の抜けた足取りで近づいていた。
「先生!?」
ニコが思わず口元で呟いていた。
太い身体を、古びたスーツで包むマイケルがいる。その隣には、小柄な文蔵が並んでいる。
最初に口を開いたのは、マイケルの方であった。体格に見合った大声で、ゆっくりと話し掛けて来た。
「ニコ、君は忘れているだけなんだよ。そう、隣のコング君と同じく」
「……エッ!?」
ニコには全く覚えが無かった。無論、コングにも心当たりは無い。
「エルよ、目障りな子供達が現れて、慌てたのう」
文蔵はそう言って足を停め、エルに対峙した。
会話の距離には微妙に遠く、大声で叫ぶには近すぎる間合いであった。
「封印を手放し、【聖獣の角】を抹消するつもりであったのか」
エルはそれには答えず、逆に問いかけた。
……文蔵、その男に何を授けた?
「ワシは何も授けてはおらん。この者が無意識に気付いただけじゃ」
……。
「ただ、知恵の蔵を見せた。その後、【月】を視たようじゃ」
そう言って、文蔵はコング達を振り返った。
「皆、かわいい子供達じゃ。ワシらには」
文蔵の隣でマイケルが頷いていた。
「知恵のかけらも無い者が、知恵の鍵を手にしておる。実に愉快じゃ」
『ジジイ! 何しに来やがった』
コングの隣で、ニコが小さく頷いていた。
「コング、手元を良く視るんじゃ。」
不意に文蔵が声のトーンを上げた。
コングがつられて視線を落とす。
自分の手の中に【角】があった。知らず知らず、力を込めて握りしめていた。
『…ん!?』
違和感があった。自分の握る物が、先ほどまでとは明らかに様子が違っていた。
何故か先端の赤みが綺麗に消え失せている。そればかりか、くすんだ白から無色透明に変わり、わずかの濁りも無い。
それはまるで、クリスタル製の工芸品の様に美しく、内側深くから輝いていた。
「コング、よく聴け! お前が今、手にしておるのは、ユニコーンの角じゃ」
『ユニコーン…?』
「お前が望んだ結果じゃ。それを手にすることをな…」
何も言わず、コングはそのユニコーンの角を凝視していた。
「この世は流れの内にある。すべては変化し、形を持たない。だが、お前の手にする物は違う」
ユニコーンの角を観ながら、コングは文蔵の言葉を待った。
「自分自身に聴くがいい。自分が何者で、何を求めているのかを…」
コングが顔を上げ、何か口にしようとした時、文蔵の姿は無かった。
さらにマイケルや隣のニコの姿も、いつの間にか消え失せていた。
目の前にはエルだけがいた。
そのエルと目線を重ねたが、表情から感じられるものは何も無かった。
恐怖は影を潜め、その存在すら疑わしいほどであった。
そのエルの姿が薄れてゆく。
ゆっくりと輪郭がぼやけ、色が褪せてゆく。
やがて背景が透け、くっきりと浮かび上がった時、エルの姿は完全に消え去っていた。
浮かび上がったのは、のどかな牧場の風景であった。
広大な敷地に緑が濃い。強い陽差しを受ける木々の葉は揺れていない。
家族連れでにぎわう、観光牧場であった。
ドンと背中を何かが打ち付けた。
咄嗟に振り返る。
そこに、一頭の馬がいた。背中を鼻先でつついていた。
若い馬であった。
全身が抜けるような真っ白で、陽の光を浴びて輝いていた。
読んでいただき、ありがとうございました。
今回の章はこれでいったん終えさせていただきます。
長い間、本当にありがとうございました。




