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第二章/ただ福音を願う 3

 冷たい白い部屋で左肩を軽く回す。脂汗が滲むほど激痛がした肩はもう既に正常に動いた。上半身裸のラファランは籠に入った服に手をかけて手早く着る。

 《連合》専属の医者の診断結果は脱臼だった。無愛想な魔法医師に魔法を使うことなく外れた関節を無理やり嵌め込まれたときは泣きそうになったが、大事がなくてよかったと思った。

 上着を着こんでから医務室の扉を開ける。薬品の鼻孔を突くような刺激臭が薄まり、若干綺麗な空気が入り込む。廊下に出ると、すぐ傍にある硬いソファーにサングラスを掛けた大男が座っていた。

「おぅ。大事ないか?」とオーバン。

「なんとかな。さすがに今回は死ぬかと思った」

「昨日から間の悪いときに敵が来る」目じりを下げたオーバンが笑む。「お払いをした方がいいかもしれんな」

「お払い?」

「気にするな。日本の風習だ」

 立ち上がったオーバンが廊下を歩き出す。軽く小走りにラファランは追いかける。

「多少は話を聞いているが、詳しく聞かせろ」

 ラファランは軽く頷く。

「異端審問機関が停留所付近で観念結界を展開。それに押された住人が停留所に押しかけて現場が混乱した。恐らく魔法転移で乗り込んだトラム上で更に観念結界を展開し、乗り込んだ人を追い出したトラムで停留所に突っ込んできた。おまけにすれ違う直前で一般人を魔法で押して俺に助けさせやがった。悪魔のような手腕だ」

「聞いた話では宗教者の姿など見なかったと聞いたが?」オーバンが疑問を投げる。

「自身にだけ展開した観念結界で魔法使い以外に見えないようにしていた」

「そうなると大司教か」オーバンがサングラスを指で押さえる。「面倒な相手だ」

 異端審問機関は、《連合》と同じく魔法の技量によって位階を定めている。大司教は実力的には上から数えて二番目、《連合》で言えば第七から第八階梯級の高位魔導師だ。

 廊下を曲がってロビーを通る。

「ただでさえ最悪な異端審問機関にしても今回はやり口が最低だ。どこか怨念めいてる。大方この前の復讐だな」

 肩をさすりながら言った自分の言葉に、ラファランは寒気がした。前線に身置いて五年。誰かに恨まれるなど慣れていたはずだったが、現実に憎悪を向けられれば良い気などしない。たとえそれが忌むべき敵であってもだ。

 昨日は回らなかった頭がいまになって回転する。

「うかつだったな。あいつはたぶんあの場にいた」苦々しくラファランが吐き捨てる。「秘跡魔導師は、司教までは基本的に同時に複数系統の魔法は使えない。観念結界を展開していた四人目がいた。それがあいつだ」

 秘跡魔導師は、信仰心によって魔法世界と現実を繋いでいる。ひとりにつきひとつの信仰心しか持てない以上、同時に一系統の魔法しか使うことができないのだ。数少ない秘跡魔法の弱点だったが、完全に失念していた。

「ラファラン、しばらく家に泊まれ。相手が大司教ではひとりのときを狙われると厳しい。体制を立て直すぞ」

「相手は遠距離移動が得意で神出鬼没だ。もうローマに戻っているかもしれないぞ?」

「いや」とオーバンが強い口調で否定する。「お前が言っていた通り、やり方が臭い。それに《第七天国》のこともある。仇とやらを取ろうとするならば、いまこそ絶好の好機。それを逃すほど甘い相手に思えん」

 それに、とオーバンが抑えた低い声で続ける。表情には、ラファランですら怯える凄まじい怒気。己が感情すら覇気として放つオーバンが握る鞘が、かたかたと不気味な音を立てる。

「奴らは二度も弟子に手を出した。この手で殺してやらねば気が済まん」


 《連合》アルザス支部のビルを出て、オーバンと共にバイクに乗り込む。オム・ド・フェール停留所を通りがかると、集まったフランス警察の中に《メイザース》の見知った魔法使いの姿が何人かみつける。信号待ちでバイクが停止しているときを見計らってオーバンに聞く。

「事件の管轄は《連合》に移ったのか?」

「魔法使い事案だ。捜査権は《カドシュの法院》に譲渡された。責任者はセシリア支部長に委任されている」エンジンの駆動音に紛れてオーバンが答えた。

 現在フランスでは、魔法使いの関与が疑われる事件は一旦《連合》へ捜査権が移され、魔法使い事案であると確定した瞬間に捜査権が完全に譲渡される。この場合、フランス警察は当該事件の捜査権を一切失うことになり、代わりに《カドシュの法院》が事実上事件解決までの責任を負うことになる。

 今回の事件は死者がなかったとはいえ、ある意味トラムの乗っ取り事件だ。下手をすれば憲兵隊が出てくるのではないかと不安だったが、通常通り捜査権が《連合》へ譲渡されたようでひとまず安心する。魔法使い事件の中でも異端審問機関が関わる事案は、万が一にでも犯人が表沙汰になれば国際問題にもなりかねないデリケートなものなのだ。《連合》もさすがに国家憲兵隊までは関係を持てているとは言い難い。

 信号が青になりバイクが発進する。川を超えると緑豊かな風景が広がった。すぐに建物が見え、特徴的な木造りの家が姿を現す。更に先に進むと一般的な一軒家が立ち並ぶ住宅街に入った。古いパン屋を通り過ぎたところでオーバンの家が見えた。彼の家は、夫婦二人だけで住むには大きすぎる三階建てだ。仕事の性質柄、オーバンは家に帰れないことも多いから、夏狩はよく笑いながら寂しいんだと言っていた。

 バイクから降りる。オーバンは「バイクを置いてくるから先に入っていろ」と言って、バイクを押しながら倉庫に入っていった。

 元々来る予定だったのだが、随分と違う形で訪れることになってしまったと、ラファランは頬をかく。一部の日用品は二年前にオーバンの家に置いたままになっているから、本当に着の身着のままだった。とりあえずとばかりにインターホンを押すと、家の中からドタドタと床を走る地鳴りのような音が届いた。玄関扉が開くと同時に夏狩が飛び出し、あいさつの間もなく思い切り抱きしめられた。

「よかった無事だよね。どこも怪我ないよね。オーバンから話を聞いたとき、本当、本当に心臓が止まるかと思った!」

 唐突のことで驚くラファランだったが、触れる彼女の身体が途方もなく震えていていたから、そっとその背に手を這わす。泣きそうなほどに暖かい彼女の温もりが、忘れかけていた母の体温を思い出させた。

「すみません、心配かけました。でも、大丈夫だから。俺は生きてるよ」

「でも電車に轢かれたって」と夏狩。

「電車?」そっと視線を背後に投げると、ばつの悪そうなオーバンの顔があった。

「まあ、なんだ。事実だろう?」

 オーバンにしては珍しく歯切れの悪い言葉だ。たぶん、彼も医務室からの一報を聞いて柄にもなく慌てたのだろう。

「少し大げさだろ」ラファランは気抜けして笑った。

「なんでもいい。さっさと中に入るぞ」ずれたサングラスを直してオーバンが家の中に入っていく。

 名残惜しそうにラファランを離した夏狩が家に戻る間際に耳打ちした。

「オーバンも心配してたのよ。家を出てくときのあの顔を見せてあげたい」

 ラファランは笑って夏狩と二人で家に入る。再びここで暮らすなど思ってもみなかったから、ただ立ち寄るときと違って懐かしさを覚えた。リビングへと通され夏狩に促されソファーに座る。夏狩が持ってきた飲み物に口をつけ、背もたれに寄りかかる。連日の戦闘は少なからず全身に疲労感を積み重ねていた。家庭の雰囲気に呑まれてこのまま眠ってしまいそうだった。

「眠い? お布団用意するから少し眠ったら?」気遣うように夏狩が言った。

「いえ、まだやることがあるんで」

 答えたラファランを夏狩がじっと見つめる。

「まだ仕事?」

「そんなところです。近頃物騒なことばかりだから、動かざるを得ないんですよ。これでも一応戦闘員ですからね」

「無理しないでね」花弁が散る悲しげな様を見るように夏狩が告げると、ふいに顔をぱっと明るくした。「そういえば、今日の夜はデートだったよね。いまから結果が楽しみだな」

「なんだ、惚れた女でもできたか」

 声のした方を見ると、オーバンが短い棒のようなものを持ってリビングに入ってくるところだった。

「そうそう。ラファランにもついに春が来たみたい」夏狩が恍惚の表情で宙を見つめる。「どんな子なんだろうね、早く見てみたい」

「誰でも構わんが、惚れた女くらいは自分で守れ」

 オーバンが棒を投げる。腕の中に落ちたそれを見ると先日話に出てきた小太刀だった。あまりに早すぎる登場にラファランに疑問が浮かぶ。

「もうできたのか? 昔、一本作るのに一ヶ月は掛かるって言ってなかったか?」

 魔法で現実世界に定義された魔法産物を作るには、手間と時間が驚くほどかかる。オーバンが扱う錬金体系は金属を生み出すことを得意としているが、一キロの鉄を作るだけで一週間はかかるというほど馬鹿らしい時間が必要なのだ。それ以上の短期間で精製しようとすると恒常性によって消されてしまうから、《連合》も単価の高い希少金属を精製して市場に流すことで資金を得ているのだ。

「以前から作っていただけだ。ナイフよりは役立つだろう。気が向いたら使え」

「助かるよ。次に戦うときは使わせてもらう」

「それと、上に来い」オーバンが親指を立てる。「今後の話をするぞ」

 分かった、とラファランが言う前に夏狩が口を挟む。

「家の中で物騒な話はして欲しくないって、この前言ったばかりだと思うんだけど」

 オーバンは無言。だが、その額には薄っすらと汗が滴っていた。夏狩が平坦な口調で続ける。

「それにオーバンはいつでもラファランと話せるじゃない。少しくらい私と話せてもらってもいいとは思わない?」

 雲行きが怪しくなってきたオーバンが喉の奥で唸る。

「好きに使え。そいつの気力が残ってたら上によこしてくれればいい」

 仕方ないとばかりに告げてリビングから出て行くオーバンの背に、ラファランの反論がむなしく響く。

「おい、俺はいつからおもちゃになったんだ?」

「まあいいじゃない。こうするのも久しぶりなんだし」

 言っている間に夏狩に頭を抱きしめられる。昨日までの大人の態度が夢だったのかと思うような無邪気さだ。髪の毛をわしゃわしゃと洗うみたいにかき乱される。顔を胸の中にしまわれて息がつまりそうだった。シャーロットに見られたら鼻で笑われること間違いなしの、自殺ものの恥ずかしさだ。

「ちょ、夏狩さん。少しおちつこう。俺ももう十七だから、これはさすがに恥ずかしい」

 息も絶え絶えにラファランが言う。やわらかなセーター越しに肢体を押し付けられて、変な気でも起こしてしまいそうだ。二人の歳は七と離れていないから、街中で並んで歩くと少し歳の離れた姉弟や恋人同士に見られることも少なくない。

「たまのスキンシップよ。これだけはお母さんの特権ね」

 楽しそうに笑って、夏狩がラファランを抱く手に力を込める。

「うっ、か、夏狩さん、く、苦しい」

 ラファランが色々な感情で悶えていると、夏狩が手を止めた。後頭部に置かれた手がぎゅっと押し付けられる。

「いいじゃない。こうでもしないと離れていきそうで怖いんだから」

 ラファランの喉がひきつけでも起こしたように震える。抵抗していた手がだらりとソファーに落ちた。心の臓腑を抉られる痛い納得があった。

 夏狩が二年もの間抱え続けた思いを吐露する。

「人はいつか死ぬ。どうしようもなく死んでしまう。それが今じゃないなんて誰にも言いきれない。愛する人が死なないなんて都合の良いことはないの。誰よりも死に近い二人が気づいたら本当にいなくなってしまうなんて、これ以上喪うのは私には堪えられない」

 聞くだけで凍り付いた部分が溶け出してしまうほどの熱い愛を感じ、これほどまで愛してくれる人を苦しめていた事実に心の底で胸をかきむしる。

 彼女は、二人がどれほど血の雨を降らせてきたか知らない。どれだけの魔法使いを殺し、恨まれ、命など飴玉ひとつの価値すらないに等しい戦場を駆けてきたか知らない。だからこそ、想像上の過酷さに身を痺れさせ、心が磨耗するほど苦悩する。

 死ねないな、とラファランは思った。この人を残して死ぬことだけはしてはならないと硬く誓う。

 嗚呼、こんな母だったならば、自分は捨てられずに済んだのだろうか。

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