第一章/異端の魔法使い 4
《第七天国》から戻り約三十時間ぶりの短い睡眠を取ったあと、ラファランは夏狩に持ってもらった買出し物を受け取るために、オーバン宅の門を叩いた。
「おつかれさま。無事で本当によかった」彼の生きている姿に安堵したのか、夏狩が微笑みながら迎えてくれた。「折角来てくれたんだからご飯食べていって。今日は来てくれる予感がしたから、ラファランの好きなもの作っておいたの」
「ほんとですか? まだ夕食を食べてなかったんで助かります」
夏狩に誘われるままリビングへと入る。オーバンがソファに腰掛けて夜のニュースを見ていた。「おぅ」オーバンの野太い声。
「今日は助かったよ」
「礼は良い。反省すべき点はあるが、生き延びたのならば上々だ」オーバンがテレビの電源を消して立ち上がる。「俺はすこしやることがある。しばらく夏狩の相手をしてやってくれ」
「日課の日本刀作りか。精が出るな」ラファランはオーバンの向かいに座る。
オーバンの趣味は、錬金魔法を使って日本刀を作ることだ。魔法の存在が許されない現実であっても、適切な手順と多大な時間を踏めば、世界の恒常性に消されない魔法産物を作ることができるのだ。
「お前用の小太刀も作っているところだ。銃だけじゃ何かと不便だろう。できたら渡そう」
「もう、家の中で物騒な会話はやめてほしいんだけど」台所に立っていた夏狩が言葉を挟む。
普段は刀のように鋭利な光を持つオーバンの瞳が僅かに惑った。
「しばらく席を外す。ラファラン、ゆっくりしていけ」オーバンが逃げるようにリビングを出ていった。彼は妻である夏狩に頭が上がらないのだ。
「ラファラン、準備するからちょっとだけ待ってて」
「すみません、夜遅くに来ちゃって」
「いいのよ」夏狩のやさしい声が台所から届く。「いつでもいらっしゃい。ここはラファランの家でもあるんだから」
二年前にオーバンと夏狩が結婚してから、ラファランは二人の好意に甘えて一年ほど一緒に暮らしていた。幸せ盛りの時期に邪魔だと分かっていながらもオーバンの元を離れることができなかったのは、孤独を恐れるラファランの弱さだ。
「ありがとうございます。それから、あとで少し話に付き合って欲しいんですけど」
夏狩がころころと楽しそうに笑った。
「もしかして、恋の話かな?」
「そんなところです」
「息子の成長が嬉しいってこういうことなのかな」鼻歌交じりに夏狩が言う。「もうちょっと家に寄ってくれれば最高なんだけど」
痛いところを突かれてラファランはぐうの音も出ない。夏狩から夕食の誘いは毎日のように受けているが、適当な理由をでっち上げていつも断っているのだ。もう十七だから、彼は独り立ちをしなければならないと思っていた。
「でも、今日は寄ってくれて嬉しい。おまけもついているみたいだから、すごく楽しみだよ。久しぶりにお酒でも出そうかな」
「これでも一応悩んではいるんですけど」夏狩のはしゃぎようにラファランは狼狽える。今日は根掘り葉掘り聞かれそうだ。
「ごめんごめん」
軽い会話をしている内に、油の跳ねる賑やかな音と香ばしい匂いが届く。どうやら今日は日本料理のようだと検討をつける。たぶんトンカツだ。
「ねえ」と夏狩。「少し痩せた? ちゃんとご飯食べてる?」
何気ない口調を装いながらも、夏狩の声には張りがなかった。彼女はラファランが死と隣合わせの仕事をしていることを知っているのだ。
「大丈夫ですよ」ラファランは努めて冷静な口調で返す。
「そっか、良かった」
夏狩は深く追求してこなかった。
「お待たせラファラン、できたよ」
夏狩がお嫁に来るときに持ち込んだという日本製の御盆に米とトンカツ、汁物を載せてやって来る。待ってましたとばかりにラファランは生唾を飲み込み、胸の前で両手を合わせて「いただきます」と今日の食事に感謝を捧げる。夏狩から教えてもらった日本の伝統的な作法だ。橋は使えないからナイフとフォークを使って、カリカリの黄金色の衣が包む脂の乗った豚肉にかぶりつく。溢れんばかりの肉汁が口の中に広がり、得も知れぬ極上の美味さが舌を叩く。思わず唸りたくなるほどの料理の腕前だった。
一心不乱に料理を頬につめていく彼の姿を夏狩が幸せそうな慈母の表情で見つめていた。
「喜んでくれて私も嬉しい」
「お礼を言いたいのはこっちです。こんな美味しいもの食べさせてもらえるなんて」
「お上手お上手、なかなかおだてるのがうまいね」
手を立てて笑う夏狩はとても楽しそうだった。彼がこの家を出るまで、彼女とこんな風に語り合うのが当たり前だった。突如現われた懐かしさが纏わり付いて、ひとりで生きるとした決意が持っていかれそうになった。
「ねえ、どんな子?」
頬杖を付いて夏狩が問いかける。子守歌のように優しい声だった。
「氷のような女の人でした。歳は、俺より少し上なのかな」
「年上さんか。それは大変そうだ」
「そうなんですか?」
「歳の数だけ経験を積んでいくから、それだけ男性に求める理想も高くなっていく、という傾向があるかもしれない。もちろん、可愛い年下が好きっていう人もたくさんいるけれど。まあ、どっちもどっち」
「女性のことはよく分かりません」
「少し考えてみようか」夏狩が顔を傾けてゆっくりとした口調で語る。「例えば、その子と二人でどこかに出かけてみる。そこは遊園地や水族館、動物園、百貨店で買い物でもいいし、公園だっていい。本当にどこでも、ラファランが一番想像できそうな場所を思い浮かべてみよう」
空になった茶碗を置いてラファランは言われるままに空想してみる。すぐには思いつかなかったから、約束した《第七天国》で考えてみる。魔法使いにとっての理想郷、夢の国。魔法に溢れた救いがそこかしこで落ちてくる世界を二人で歩く。隣に並んで? 手を繋いでみるとか? 歩いていたら肩が触れ合って、きっと柔らかい温もりを感じられるのだろうか。
そこまで考えて、ラファランは自分の顔が熱くなっていることに気がついた。《第七天国》で彼女に誘われたときにも感じた高揚感が胸に灯る。
その様をじっと見つめていた夏狩が微笑んだ。
「恋だよ」
夏狩がそっと囁く。
「ラファラン、君は恋してるんだよ。そんな目をしてる」
「恋? これが?」
間違いないと言うように夏狩が大きく頷く。
「そう、ラファランはいま恋してる。その子に、どうしようもなく惹かれているんだよ」
理解できなかった感情を説明されると、ラファランの中に納得が滑り込む。これが恋なのかと、奇妙な充実感と興奮を覚えた。まるで世界が反転して、白と黒だった視界に色がつき華やいだようだ。
夏狩が伸ばした指先がラファランの頬に触れる。我が子を慈しみ、あやすように彼女の指が頬を撫でる。
「大丈夫、君はおかしくなんかない。普通の、ごく普通の男の子として、当たり前に恋に落ちたんだよ」
夏狩の言葉が、戦場で荒んだラファランの心に潤いを齎した。
◇◆◇
《第七天国》は全二十七の区画によって成り立っている。現在稼動しているのは内二つの区画で、一般公開されているのは第二十五区画の“現実と同じ物理法則を持ちながら魔法を使える世界”だけだ。
一般の魔導師は立ち入りを許されない、第二十七区画に三人の魔法使いがいた。ひとりは、歳の頃は二十台後半だろうか、見るものすべてを抱きしめるような慈愛の篭った笑みを浮かべた女性だ。もうひとりは、金や銀の刺繍に彩られたローブを身に纏う老齢の男。三人目の魔導師は、鷹のような目をした気難しそうな青年だった。
三人の魔導師が、円形状のホールにある円卓に三角形を象る形に座っていた。彼らは《連合》の最高意思決定機関《二十四法院》にある三派閥の長だった。元々《第七天国》は、世界各国に散らばる《二十四法院》が会議を行う際に問題となった移動の手間を解決するために、ある魔法使いが提案したものだった。
「内容は既に伝えた通りです」巻き毛の女性、元型魔法の最高指導者であるセシリア・ヴァレンシュタインが、既に中身の空けられた封蝋を円卓上に滑らせて言った。彼女は《連合》が擁する全二十四の魔法体系において、唯一中立派を謳っている。《第七天国》の構想も彼女が発案者だった。
「つまりこういうことかね。我々が生き残るために魔法使いの誇りを売り払うことで作り上げた、国家や企業との関係に混ぜろと、彼らは脅してきていると」
精霊魔法の最高指導者である青年、アルベール・ルドリュが、言葉の端々に激昂の焔を宿らせながら言った。彼は《二十四法院》の第二勢力である強硬派の筆頭だ。彼ら強硬派にとって魔法使いは人の枠を超えた上位の存在である。彼らは、世界に存在する全人口約六十八億人を殺し尽くすことで魔法使いだけの世界を手に入れようと本気で考えている。
《二十四法院》の議長であり最大派閥穏健派を束ねる老年の男性、概念魔法の最高指導者クリスティアン・アレクサンダー・ルーベンソンが鷹揚に頷く。
「秘跡魔導師は我々のように経済の関係を築いていない。中心に添えるべき魔法使いの生活を棚上げし、特殊な信仰を表に出すことで統治している。行動の指針が神の守護であるが故に社会から取り残されているのだ。つまり、社会から信頼を置かれていない」
「放っておけば良い、と言えれば良いのだがな」と眉間に皺を寄せたルドリュ。
セシリアがこれに続く。
「ええ、秘跡魔導師は数こそ数千程度ですが、力関係は《連合》を上回ります」
秘跡魔法は約六十年前に魔法使いの願望である、己が魔法体系の法則によって作られた魔法世界を作り出した。これにより、秘跡魔法は世界の法則に定義され、他の二十三の魔法のように人に感知されず恒常性に消えることがなくなった。つまり、他の魔法との力関係を示す天秤が秘跡魔法へと傾いたのだ。
「ですが、《第七天国》を創設したばかりのこの時期に話を持ち出してきたということは、彼らも後がないのでしょう。足元が透けています」胸の前で指を組んだセシリアが続ける。「国家は薄暗いことを専門にする組織と表立った関係を築けません。国際的な信用を失いますからね。何より、秘跡魔導師は神への信仰という建前こそ似ていますが、本質的にカトリックではありません。異なる信仰を持つ集団を、バチカンが内に抱えるなど本来ならありえないのです。これらが重なれば、異端審問機関の立ち位置が厳しいものになると想像するに硬くありません」
「やり過ぎたのだよ、彼らは」ルーベンソンが疲労と共に吐き出す。「国家機関の一部となりながらも行うことは時代錯誤の魔法使い狩り。中世の思考を持つものが現代に淘汰されるのは自然の流れだよ」
「アレも次の生活基盤を欲しているわけだ。現実成功している我らに乗るしか生き残る術がない。哀れだな」ルドリュが皮肉に唇を吊り上げる。「奴らを殲滅するなら駒を出そう。アレは交渉の仕方を間違えた。思い知らせればよいだろう」
「性急ではありません? 交渉の余地はあるかと思われますよ?」とセシリア。
「なにを交渉するというのだ」苛立たしげにルドリュの口調が強くなる。「我らにすれば、アレはテロリストも同然だぞ?」
すべての生命を愛するが故、《愛を謳う人》の名で呼ばれることもあるセシリアが、ぞっとするような微笑を湛える。
「こう考えて下さい。私たち《連合》は超大国家、彼らは弱小国家であると。彼らは弱小国家でありながら貴重な鉱山資源を持っている。答えは単純では?」
美丈夫の眉間に濃い皺が寄る。《強硬派》筆頭の最高位魔導師は経済の話が気に食わないのだ。対して“人”を愛するセシリアは、人との結びつきに欠かすことのできない経済の話を大事にする。魔法使いが現代社会に生きるためには、魔法使いにとって悪魔の理論でもある経済を語ることから逃れられないのだ。
《連合》の最高権力者は、セシリアの真意を悲しげな瞳で飲み込んだ。
「人の歴史を我々魔法使いが繰り返すとは、因果なものだ。結局問題となるは妥協点としての落とし前。そういうことだねセシリア君?」
「ええ、彼らは私たちが最も欲するものを持っています。差し出して貰いましょう。戦端を開くのはそれからでも遅くはありません」