第二章/ただ福音を願う 1
「朝からあなたの顔を見るのはいい目覚めになるわね」
たっぷりと水分を含んだ艶かしい唇が、蠱惑的に動いた。黒いレースの手袋に包まれた女の手が、栗色の髪をかき上げる。琥珀の瞳が嘲るようにラファランを見下ろした。
「怒りと憤りと呆れで眠気が吹き飛ぶもの」
旧市街に近い朝の街路は人が多く賑やかだ。海外から来る観光客の姿もいくらか見受けられる。柔らかな日差しと、時折ひんやりと冷たい淡い風を受けながら、オープンカフェで飲む朝のコーヒーは格別だ。シャーロットさえいなければ、だ。
ラファランは、対面に座った、肩を露出させた黒のドレスを着た女に皮肉を返す。
「珍しく意見が一致したな。俺も、年中パーティドレスを着るような趣味の悪い女の顔を見るのは、冷水で顔を洗うより効果があると思う」
「不能なの? それとも男色趣味でもあるのかしら?」おぞましいものでも見る目つきでシャーロットが言った。
「あるわけないだろ。俺は正常だ。俺が言っているのは、催しものもないのに礼装してるその感覚についてだ」
「あら、黒は女を輝かせるのよ?」
「どうしてだろうな。シャーロットとはいつもまともな会話にならない」
呆れて早速言葉も出なくなったラファランはコーヒーをすする。仕事がないからと外に繰り出して朝の時間を過ごそうと思ったら、突然彼女が顔を出したのだ。いつもは元型魔法によって作った妖精越しに用件を済ませるめんどくさがり屋な癖に、会いたくないときに限って顔を見せるのだ。腹立たしいことこの上なかった。
「会話にならないのはあなたの頭がいつまでも子どものままだからよ。少しは大人になったらどうなの?」シャーロットが手の甲に顎を乗せながら口端を吊り上げる。
「いいから要件を話してくれ。こっちはだれかのせいで機嫌が悪いんだよ」
シャーロットが微笑する。
「そうね。手短にすませましょう。異端審問機関が《第七天国》に侵入したわ。あなたにはその捜索と確保をお願いしたい」
流し聞きしていたラファランの手が止まる。
「どうやって入った? 《第七天国》に入るには《第七法院》が発行している入界証が必要なはずだぞ」
「盗まれたのよ」シャーロットの視線が動き、街路へと向けられる。「どこぞの馬鹿がローマまで繰り出して異端審問機関の領域に足を踏み入れたばっかりにね」
「それはそれで問題だが、本質はそこじゃない。入界証を手に入れたとしても、そのままじゃ《第七天国》へは入れない。必ず二重の認証が働くはずだ。その一段階目で所有者以外の魔法使いが入ろうとしても固有波長の違いで弾く。波動魔法の認証がうまく働かなかったのか?」
入界証は《第七天国》へ入るための扉を開ける鍵であると同時に、夢の上に存在する《第七天国》と現実世界とを繋ぐ道でもある。逆に言えば、入界証さえあればあらゆる魔法使いが《第七天国》へと入ることができるから、その危機管理は重要なものになる。だから入界証には所有者が持つ固有波長の情報が入れられている。入界証の使用と同時に情報と使用者の固有波長を比べ、合致する場合のみ《第七天国》への扉と道が開かれるのだ。
「恐らくはその可能性が濃厚ね。少なくともあの認証は波動魔法の法則で成り立っている以上、秘跡魔法での突破はできない。波動魔導師でもなければ不正侵入の芽はないわ」
ラファランは顔を覆う。異端審問機関に《第七天国》へと侵入されるなど《連合》史上最大の失態だ。現在《第七天国》は魔法使いの楽園としての位置付けにあるが、あれは夢の世界ではなくひとつの魔法世界だ。精神で現実と繋がっている以上、《第七天国》で死ねば現実でも死ぬ。夢の中でも戦争は十分起こり得るのだ。
血生臭くなり始めた朝にラファランは吐き気がした。
「管理がずさんだ。大方、入界証の権限も止めずにそのまま侵入を許したんだろ。中央認証系は音素魔法の管轄だったか。相変わらず元《殿堂》の連中は危機管理意識が低い」
「運用手順ができあがっていない状態で運用しているのよ。嘆いても始まらない」シャーロットが珍しく彼と同じ嘆きの感情を共有しているように見せた。
「だけどわざわざ中で探す必要はないだろ。確か《第七天国》は、入る前に必ず中継点を通るはずだ。接続状態を調べれば地域も絞り込めるし、すぐに分かるだろ」
シャーロットが首を振る。
「無理ね。監視は現在行われていない。これも手法が確立していないのよ。接続人数すら、元型魔法や波動魔法による内部での索敵魔法頼りよ? 運用が先行して危機対処が行われていない」
《第七法院》の仕事の甘さに頭が痛くなった。《第七天国》の構築設計、運用を担う《第七法院》は、元々は《殿堂の法院》の一部署だったのだ。話が大きくなるにつれ掛けられる人員が増えたことで《殿堂の法院》から切り離されたが、仕事の仕方や考え方は変わっていない。
「権限の剥奪が行われていないのは、犯人を探し出して処断すべきっていう上の命令か?」
「あら、珍しく頭を使ったわね」シャーロットが目を丸くする。「正解よ」
また戦いになるのか、とラファランは酩酊するように歪んだ視界をまぶたで閉じる。彼は戦うことは好きではなかった。ただ、魔法で家族を不幸にした分、だれかを魔法で幸せにできるのであればと戦いに身を置くことにした彼にとって、魔法使い同士の抗争はただの馬鹿げた争いでしかない。
「当面は《第七天国》でそれらしき人物を探ってくれればいいわ。どうせいつもの修道服姿でうろつくでしょうしね」シャーロットが言った。
「一応聞いておくけど、俺ひとりでか? 今夜はその《第七天国》で予定があるんだが」
「いいえ。さすがに今回は話が大きい。《カドシュの法院》の他の隊から何人か出すわ。あと《メイザース》からも派遣する。現場指揮は他でするから、あなたは適当に探ってくれればいいわ」
ラファランは目を瞬かせる。《カドシュの法院》は第六階梯以上の高位魔導師で構成されるため、絶対数が圧倒的に少ない。だからこそ、仕事は基本的に最初に命じられた魔法使いたちだけで解決まで担当することが普通だ。他の者にまで話が周ることは非常に珍しい。
「できる限りのことはする。オーバンに話は?」
「ええ、あとで魔法を向かわせるつもりよ」
「ここまで来たなら顔を出せよ」
「いやよ」シャーロットの表情に不快感が生まれる。「魔法使いでもない人間が住んでる家になんて行きたくないわ」
彼女は筋金入りの人間嫌いだ。彼女の家系であるマクローリン家は、代々優秀な元型魔導師を輩出している一家である。《内部監査室》の現室長も彼女の祖父に当たる。歴史のある家系の魔法使いほど、世界を支配する一般人を敵視していることが多い。
現在の元型体系は最高位魔導師セシリアの方針で中立を保っているが、すべての元型魔導師が彼女を支持しているわけではない。どの魔法体系でもそうなのだが、《二十四法院》に会する各魔法体系の最高位魔導師は、現実国家が元首や大統領を選ぶように投票を行って決められているわけではない。魔導師位階制度の最高位に当たる第九階梯魔導師、この中にあって最上の魔法技能を持つ者が選ばれるから、その人柄や方針が魔法体系の総意とは言い難い。
「夏狩さんは良い人だ。あんまり悪く言わな――」
言いかけたままラファランは席を蹴るように立ち上がる。すぐさまシャーロットを抱きかかえるようにしてその場を飛び退いた。同時、二人が座っていた席に光が生まれ、爆轟と共に高温の炎を撒き散らした。机とテーブルが吹き飛び、竜巻のような風が白煙と共に荒れ狂う。彼女を腕の中に抱いたまま、爆風に煽られながら彼はオープンカフェの敷地を転がる。暫くはここには来れないなと、戦いの感覚に切り替えながらも惜しむように思う。
「最低の気分ね。あなたに抱かれるなんて」腕の中で心底嫌そうにシャーロットが言った。「それで、どこから?」
「道路を挟んで向かい側の歩道。数は二。《連合》の魔法使いだ」シャーロットを離してラファランは起き上がる。ローブを着てこなかったから、身体のあちこちが熱くて痛かった。
「お客さん、店内で暴れてもらっては困ります」
カフェの店員が店内から慌てたように二人に駆け寄ってきた。片目だけで見やると、爆発したばかりの席が何事もなかったようにそこにあった。気持ちの悪い光景だな、とラファランは思った。
魔法は世界に対して一切の影響を及ぼさない。だから、先ほどの魔法攻撃も客や店員に知覚されることもないし、少しの時間で何もなかったように元通りに戻る。魔法使いが世界から拒絶されていることを突きつけられる悪夢の光景だ。
「すみません。この人、少し癇癪持ちなもので」シャーロットが頬を引きつらせながら、内容こそ最悪だが店員の対応を買って出た。その隙にラファランはオープンカフェを出る。
魔法使いの姿は先ほどと変わらずにまだあった。背格好から、恐らく《メイザース》に所属している十代前半の魔法使いだと検討をつける。ラファランは、上着に隠れた位置にある、腰に挿したナイフの柄に手を伸ばす。街中では拳銃は使えない。
彼に気づいた二人組が、慌てたように魔法を組み立て始める。遅い。腰を溜めた姿勢で道路を駆け抜け、一瞬の内に二人の背後に回ると一人の腕を掴んでねじ伏せ、もう一人の背中にナイフを突きつけた。
小さく悲鳴を上げた少年に、「口を閉じろ」とラファランが脅す。
軽く周囲に目を向ける。人の往来はあるが、二人の身体が死角になっているから誰も異常を察知していない。二人に注意を戻す。
「一般人への魔法の行使および、街中での攻性魔法の不正使用。《連合員》への攻撃は目を瞑ってやるが現行犯だ。少し話を聞かせてもらおうか」ドスの聞いた口調でラファランが告げる。「逃げるなよ。犯罪を犯した魔法使いの末路はよく知っているだろ?」
かくかく、と二人が怯えた小動物のように首を縦に振る。
「質問にだけ答えろ。所属と魔法体系は?」
「め、メイザース。精霊体系です」とナイフを突きつけられた金髪の少年。
「こいつと、同じ。魔法は、波動体系」腕を取られた赤毛の少年。
「なぜ街中で魔法を使った。《メイザース》じゃ予め許可されている場合でないと魔法の使用は厳禁だと教えられているはずだが?」
「さ、最近、か、階梯があがった、から。使ってみたくて。そ、それに、魔法を使っても、べ、別に人を怪我させるわけじゃ、ないし」金髪の少年が泣き声で言い訳する。
「俺は死にかけたんだがな?」ラファランは強めに指摘する。
「ま、魔法使いの人がい、いるなんて、き、気づかなかったんだ」赤毛の少年が庇うように言った。
「どちらにせよ犯罪行為だ。将来有望な魔法使いを殺すのは偲びないが、これも魔法使いの治安維持のためだ。悔いて死ね」
腹の底から出した声と共に、ナイフを一閃。ひっ、と二人の少年が小さく叫んで崩れ落ちる。地べたにしゃがみ込んだ二人の下に、ひたひたと液体が広がり、むっとした匂いが立ち上る。
ラファランは隠すようにナイフを仕舞い、二人の隣に立つと同じようにしゃがむ。
「と、まあ度が過ぎるとこうなるから、今度からは注意しろ」
放心状態の少年たちが、呆けたままラファランを見る。自分たちが生きていることが不思議でしょうがないというより、現状がどうなっているかよく分かっていない様子だった。
ラファランはナイフの柄で二人の腰を強めに叩いただけだ。流石に天下の往来で人を殺めるほど、彼は度胸があるわけではない。
彼は未だ地面に染みを広げ続ける少年たちの肩を軽く叩く。涙と鼻水で顔面をぐしゃぐしゃにした二人が、身体をぴくんと動かした。やりすぎたのだろうか、とラファランは少し反省する。
「今日はもう行って良し。次やったら本当にただじゃ済まなくなるから気をつけろよ」
なるべくやさしく言ってやると、ようやく二人が顔を拭う。
「ほれ、もう帰りな。こんな格好見られるのはあまり良い気分じゃないだろ」
二人が身体を震わせたまま立ち上がると、ラファランに軽く会釈して逃げるように走り出した。途中、何度か振り返る二人の姿に彼はなんだか申し訳なくなる。
二人の姿が見えなくなってから、ラファランは膝を叩いて立ち上がる。いつの間にか、隣にシャーロットがいた。
「甘いのね。私なら本当に殺していたわ」
彼女は低階梯の魔導師に対する扱いが酷い。
「街中で殺すと警察への対応が手間だ。それに、ここで不問にしておかないと《カドシュの法院》の《メイザース》に対する心証が落ちる。組織の構造上それは良くないからな。あと、子どもに手を掛けるのはあまり好みじゃない」
「ふうん、そう」つまらなそうにシャーロットが相槌を打つ。
「ただ紐はつけておいた方が……」途中で切ってラファランは頭をかく。「いや、やっぱ良い。流石に穿ちすぎだ」
「あらそう。どうでも良いけどラファラン。あなた少し匂いが移ってるわよ。不愉快だから少し離れてくれる?」
シャーロットの指摘に従うように彼は律儀に離れる。
「お前は本当に人にやさしくするっていう発想がないんだな」