第二章/ただ福音を願う 2
初めてのストラスブールは悪くない。借り受けた一室の窓から望める景色を遠巻きに眺めながら、アリーシャは思った。
彼女がいる部屋は、人の行き交いが多い街路に面した建物の三階にある。異端審問機関は、敵対する《連合》の動向を探るために、フランス市街のあちこちに隠れ家を取っている。この部屋もその内のひとつだ。
部屋の中にはもう一人、彼女と同じ尼僧姿の青年が立っていた。その表情には彼女と同じ場所にいることが我慢できないとありありと描かれている。
「貴様の移動に私が使われるなど、枢機卿長猊下の命でなければあり得ぬことだ」青年が吐き捨てるように言う。「下賎な輩が多く住まうこの街にも辟易とする」
部屋の中に鬱屈した雰囲気が溜まりはじめる。異端審問機関でのアリーシャの立ち位置は厳しい。彼女は秘跡魔導師が軽蔑する他の魔法使いであり、出生も特殊なものであるから罵詈雑言を受けるのが当たり前なのだ。
それでもアリーシャは最低限の礼節は必要であるとして、苛立ちを隠そうともしない青年に頭を下げる。
「ここまでお連れ頂き感謝します。精霊魔法には移動手段がないものですから、非常に助かりました」
「貴様の感謝などいらん。仕事を全うしてさっさとこの世から消え失せろ」青年はアリーシャに目も向けない。
虚空を掴むように青年が宙に手を伸ばす。彼の前方の空間が歪み、濃い青が渦巻き出した。秘跡魔法は、“神がこの世を作った”という視点で世界を知覚する。彼らにとって神はこの世ではなく神域と呼ばれる空間に存在する。彼らは、この神域と現実世界を繋ぐことで、世界のどこであろうと瞬時に移動することができるのだ。
青年が神域に踏み出した足を止めて振り返る。
「精々、馬車馬のように働くのだな。それでなくば、貴様が産まれた意味など存在しない」青年の碧眼に、害虫を見た際に抱く嫌悪にも似た色が滲む。「その銀を見ると吐き気がする」
アリーシャは何も言わず、ただじっと奥歯を噛む。何も言い返さないことが全身を引き絞る苦痛の時間を早く終わらせる方法だと知っているからだ。
「反論せんか」青年が薄く笑った。「人形は人形らしくそうしていれば良い。それならば不愉快の一言で済む」
並べられる暴言が尽きたか、青年が止めた足を踏み出して神域へと消える寸前、「フォーゼを殺した輩、ここで始末しておくのも神のご意思か」と呟いた。
部屋に圧し掛かっていた重圧がとかれる。
とん、と黄ばんだ白地の壁にアリーシャは額を押し付けた。握った拳を振り上げるが、向かうべき場所を知らない幼子のように、その動きが右往左往と戸惑う。諦めて拳を解き、せめて昂ぶった心を落ち着かせようと窓の外を見る。
驚きのあまり硬く閉じていた唇が開いた。アリーシャの視線の先、ストラスブールの旧市街へと続く街路の端に、つい先日出会った少年の姿があったのだ。見間違いかと思い目を擦り、もう一度見て夢ではないと気づく。唐突な理解が彼女の胸の中にすとんと落ちる。
「ああ、確かにストラスブールから来たと言っていましたね」
汚れているのも構わず、窓枠に両腕を置いてもたれるように顎を乗せる。敵地の真ん中でするにはあまりに迂闊な行為ではあったが、どうでもよかった。いまは身元がばれるような服装でもない。銀髪は確かに目立つが、それがそのまま異端審問機関に繋がるものでもなかった。
彼の姿をぼぅっと見る。彼の隣には、驚くべきことに黒いドレス姿の少女があった。何かのパーティでもあるのだろうか。自分には縁遠い世界だとアリーシャは嘆息する。
じっと耳を済ませていると、雑踏の中から二人の声がかすかに届いた。
「シャーロット、ひとつだけ聞きたいことがある。《第七天国》に面白いところってあるか?」とラファラン。
「なに? 腐った林檎みたいな顔して。もしかして、デートスポットでも聞き出そうとしているの? やあね、盛んなお猿さんは」
随分と口の悪い少女だ。どこの世界でもこういう人はいるのだなと、アリーシャは感慨もなく思った。
「いいから教えてくれ」せかすようにラファランが言った。シャーロットという少女の言葉はあまり気にしていないようだった。それとも、その面白いところとやらを聞き出すことがそれほど重要なのだろうか。ここまで考え、アリーシャはようやく気づく。
「私のため……かわいいですね」
彼女にとっては此度の情報源に過ぎない少年だったが、その心意気は心に迫るものがあった。単純に、うれしかった。
「仕方ないわね」と面倒そうにシャーロットが話し始める。「確か今日の夜、中央広場で何か催しものがあるみたいよ。場所が分からないなら調べときなさい。あと、南方に結晶に囲まれた場所があるのよ。まあ、悪くはない場所ね」
「ああ。助かる」ラファランの声が僅かばかり弾んで聞こえる。
きっと今日の夜にでも連れて行ってくれるのだろう。少しからかってみようかと、アリーシャは悪戯を考え付いた子どものように笑う。
「因みにそこ、知られてないけど管理区画への入口だから、下手に入って《第七法院》に今回のことで文句を言いになんて行かないことね。あとが面倒だから」とシャーロット。
笑みが消えた。アリーシャは自然と目を細める。管理区画という響きに、今度は違う笑みを浮かべた。
冷笑だ。
◇◆◇
シャーロットと別れた後、ラファランは旧市街に入り甘い匂いが漂う目的の店を見つけた。ガラス張りの陳列棚には、大量の焼き菓子が並べられている。中でもうねりが特徴的なクグロフが目を引いた。アルザス地方ではありふれた焼き菓子だ。本当ならゲルトヴィラーのパンデピスを購入したいところだったが、店の場所がやや離れすぎていた。
彼はクグロフをひとつ購入して、オーバン宅へと向かう。昨晩の礼もかねて夏狩に会いにいくことにしたのだ。
旧市街の道をラファランはのんびりと歩く。オーバン宅はストラスブール駅を挟んで反対側の住宅街にある。歩くには幾分遠いから、昨日と同じように原付バイクを使えばよかったと少し後悔した。
久しぶりにトラム(路面電車)にでも乗ろうと駅を探す。路面網を頼りない記憶から引き出して、確かA系統のオートピエール・マイヨン方面だったかと思い出す。一番近い停留所はオム・ド・フェールだ。少し歩くと目的の停留所はすぐに見つかった。この停留所はリング状の屋根が特徴的で見つけやすいのだ。周囲はデパートが並んでいるから常に人で賑わっている。
券売機で切符を購入していると、背後から悲鳴が聞こえた。振り返ると、思わず切符を取り落としそうになった。
波だ。人の波ができていた。大勢の人がなだれ込むように広場に走ってくる。彼らの表情はどれもこれも人形にでもなったかのような無。停留所でトラムを待っていた人々が、訳の分からない現象に対し、取り憑かれたように次々と金切り声を上げる。恐怖の病が伝染し、より大きな混乱を呼ぶ。大挙する無表情の人の波が人々をさらう。子どもの泣き声が聞こえる。パステル調の可愛らしい服を着た子どもが、逃げ惑う大人に蹴られて転んだのだ。助ける余裕のある者などいない。人波をかき分けてラファランが向かう。途中でクグロフの入った紙袋がなくなる。無視だ。何とか子どもの下に到達して助け上げる。今度は別の場所から「トラムが来るぞ」という男の大声。悪夢でも見ているのかと、ラファランは思った。いつもなら軽快な足取りで路面から逃れるストラスブールの住人も、いまや混乱と人だかりでそんな余裕などない。脳裏に浮かぶは惨劇の二文字。トラムが線路を擦る金属音が無慈悲に響く。無表情だった人々に感情が戻る。周囲を見渡し、眼前に迫るトラムを見つけ、そして再びの混乱。
ラファランは咄嗟に魔法を使うも、人が多すぎて発動すらしない。どうすることもできず、子どもを抱え上げて路面から何とか離れようともがく。こんなときにどうにかするのが魔法じゃないのかと悪態をつきながら、空いた手で懐を探る。握ったのは拳銃。焦る指を叱咤しながら安全装置を外し、遊底を噛んで引き、銃口を天へ向ける。そのまま弾層が空になるまで引き金を絞る。騒ぎの中でもしっかりと響いた発砲音が、おたついた人々の意識をほんの一瞬だけ集中させることに成功した。ラファランが短く息を吸う。
「路面から逃げろ! 逃れた奴は邪魔にならないようにどっか行け!」
絶叫するように言うと、人々がようやく路面から逃れはじめる。混乱さえある程度制御できれば、速度を落としたトラムを避けることなど容易い。ラファランも路面から離れて子どもを地面に立たせる。背中を軽く叩いて促してやる。子どもが「ありがとうおにいちゃん」と泣きながら感謝する姿を少しだけ見て――
いや、待てよ。混乱を見つけ未だ止まらないトラムを見てラファランに疑問が生まれる。騒ぎの様子は遠くからでもすぐに分かる。車掌がちゃんとした頭の持ち主であれば、すぐさま急ブレーキを掛けるはずだ。なのに、なぜまだ止まっていない?
血の気が下がる。前面ガラス張りのトラムの中に、人がひとりも乗っていないのだ。たぶん、運転手である車掌すら。いや、ひとりだけいた。神を敬い人に手を差し伸べるはずの、尼僧姿の神父が、その顔に悪魔のような微笑を貼り付けて。
「ふ、ざ、けるな!」
ラファランが咆哮する。
憎悪に身をよじりながら因果魔法による《時間制御》により時間軸の流れを二倍、いや、四倍に設定する。しかし魔法が使えない。魔法の見えない一般人が観測している状態下で魔法使いが魔法による恩恵を得ようとすると、魔法が発動しなくなることが多々ある。これは、魔法の使用前後で観測結果がズレるため、世界の許容量を一気に超えて即座に恒常性が発動し、魔法を消すからだ。殆どが魔法使い自身に適用する魔法である因果体系にとって、いまこの場所は魔法の使えない最悪の場所だ。
いまやすぐ目の前まで迫った、憎憎しい神父の姿を見る。
神父は演劇でも鑑賞しているように、口元を上げながら手を叩いていた。そのままの格好で空いていた扉に手をかけ、走るトラムから優雅な動作で飛び降りる。危なげもなく着地した神父の姿に誰も気づかない。彼は極小の観念結界を自らに貼ることで、人の目から姿を隠しているのだ。並の秘跡魔導師では使えない、観念結界の高等技法だ。
ふいに、路面のすぐ近くにいた女性の背後に淡い光。光が急速に円柱状に伸びて女性の背中を路面側に押した。倒れ込む女性に襲い掛かるように走るは最早止まることのないトラム。神父がラファランを見る。神父の碧眼には「どうする?」と試すような鈍い輝き。
目の前に居た男性を押し退けて路面に入る。女性まで二メートル。この僅かな距離が途方もなく遠いものに感じられる。懸命に手を伸ばして女性の腰を取る。目と鼻の先には暴走するトラム。奥歯を噛む。膝をついた女性を起き上がらせると同時に突き飛ばす。勢いを利用して反対側へとラファランが跳んだ。直後、左肩に衝撃。すれ違うトラムに左肩が掠ったのだ。地面に転がり苦痛に呻く。
再三の悲鳴。そして怒号と歓声。悪夢の過ぎ去ったことに安堵した人々が、ラファランの下に駆け寄ってくる。ラファランは地面に寝たまま路面の先を見る。トラムはすでに止まっていた。あの悪魔の神父が止めたのだろう。肩を抑えたまま立ち上がる。激痛が走るがいまは無視する。辺りに目を走らせるが、神父の姿はない。
◇◆◇
シャーロット・マクローリンは、《カドシュの法院》に転院する前は、《連合》内部を監視する《内部監査室》に所属していた高位魔導師である。《内部監査室》の仕事は、内部の魔法使いが《連合》の不利益を齎す前に発見、抹殺することだ。方法は数あれど、シャーロットは元型魔法による諜報活動に特化しており、広範囲に渡り安全かつ隠密に情報を収集することが得意である。そして、必要とあらば“女であることを武器”として情報を集めることも厭わない。
艶のある栗毛を払い、琥珀の目を眼前の魔導師に注ぐ。
「正直言うと不愉快なのよ。いまはそれなりに大きな話が動いている最中なのだから、邪魔されると適わないわ。それと、“取引先は不明でも利益があるからいまは黙認してあげている”けれど、あなた方の研究も《連合》にとって最終的に不利益を齎しかねないわ」
シャーロットの言葉は、どんなときでも容赦がない。それがたとえ、十を超える魔法使いに囲まれていたとしてもだ。
彼女を逃がさんと追いつめた魔法使いたちの内のひとり、この場の副責任者が彼女に近づく。彼らは《連合》の《殿堂の法院》に所属する魔法使いだ。ここは、彼らが魔法研究を行うアルザス地方にある拠点のひとつ、中規模な実験施設だった。精密な魔法研究の拠点は、人目に触れることによって無為に恒常性が発動し魔法が変質させられぬよう、人気のない郊外に置かれることが多い。ここも例に洩れず、ストラスブールの北東に位置する林の中にひっそりと建っていた。
「我々の研究は、魔法使いの到達点に踏み入れ得る偉大なものだ。君ら《内部監査室》には到底理解できんほどにな。そもそも、なぜ小娘めが我らの研究内容を知ったというのだ」
格子状の窓から木漏れ日が差し込む。自然の息吹が充満する部屋の中は、いつ火蓋が切り落とされぬも知れない戦の緊張感が侵食を始めていた。
「偉大……ねえ。私が“彼に聞いた”ときは、それほど偉大なものとは思えなかったのだけれど? ねえ、あんなに情熱的に語ってくれたものね、カミール」
カミールと呼ばれた青年が身体を震わせていた。彼は随分前から彼女と関係を持っていた。彼は彼女の蜜の罠にかかり、つい先日、虚栄心を満たすために、音素体系が秘密裏に行っている研究内容を話してしまったのだ。
部屋の中に風が吹き抜ける。シャーロットが妖艶に微笑んだ。
「カミール、できればあなたとはもっと“良い関係を築きたかった”のだけれど、残念ね。あなたの鳴く声がここで聞ければ良いのだけれど」
青年が悲鳴を上げてしゃがみこんだ。シャーロットは面白いものでも見たように表情を蕩けさせて腕を抱きしめる。
「小娘め、カミールをたらし込んだか。だがこの人数を相手にどうするつもりだ。いかに《内部監査室》といえど、この場を切り抜けることなどできまいて」
「だから頭の硬い古い方々は嫌いなのよ。現状を正しく認識することができず、自分の古臭い常識が正しいのだと言いはばかって譲らない。さて、ひとつ質問しましょうか」
シャーロットの指が音楽でも刻むように肘を叩く。
「この場で追い詰められているのは、いったいどちらかしら?」
彼女が言葉を発したとき、部屋の中でまともに立っている者は彼女を除きひとりとして存在しなかった。誰もが陸に上げられた魚のように口をぱくぱくと動かし、唇から涎を零している。彼らの瞳には得体の知れない恐怖に揺れていた。
「いまの私は《内部監査室》であると同時に《カドシュの法院》にも所属しているのよ。前者はともかく、後者の方は最近の話だからそれほど話が伝わっていないようだけれどね」
彼女の背後に、一匹の妖精が飛んでいた。翡翠の燐光を纏うそれは、“圧縮した大気に精神を吹き込むことで作られた擬似生命体”だ。材料は大気そのものだから、密室状態の部屋の中で使えば、妖精が酸素もことごとく吸い尽くしてしまう。
翡翠の結界に守られたシャーロットを除き、突如生み出された無酸素の海に彼らは溺れ、頭を明滅させる極限の苦しみに喉をかきむしる。
「元型魔法は戦闘が不得手だから侮っていたようだけれど、残念だったわね。私は元からあなたたちと争うつもりはなかったの。ただ、一方的に殺そうとしていただけ。これって明確な違いよね?」
返事をする者はいなかった。魔法使いでも生きるためには食べ物が必要であり、当然酸素も必要だ。それを奪われれば生命の理に従い窒息死させられる。十を超える彼ら音素魔導師は、たったひとりの元型魔導師に一方的に殺されたのだ。
死臭が立ち上り始める部屋の中に落ちる木漏れ日を浴びながら、シャーロットがひとり笑った。
それは、人の不幸を蜜とする凄絶な笑みだった。
「ラファラン、あなたが甘いから私がすべて殺してしまったわ。だから、今度はあなたの苦痛に歪む顔を見せてちょうだい。それが私の働きに対する、あなたが支払い得る唯一の対価よ」