高原バスがゆく。
『無事だった。二人とも無事だった…』
コングは何度も同じ言葉を繰り返していた。
その場に立ち尽くし、大きくため息をついた。途端に大量の汗が吹き出していた。
チルチルとミチルの背中が見えている。楽しそうにヤギに話しかける声が、耳元に届いている。
幸せにあふれた小さな背中が並んでいた。
今そこに奇跡が起きていた。その常識では計れない力が二人の幼い命を救い上げた。
それは解る。だが、なぜ奇跡が起きたのか? どう奇跡が動いたのか?
コングには、まるで解らない。しかし、解らなくてもかまわない。そう思えた。
チルチルがペンダント越しにヤギを覗き込んでいる。
ミチルがヤギに何かを話し掛けている。
コングにはそれで充分であった。
気付くと二人に駆け寄っていた。
膝を折り、二人を背後から抱きしめていた。
「悪ガキども…」
その言葉は小さく、か細い声でしかなかった。
太い腕の中で潰れて仕舞いそうなほど、柔らかな二人であった。
右手にチルチル。左手にミチル。
軽々と抱き上げ、振り返った先に姫がいた。両手を力いっぱいに振って跳び跳ねていた。
『新世界…その言葉も夢じゃなかったのか…』
その奇妙なバスは山道をひた走っていた。
擦れ違う車もやがて途切れ、深い山に分け入って随分となる。
長い座席が左右の窓に沿って据えられている。
床はオイル仕上げの木製であった。
エアコンも無いのに、車内は蒸せるほどの暑さではない。
開かれた窓から夏山の風が吹き抜けている。樹々の香りをたっぷりと吸い込んだオゾンの風であった。
「だから、首を引っ込めろ」
「ハーイ」
コングは隣のチルチルに注意を繰り返した。しかし、少したつと窓から首を出して騒ぐ。
何度も訳の解らない言葉で、風に向かって話し掛けている。
ミチルは両手で水筒を持ち、脚をぶらぶらと跳ねさせていた。
コングと姫の間に子供達がすっぽりと収まっていた。
「次のトンネルよ」
姫がミチルの耳元に話し掛けた。するとミチルは首をすくめ、くりくりの眼をさらに見開いた。
しばらくして突然に辺りが暗くなり、ヒンヤリとした風が車内に流れ込んだ。
姫とミチルの会話に出たトンネルらしかった。
コングはそのトンネル出口を伺うように、バスのフロントガラスに視線を移していた。
特に何かの意識もなく、ただ前方を眺めた。
黒一色。出口が遠いのか、窓一面は真っ暗で何も見えない。
しかし、ただ暗いだけでは無かった。眼が慣れていないだけを理由にするには、その光景はあまりに暗過ぎた。
見えなければならない対象が、何一つそこに写し出されていない。
トンネルの出口どころか、壁も、道も黒一色に飲み込まれ、視界に届くものが何も無かった。
その真っ黒なフロントガラスに、ルームミラーだけがポツンと浮かんでいた。
よく見ると、そのミラーに運転席が写り込んでいる。
だが、いるべきはずのドライバーの姿が見当たらない。
『死角!?』
コングは上体をずらしてルームミラーが写し出す位置を変えてみた。
シートの全容がそこにあった。間違いなく、運転席には誰もいない。
『まさか!!』
コングは反射的に立ち上がると、運転席に詰め寄り覗き込んだ。
誰もいない運転席で、ハンドルが独りでに動いていた。
振り返って姫に眼で訴える。
「大丈夫よ、地球連合のバスだから」
姫はなだめるようにコングに答えてた。
バスに乗り込む時、ドライバーは運転席にいた。少なくとも、いたはずである。
しかしその時、声を掛けた訳ではない。そして、声を掛けられてもいない。
曖昧な記憶が勝手にドライバーをイメージさせていた。
「誰か座って無きゃいけないのよね、ホントは…」
姫が他人事のようにミチルに話し掛けていた。
「うん、ホントはねぇ」
ミチルがその口調を真似ていた。
『姫が見せたのか…』
「コング、座って無きゃそろそろ揺れるよ」
闇がスッと息が抜けたように遠ざかり、バスは光に包まれ始めていた。
光のモヤが密度を増し、そのバスを静かに絡めた。
ガツンと軽い衝撃に続けて、窓の外に景色が開けていた。
緑一面の高原の風景が窓の外を流れていた。
見渡す限りの山々は、手入れされた芝生のように滑らかな稜線を描いている。
点在する木立と突き出た岩のたもとには、高山植物が寄り添って縞を造っている。
それらは沢山の花を付け、色鮮やかに咲き誇っていた。
「ウワーッ!」
チルチルとミチルが歓声を上げた。
コングもつられてため息を付いていた。
思わず声にしてしまう。それほどに美しい山々であった。
小高い丘の頂きに一軒の建物が見えている。
丸太造りのその外観は、辺りの山々と調和し、自然の一部の様に収まっていた。
バスがそのログハウス脇に着くと、チルチルとミチルが勢い良く飛び出した。
それに続けて、コングと姫がバスを降りる。
空気が澄み渡っていた。小鳥のさえずりがどこからか聞こえている。
すぐに、子供達二人は花壇の花に手を伸ばして遊び始めていた。
「ご挨拶をしましょう」
姫が二人に声を掛けた。
「いま、したよ」
チルチルが花びらに触れながら答えていた。
「ちゃんと顔を見て…」
「ハーイ」
チルチルとミチルがそう答えた時、建物のドアが開かれた。
そこに、小柄な老人がポツンと立っていた。
「いらっしゃい」
文蔵が笑っていた。




