新世界の入り口
『…ダメだ!身体が動かねぇ…』
ロープはそれが持つ張力の限界まで張り詰めていた。そしてコングから腕の感覚を強引にむしり捕った。
…奴に意識を向けるな!…
さらに声が激を飛ばした。
軟らかなはずのロープは固まりとなり、なおもコングの身体を締め上げる。
骨が軋んで、悲鳴を上げた!
…奴を無視しろ!…
『バカヤロゥ!今、そんなこと出来るか!』
腕はロープでロックされている。しかし、自由なはずの両足すら動かせない。全身の機能がコントロール不能であった。
コングの視線の中心にエルがいた。その周囲がヌルリと歪み始めていた。
エルを縁取る空間そのものが、固定された形を失い出した。
そこに色彩は無い。
歪みながら色褪せ、セピアへと変貌する。そしてモノトーンとなり、無色のオーラが膨れ上がっていた。
コングはまともな呼吸が出来ない。それは細切れで激しさを増していた。
今は水面で喘ぐ獲物でしかない。
…いいか、よく聞け。奴は眼の前にいない…お前が、いると思っているだけだ…
『何ッ!?』
その時、風景の構図が狂い出した。
エルの脚元、ステージの床が波がを打った。次第に小さな波紋は、うねりに変貌を始めていた。
その歪みがコングに向けて伸びている。
…奴は幻だ!…意識を反らせっ!…
その声が頭の奥、遠い所から叫んでいた。
コングの脚元がグネグネと波を打ち、ステージのセットがねじれ出した。
空間そのものが脈動し、うねり始めていた。
そして巨大な力がじわじわと渦巻きに姿を変え、風景を巻き込み出した。
『どうしろって言うんだ!』
コングは心で叫んだ。
…恐怖を手放して眼を閉じるんだ!…
女王エルの手がスッと持ち上げられる。
そこに、鈍く光る剣が握られていた。
『あり得ねぇ!!』
…奴はいない!信じろ!…
張り詰めた声が頭の中に響いた。
エルがコングに向けてノソリと動き出した。
…奴はお前が造り出した幻だ、そいつはいない!…
冷たい感情の無い眼が瞬き、剣が振り上げられた!
…信じろ!お前は自由だ!…
『クッソーッ!』
コングは眼を閉じた。
時間が静止した。
そして、あらゆる音が一瞬に遠退いた。周囲から気配と言う対象がことごとく消え失せている。
コングは絶対の静寂に投げ出されていた。
自らの意志で選択した。
【信じる】ことを選んでいた。
だが、何を信じたのか!?
単に、眼の前の光景が幻であると信じたに過ぎない。
しかし、その信じる行為は、何か特別な意味を孕んでいた。
一瞬前まで、得体の知れない化け物がいた。
瓦解する空間で、そいつに命を奪われる寸前であった。
確かに非日常的な出来事である。だが、眼の前の出来事がどれほど突飛でも、自分の現実であった。
その現実を幻と信じる選択をした。
自身の眼、耳、触覚、そして思考を否定していた。
それは自分と時間の関わりであり、存在を確かめられる場所であった。
感覚が失われたはずの手に触れる何かがあった。
その何かがコングの手を握った。チルチルとミチルの二人であった。
…こっちだよ…
一瞬、自分を呼ぶ声がした、そう聞こえた。
手先に感覚が蘇っていた。柔らかな熱が手を伝って来る。
閉じた瞼の向こうに光が拡がっている。
締め上げるロープが、その動きを捨て、呼吸が帰って来ていた。
コングが眼を開いたそこに、姫が微笑んでいた。
地球連合で見た、笑顔で、口を開いた。
「ようこそ、新世界へ…」




