第二章/ただ福音を願う 4
世界など消えてなくなれば良い。何度そう思ったか分からない感情を、この《第七天国》に訪れてからは常に感じるようになった。世界など醜くて汚らわしいと、そう思わねば己を保つことなどできなかった。
精霊魔法によって変質した黒髪をたなびかせて、私服を身を包んだアリーシャがひとり、魔法に溢れた奇跡の街を歩く。明滅する七色の輝きに目を細めながら向かうは南方。黒の少女が管理区画と呼んだ結晶に囲まれるという場所。
少年と出会った時計台が指し示すフランス時刻は正午を越えて午後三時。約束まで四時間もあった。通り過ぎた中央広場から身体を押し出すような破裂音。《第七天国》にいる魔法使いが空を見上げる。アリーシャは形だけ振り向いて少しの間だけ立ち止まる。魔法使いが声高に上げる歓声を切り裂くように、彼女は瞑目して歩き出す。
これといった特徴のない顔をしたアジア人が、天を仰ぎながら「たまやー」と意味の分からない言葉を叫んだ。隣の黒人に「いまのはなんだ」と問われ、恥ずかしそうにアジア人が答え、今度は二人でたまやと叫ぶ。
涙が流れるような平和だと思いながら、アリーシャは先に進む。生まれた場所が違ったのならば、彼らのように誰かと触れあい、笑いあうことができたのだろうか。
「最近は、少し感傷的になりすぎましたね」
呟いて、泡のように浮かんだ想いを消す。
この世界は綺麗だ。誰もが笑い、誰もが喜び、誰もが運命にむせび泣くことはない。できればこの世界に住みたかったと、アリーシャは唇を噛み締める。それでも、生きるためにやることは変わらないから、彼女は無言のまま、足場を確かめるように石畳の地面を踏みしめる。
地面をねめつけていたアリーシャの視界に影が落ちた。顔を上げると、前から走ってくる十歳前後の少年。息を切らしながら走る彼の顔には、この世界には似つかわしくないほど歪んだ恐怖。アリーシャの姿を見止めた少年が、助けを請うように手を伸ばし――ヒッと押し殺した嗚咽を漏らして地面に倒れる。思わず差し出したアリーシャの手が空を掴む。落とした視線に広がったのは、目も当てられないような数の朱の線が引かれた小さな背中。決して少なくない命の灯火が、少年が走ってきた道に点々と落ちていた。
「あ、ああ……なんてことを」
立ちすくむ足を動かし少年へと駆ける。周囲は変わらず雑踏に満ち、誰も少年の姿を気にする素振りも見せない。彼が居る場所だけ、まるで存在しない透明の空間にでもなったかのように。
アリーシャはそれがなんであるか知っていた。懐かしさすら覚える、残酷でありふれた光景だ。
「ぼうや、ああ――なぜ、どうして!」
意識のない少年を抱き上げアリーシャは嘆く。どうして彼らは傷ついた子に無関心でいられるのだろう。一体だれがこんな非道なことができるのだろう。
見上げた先には、舌打ちする二人組。仕立ての良い服を着た、一目で高位魔導師だと分かる男たちだった。
「美しいお嬢さん。その子をこちらに渡してくれないかな? 知らないとは思うがこの子、俺の入界証をすってくれてね。それを返してもらいたいんだ」と金髪を後ろに撫で付けた青年。碧眼には、困ったなという足を躓いた程度の感情。
「盗みをしただけで、これですか?」
掠れたソプラノでアリーシャが問う。青年がやれやれと肩をすくめた。その仕草が、アリーシャには気に食わない。
「お嬢さん。偽善はいけない。階梯もろくに持たない少年がこの《第七天国》にいるという意味を理解しているかな? 恐らくは、ここに訪れた際にも似たようなことをしたのだろう。私の入界証を盗んだのは、困窮した生活の足しにするためか」青年がアリーシャに警告でもするように宣告する。「いずれにせよ、その子は重罪だ。生きて帰すわけにはいかない。ここに来れるほどの君ならば、私の言うことも分かるだろう?」
青年の手に風が集う。精霊魔法による風系分離魔法だと、同じ魔法体系であるアリーシャにはすぐに分かった。彼女は構うことなくにらみつける。
「おや、できれば美しい君とは戦いたくはないのだが。こう見えても私は《殿堂の法院》に所属する第六階梯の精霊魔導師でね。怪我で済ませるほど甘くはないつもりなのだが」
「言いたいことはそれだけですか」
我慢の限度は当に超えていた。アリーシャから空気を破裂させたような異音。その肢体を這うように蠢くは憤怒の紫電。
「で、電磁系、結合魔法? だ、第八階梯以上しか扱えない、高位魔法じゃないか!」青年の顔が氷の中に温度計をぶち込んだように青くなっていく。
その様をアリーシャは鼻で笑った。精霊魔法によって治癒を終えた、だらりと腕を投げ出す子どもを地面に寝かせて立ち上がる。青年たちが気圧されたように後ずさる。周囲の誰も彼らを見とがめない。この世界の魔法使いの誰もが無関心だからだ。
これが美しい世界だろうか。これが? この世界のどこが? どうして――
「どうして、これほどまで世界は醜いのですか!」
天へと高く捧げた腕が、いま、神の裁きを鉄槌のごとく振り下ろそうとして――
「待てシスティーナ!」
ラファランは叫び、あまりの強い雷に白く発光したシスティーナの腕を取る。彼女が持つ群青の瞳には、茫漠とした何かに向けられた強い憎悪。その見るものすべてを焼きつくす焔の感情に怖気つきそうになるも、ラファランは彼女の手だけは離さない。この世界では人は本当に死んでしまうのだ。
「それを消すんだ。いまならただの威嚇行為だけで済む。頼むからここは引いてくれ」
「どこに引くというのですか?」煉獄すら生ぬるい、本当の地獄を歩んできたものしか出せないどす黒い感情の篭った声でシスティーナが問う。「この手を振り下ろさずしてどうして人でいられるのですか。この者たちは害悪です。ここで裁きを下さねばいずれ多くの無垢な命が失われます。ならば、いずれ失われる多の命のために、私はこのふたりを殺します。大のために小を殺すのはこの世の摂理です」
いまや尻餅をついた渦中の青年たちが、鬼の形相のシスティーナに震え上がっている。
「違う、違うんだシスティーナ! そんなことで世界はやさしくならない」
自分で言っていて矛盾していると思った。だがこの説得に失敗した瞬間、ラファランは大事なものを失う気がしたのだ。
「人殺しを肯定するな。やり方は他にもたくさんあるはずだ」
「《カドシュの法院》のあなたが、それを言いますか?」
触れられたくない場所にシスティーナの言葉が無遠慮に突き刺さる。それでもラファランは我慢して辛抱強く続ける。
「俺は人殺しを肯定しちゃいない。どんなに憎くても、どれだけ殺してやりたくても、殺すことで本当の解決なんてしない」かつてのラファランが持っていた、いまでは信じているかも疑わしいきれい事を並び立てる。
システィーナが彼を見る。瞳にはいまだ衰えぬ憤怒の雷。
昨日見せた彼女の笑みの変わりように、磨り減ってなくなりかけた心が遂に悲鳴を上げた。
「頼むから、手を下ろしてくれ。俺は、好きな人と殺しあえるほど強くはないんだ」
彼女の腕の力が抜けた。群青の瞳に新たに宿ったのは戸惑いだった。
「私には、あなたの言っていることがよく分かりません」眩いばかりに放つ光を消し、腕を下ろしたシスティーナが視線を移ろわせながら言う。「理想ばかりを口にして現実を見ないのは愚か者のすることです。あまつさえ、好きなんて……」
彼の腕を振り払ったシスティーナが、俯いて一歩、二歩三歩と足踏みする。
「私に、そんな――」取り出した入界証を虚ろな目に掲げて一言。「《閉じよ》」
システィーナの姿が世界から消える。
システィーナが去ってから、ラファランは情けない姿をさらした二人組の名前と所属を聞き出し、少年を現実へと帰した。一度現実へと帰還して即座に電話をかけ、《メイザース》の魔法使いに二人組の情報を流して対応を任せて、再度《第七天国》へ戻る。
昨日から災難続きで身も心も、もうくたくただ。中央広場の噴水の脇に置かれたベンチに座り、長いため息を漏らす。
「最悪だな」
顔を両手で覆って呟く。生まれるのは単純な後悔だ。何を血迷ったというのか、修羅場の中であんな言葉を投げるなど正気の沙汰ではない。
「もう疲れた」
ここではひとりだったから、どんな泣き言も吐き出してしまいそうだった。強く目を瞑ってから開く。覆っていた手を下ろして膝を叩き、立ち上がった。残念なことに弱気になっている時間はなかった。少なくともあと三時間、《第七天国》へ侵入したとされる異端審問機関を探さなければならないのだ。
考えることが多すぎて痛い頭を抱えながら、ラファランは宛てもなく街の中を彷徨う。《第七天国》を東西南北に貫く河川に沿って歩いていると、一列に並んだ建物の屋根をふらふらと飛ぶ妖精を見つける。妖精も彼の姿に気づいたのか、小馬鹿にするような蛇行を描きながら近づいてきた。
「今日は色々な意味で大活躍のようね、ラファラン」幾重にも聞こえる不快な声でシャーロットが話しかける。「それと、なかなか役者だったじゃない。意外と才能があるのかしらね」
「何の話だよ」ラファランは語気を強める。
「昼前とさっきのことよ。あなた、《カドシュの法院》でもおいそれとは拝めない事案に昨日から遭遇しっぱなしね」
「褒めてるのか、それとも貶してるのか?」
「あら、後者に決まってるじゃない。まるで悪霊に取り憑かれているようね」
心底どうでもよくなって、ラファランは無視して先を歩き続ける。嫌がらせのように併走する妖精の光が視界にちらついて喉の奥が熱くなるような怒りを覚えた。
「なんなんだ。付いてくる暇があったら他の方を探せよ」
「そういうあなたも阿呆みたいに歩いてないで魔法転移で移動しながら探ったら?」妖精が冷笑する。「まあ、無駄骨になりそうだけれどね」
「どういうことだ」
「You can’t see the forest for the trees.」
流暢な英語でシャーロットが告げる。
「精々がんばりなさい。あなたがもがけばもがくほど、それはきっと蜜の味になるのだから」
不吉な言葉を残して妖精が飛び上がる。
心底頭にくる女だと思った。シャーロットはしばしば英語のことわざを置いていくことがある。ラファランが英語が苦手なことを知っているのだ。
嫌味な女だ、と口の中でぼやく。萎えかけた気力を奮い立ててラファランは魔法転移をする。