第二章/ただ福音を願う 5
死者の眠る厳かな場を落陽が紅蓮に染め上げる。墓石から長く伸びる影が、朱に彩られた芝生に十字架を描いていた。生のなく、されど幽玄なサントレラ墓地に、サングラスをかけた大男がひとり。ベルトの内にそのまま挿した脇差を握り、風景の一部となったかのように微塵も動かず、ただ御敵の到来を待つ。
ぬるりと、墓地の赤に対極する青いゆらぎが生まれた。中から這い出してきたのは、オーバンよりもいくらか若い金髪の神父だった。
「随分と時間をかけてしまった。丸半日潰してしまったよ。不愉快極まりない」
神父が唇を歪めた。気味の悪い、ひたひたと笑う視線を一閃させる。
「良い場所を選んだことだ。ここでは観念結界もさしたる意味がない」
「前置きは良い。名乗れ」
静かに言い放つオーバンが、舐めるようにゆっくりと脇差をベルトの内から外す。腰を落とし、
左足を前に踏み出し、左に握る脇差の柄を僅かに下げる。
神父が感嘆のため息を漏らす。
「それが日本武術居合い。この目で見るのは初めてだ」口元に拳を添えてくつくつと神父が笑う。「聞き及んでいるぞ。魔法使いでありながら武術を極め。近接戦闘に特化した珍しい錬金魔導師がいると。貴様があのオーバンか」
「名乗らぬならばもう良い」
生まれてこのかた、刀に触れなかったことのないオーバンの足裁きは、もはや人の領域を逸脱している。十の距離を一瞬にして踏破し、音もなく抜刀。展開されていた秘跡魔法が誇る防御結界《聖域》を逆袈裟に切り捨てる。手ごたえはあり。しかし、《聖域》の二割を削ったに過ぎない。折れずにたわんだ業物の刀を八双に構え直し、
「おお、かくも恐ろしいものとは」
目を剥いた神父の喉下にオーバンが渾身の突きを見舞う。水飛沫が上がるような青い火花が散る。集中し極点となった《聖域》の青が、その身を削られ空色まで薄まる。すぐさま次の一撃を与えるべく前進に流れた身体を制御、唐突にその場から飛び退く。神父が展開する《聖域》から円錐状の極太の針が伸びたのだ。
オーバンは無言のまま剣先を相手の喉下に捕らえた八双の構え。
円錐の正体は、《聖域》と同質の歪曲体系によって歪められた空間だ。風船を指で押すと内側が歪むように、世界の外縁にある秘跡世界を現実世界に寄せることで、一切の物理防御を貫く絶対の矛としているのだ。
「確実に取りに来たな。あの少年とは違うということだ。いかな下賎な輩の一味とあれど、確かにこれは名乗らぬ方が失礼にあたる」
神父、いや、異端審問機関が大司教が笑みを消して名乗る。
「大司教リカルドだ。此度は貴様らを狩りに来た。精々祈れよ下郎、神なき貴様らが向かう先は天国でも地獄でもない――」
「もう良いと言っただろう」
最後まで聞かずオーバンが袈裟に斬る。風を縫い闇を斬り捨てる斬撃が、三度《聖域》に阻まれる。魔法体系随一の防御力を誇る《聖域》はあまりに硬い。後頭部に違和感を感じ、横に逃れながらも返し刃を叩きつける。髪を二房青の円錐に持っていかれた。構え直す間もなく四方を取り囲むように青、青、青、青。それでも余裕の笑みでオーバンは篭った轟音と同時に高く飛び上がる。足元にはいつ産まれたとも知らない鉄板。彼は鉄板を防壁とし、足元で金属を超高温に熱し気化させることで爆風と共に跳んだのだ。
錬金魔法の妙技にリカルドが舌を巻く。
「《カドシュの法院》が第八階梯とはこれほどか!」
純粋な接近を不利と見たオーバンは、宙に浮いた姿勢のまま己の背後に二十を数える即席の刀を生み出す。これで防御を抜ければ僥倖。彼にとってはその程度の魔法が、普通では到達し得ない絶技の極地。
「かッ!」
気合を合図に刀の群れがリカルドに疾走する。遂にその余裕に焦りを混じらせたリカルドが、歪曲体系の円錐で刀を貫き落とす。今度はリカルドの四方に一辺が一メートルを超える巨大質量を持った鉄柱が地面から生えた。天高く伸びる天辺をオーバンの足が蹴る。隙間すら埋まり、ただ天のみ空いた鉄の監獄にオーバンが命ずる。
「去ね」
直後、鼓膜を貫く地鳴りの響き。監獄の開いた口から白い雨が吹き乱れる。オーバンは降りかかる雨ひとつひとつに錬金魔法を施し、固体金属に戻していく。彼の魔法に捕らわれずに落ちる雨が芝生に触れる寸前、赤く燃え上がった。
原理は先の跳躍と同じ、金属の昇華だ。ただ、そのあまりに膨大な量により、摂氏にして二千度超の焦熱地獄と化した檻の中では、いかな《聖域》と言えど耐えられるものではない。
秘跡魔導師の致命的な欠点は、機動力のなさと、防御に重きを置き過ぎた戦闘方法だった。リカルドは刀の雨ひとつひとつに対処する必要などなく、足を使って避ければよかったのだ。防御に絶対の自信を置いているから、秘跡魔導師は動こうとしない。その致命を見逃すほど、オーバンは愚鈍ではなかった。
しかし――
「逃れたか。なかなか逃げ足が速い」
恒常性によって跡形もなく消えた檻の中には、赤く陰らせた芝生が広がるだけ。
◇◆◇
心を映し出した宵闇の中に、虫の音のようにちらちらと瞬く星の輝きが空に散っている。星の海にたゆたうように浮かぶ巨大な月が、闇を緩やかにはがしながら地上へ光を落としている。
時計台の最上部に三十分前から呆然と立っていたラファランが、壁に身体を寄りかからせたまま眼下を見下ろす。《第七天国》の街並みは、夜になって賑やかさを増したように魔法の光があちこちで宝石のように瞬いている。
左腕に巻いた腕時計が刻む時刻は十九時を十分ほど過ぎていた。すっぽかされたのだろうか、とラファランは思った。思い当たる節があって頭を抱えてたくなる。
逢瀬の約束を反故にされた男というのは、こんな惨めな気分に苛まれるのか。いっそ帰って眠ってしまいたいのにまだ期待を捨てきれないから、来るはずもない彼女の姿を街中に探す。
一分、二分と着実と時間は押し流され、心にはじりじりと乾いた焦燥感が降り積もる。
きっと多くを望みすぎたのだろう。空けてしまえば無粋な感情を垂れ流してしまいそうな口をじっと閉じて、作り出した納得を無理やり飲み下す。彼女とは住む世界が違ったのだと笑ってみて、彼女が世界を憎悪する瞳を思い出し、心が割れるように痛くなる。
もう潮時だ。外から内へと視線を移して入界証を掴み、唖然。
円状の小部屋の中心に立つ、この世のものとは思えぬ輝きに息を呑む。女の美しさを際立たせる黒のドレスに着飾った女性が、背中で手を組んだままラファランを見つめていた。
彼は雷に痺れさせたように身体が動かず、ただ彼女を見つめ返すことしかできない。
女はじれったそうにヒールの高い靴で歩きだす。床を鳴らす靴底の音が近づき、女が手の触れられる距離で足を止める。影になっていた顔が姿を現す。
目も眩むような荘厳の黒髪が、夜風にさらわれ揺めいている。
「どうして」と闇に消える小さな声でラファラン。
システィーナが、上気した頬を隠すように目を逸らした。あまりに綺麗で愛らしい仕草で彼女が答える。
「約束、しましたよね。私を案内してくれると」
長い旅路を歩いてきたかのように、たった一日半のできごとが遥か昔のように思える。
「これは夢か?」
「ええ」システィーナが薄紅を引いた唇で笑む。「私にとってもあなたにとっても、ここは夢の中ですから」
第七天国、ここはすべての魔法使いが羨む理想郷。
システィーナが手袋に包まれた綺麗な指を差し出す。
「さあ、私を連れて行ってください。夢の中なら、あなたさえいれば、きっとどこにでも行けるのでしょう?」
意を決して彼女に手を伸ばす。柔らかな指に触れ、壊れやすいものを扱うようにやさしく握る。
「約束する。絶対に後悔はさせない」
彼女の手を引いて中央広場に転移すると、すぐに人だかりに巻き込まれた。広場を貫く大通りから音素魔導師たちの行進して来る姿が見えた。彼らが投げる五線譜の描かれた紙吹雪が空を舞い、音符が光を放ちながら旋律を作る。音素楽団による魔法音楽だ。
広場の端には露天が並び、御伽魔導師が描いた絵画が置かれていた。忙しなくキャンバスに絵筆を走らせ、客の要望に応えてゆく。
空いた空間には一際濃い群集があり、時折わっと歓声が沸く。
喧騒に包まれながら、洪水を作る人波を縫って彼女と歩く。手のひらが熱くて火傷しそうだと思う。それでも大切な人を離すまいとしっかりと握り、二人並んで噴水の前に立つ。青い光に照らされた水飛沫が高く舞い上がる。
「世界は醜いものだと思っていました」システィーナが飛沫を浴びながら言う。「私を置いてゆく世界が嫌いでした」
「俺は、自分が嫌いだったんだ」続くようにラファランも吐露する。「魔法のせいで家族を無くしたから、せめて魔法で誰かを幸せにしたかった。そうすれば、俺の生きてる意味もあると思ったんだ」
昔を思い出す言葉が切なくなって、心臓が音を立てながらキュッと軋む。
「あなたも苦しいのですね」
「誰だって苦しいさ。楽しいだけが人生じゃないから、あがいてもがいて、ひと掬いの幸せに涙が流れる」
「その幸せもない人は、どうすれば良いのですか?」とシスティーナの問い。
答えのない問題を解く気分になりながら、ラファランは答える。
「もしそれがシスティーナなら、俺が幸せにしたい」言ったそばから恥ずかしくなる。
彼女は笑わず、深い感情の込められた視線を向けた。
「そうであれば、そう在ればいいですね」
彼女の視線に居た堪れなくなって、ラファランは顔を背ける。葉の掠れるような声が届いた。
「そんな恥ずかしがらないで下さい。これでも私も緊張しているんですから」
システィーナを見る。彼女が伏し目がちに彼を見上げた。水飛沫に濡れた長いまつ毛が彼女の潤んだ瞳を隠す。
「男の方と、いえ、誰かとこうして過ごすのは初めてですから」
先刻見せた怒りのものとは違う女の貌に、ラファランは男の部分を触られる思いがした。
「同じだな。俺もこういうのは初めてなんだ。だから不安かもしれないけど、今日は付き合ってくれ」
すべてが未経験の彼にとって、いまこの瞬間は未知への旅路だ。どうすれば女性が喜んでくれるかちっとも検討がつかないから、取り繕うことも格好つけることもできずに素を見せるしかない。
システィーナがまぶたを閉じる。
「ええ、今日はお任せします」彼女が目を開いて喉をこくんと鳴らし、耳元で妖艶に囁く。「どうか私に、恋を教えて下さい」
どうして彼女はこんなにも男心をくすぐるのが上手いのだろう。
「行こう。祝祭はまだ始まったばかりなんだ」
彼女を連れ立って群衆の中を進んでいく。見知った御伽魔導師の露天商に見つかり冷やかされ、祝いだと言ってチョコ菓子を押し付けてきた。並ぶ彼女を見ると、群青の瞳を爛々と輝かせて手を伸ばし、ふと目が合って彼女は顔を赤くして手を戻す。「好きなのか」と問うと、「少しだけ」と前髪で目元を覆ったまま彼女が答え、物欲しそうに胸の前に手を添える。悪戯心が芽生えてチョコ菓子を掴むと彼女の口元まで持っていく。彼女は恋でもするようにチョコ菓子を見つめたあと、ためらいながら小さい口に含む。その様が面白くて口元を緩めると、彼女に気づかれそっぽを向かれる。不機嫌な子どもを見ているみたいでおかしくなって、彼は笑いを堪えながらチョコ菓子をもう一掴み。明後日に顔を背けた彼女の唇をチョコ菓子でちょんとつつく。小鳥のように彼女がチョコ菓子を啄ばみ、蕩けた微笑。
砂糖より甘美な彼女の表情をひとしきり眺め、「さあ次だ」と彼女の手を引き一際集まる人の群れへ。五線譜の紙が鼻先に触れ、天上の音色が二人を包む。意味もなく二人して笑う。どいたどいたと波を泳いで群衆の中心へ。説話体系が想像上の魔獣を呼び出し、動物に変化した一元体系の魔導師と芝居をしていた。子犬が三つ又の首を持つ狂犬相手に逃げ惑い、途中で方向転換、狂犬の足元をぐるぐると回り、追いきれなくなった狂犬の三つ首が絡んで地面に倒れる。滑稽なのかシュールなのか、それでも観衆は怒号の喝采を上げる。
気づけばあちこちで催しものが始まり、全魔法体系が終結しているのではないかと思うほど多彩な魔法が広場を巡り廻る。回れる限りの大道芸を見物し、足に疲労が滲んで広場から抜け出す。
「どうするのですか?」と荒い息の彼女に、彼は表情だけで答えて魔法転移。街の南、中央よりも広い無人の広場に辿り着く。とまどう彼女が絶句する。今日二度目となる彼も眼前の光景に我を忘れる。氷の雪原、いや、氷原と呼べばよいのか。概念体系の魔法によって作られた大小様々な透明な結晶が広場全体に浮かんでいた。結晶は風に流されゆるやかに動き、結晶同士でぶつかり鈴を鳴らしたような澄んだ音を立てる。月明かりが結晶を抜け、七色の光が地面に反射し、周囲を幻想的な風景に仕立て上げる。放心する彼女を横目に彼は腕時計に視線を落とす。そろそろ良い時間だった。幾ばくかの勇気を出して、形の良い彼女の耳に背後の空を見るよう促す。
夜など微塵も感じさせない光に溢れる空に、花火が尾を引きながら昇り花開く。次々と花火が天高く伸び、闇空を華やかに彩ってゆく。
「ああ」とシスティーナが感情の篭る吐息をもらす。「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」
ラファランは彼女の言葉に耳を傾け、その意味に身体を震わせる。
「あなたが私とともにおられますから」
聞きなれない神への祈りは、数少ない魔法使いが紡ぐ聖なる調べ。神を信じぬ魔法使いにも、秘蹟魔導師以外の信仰者はいる。それがどれほど異端であろうと、彼に責める言葉など浮かばない。いまだけは、彼も神の存在を信じていたのだ。
笑みを向けた彼女が、握られるばかりだった手に力を込めた。
「今日だけは神に感謝します。かのような素晴らしいひと時は、生まれて初めてです」
手にある彼女との距離がいまだ遠い事実にやるせなく、ラファランは彼女の額にそっと口付ける。その折、彼の半分の視界に映る異形の色。何者も犯せぬ銀が見え、しかし意味など分からず彼女を引き寄せる。彼を逃がさぬ因果の魔法が彼女の底知れぬ嘆きを見せる。不安などすべて消えてしまえば良いと、かき抱く腕に力を込めた。
彷徨う彼女の手が、花弁が春風に散るように彼の胸に触れ、一言。
――なぜ、と。
答える言葉は無限に湧き、しかし返す彼も一言、初めて灯った想いを告げる。
「愛してる」
彼女は無言のまま、身を任せた彼の中で細い息。
「きっと、私はあなたと結ばれることはないのでしょうね」
「システィーナ、俺は――」
彼女の指が彼の唇を抑え、違うのだと首を振る。
「それでも私は……」
群青の瞳が懊悩に揺れる。薄紅の唇がわなわなと震え、少し開き、また閉じる。それを何度も繰り返し、やがて、意を決したように唇を噛んで、顎を引く。
「あなたを愛してしまいました」
胸の前から見上げた彼女が、迷いを捨てるようにそっと瞳を閉じた。
「私は、理想が欲しかったのです」
薄紅に濡れた唇が動く。
「それがあなたというのなら、わたしは――」
先を聞くだけの我慢ができずに彼は彼女の口を閉ざした。永遠よりも長いひと時を口付けで過ごす。彼女の体温をいつまでも感じていたくて口付けを繰り返し、彼女が流す一筋の涙を指で掬ってまた塞ぐ。息も絶え、溺れそうになってどちらともなくようやく離れる。憔悴の色を見せた彼女が彼の胸に額を当てた。
「なんて、幸せでしょう」とシスティーナ。「気が触れたように心臓が高鳴って止まりません。ここで私が死んだらラファラン、あなたのせいですよ」
「それは困る。そんなことになれば、泣きすぎてきっと死ぬ」
「なら死ねませんね。あなたが死んだら、私も悲しい」
システィーナの手がラファランの背に触れる。
「時計台に、連れて行ってくれませんか。少し、話したいことがあります」