第一章/異端の魔法使い 3
世の表に出ない《連合》は水面下でフランスと関係を持っている。魔法使いもこの時代は国家や企業と手を結び経済活動を行わなければ生きてゆけないのだ。だから、《連合》という企業の一部署である《カドシュの法院》も、その性質から世間の軋轢を産まぬよう、独自にフランス警察上層部と関係を結んでいる。
「お前は帰って休め。あとの処理は俺がしておこう」
警察官からの詰問をかわしたオーバンがラファランに声を掛けた。周囲は、警察官とラファランたちしかおらず、人為的に人払いが行われていた。事後処理を終えるまでフランス警察の協力で完全に封鎖されることになったのだ。
「いいのか? 確かにそろそろ眠くてしょうがないけど、セシリア支部長への報告くらいならまだできる。あいつらが言ってた信書の件もあるし」
「いや、いい。今日はゆっくりしろ」オーバンがラファランの肩に硬い手を置く。「どうせなら《第七天国》にでも行くといい。憂さ晴らしも時には必要だろう」
「分かった。必要があれば連絡してくれ。それと、今日は助かったよ。下手すれば死んでた」
「そのための仲間だ」おぼつかない足取りのラファラン背に、オーバンが思い出したように言った。「夏狩には俺から言っておこう。もう休め」
片腕を上げて答え、ラファランは帰路に着く。さすがにもうくたくただった。
部屋に着くと、彼は上着を椅子の背もたれに放り投げてベッドに倒れこんだ。身体は睡眠を欲しているのに、今になって奇妙な興奮が心臓を高鳴らせて眠れそうにない。
今日は危なかったと、先ほどの戦闘を思い出してラファランは呟く。《カドシュの法院》の主な仕事のひとつに、異端審問機関員の排除がある。彼らは昔《連合》に所属していた秘跡魔導師の集団だ。それが五十年前、ある理由で《連合》から離反し敵対することとなった。彼らは《カドシュの法院》がどのような戦術で持って戦いに望むかを熟知しているから、今日のような不意打ちは本来ならば成功し得ない。本当に幸運だったのだ。
あまり考え事をしたくなくて枕に深く頭を埋める。ふと、机に投げ出されたカードに目が留まった。《第七天国》の入界証だった。手を伸ばしてこれを掴んで目の前にかざす。黒塗りのカードの表面にはフランス語で《第七天国》とあり、端には識別番号が描かれていた。
明日の予定を記憶から引き出す。呼び出しがなければ特に仕事が入っていなかった。意を決して《第七天国》へ行くことにした。稼動から約一ヶ月経つが、ラファランはまだ《第七天国》へ行ったことがなかったのだ。
魔法使いの理想郷である《第七天国》への扉を開ける。
「《開け》」
そして、ラファランの意識が夢の世界へと誘われた。
視界が開けると、そこは街の中だった。未知の材質で作られたパステル調の建物が立ち並び、遠くには、霞がかった鈍色の棟が永遠を象徴するようにどこまでも高くそびえ立つ。街を取り囲むように円形に並んだ塔の数は、実に二十四。空は現実と同じ海原を連想させる蒼穹。太陽の傾きもまた、フランスと同時刻のそれだ。そして、七色を超える不可思議な光が街中を自由に駆け回っていた。そのすべてが、現実ではすぐに命を散らせる魔法の輝き。
ここは、現実と夢の境目のような世界だった。
「ここが《第七天国》。魔法使いが恋焦がれ、世界に拒絶されてなお求めた魔法使いの理想郷」幾重にも折り重なる女の声が聞こえた。「ようこそ、《第七天国》へ」
ラファランの前に現われたのは、人間を手の平大まで縮めた翡翠の妖精だった。背中に生えた二対の羽をぱたぱたと動かして、妖精が宙を舞う。オーバンと同じラファランの同僚、先刻終ぞ電話に出なかったシャーロットの元型魔法だった。
「お疲れみたいねラファラン。本当、小間使いは大変ね」
耳の底を揺さぶる気色の悪い声で、シャーロットがくすくすと笑う。
「昼間から仕事を放り出してこんなところにいたのか。どうりで電話に出ないわけだ」
「あら、そういうあなたもこんな時間からここにいるじゃない。人のこと言えた義理?」まあいいわ、とシャーロットが続ける。「ここでもやることが退屈で暇だったのよ。少し案内してあげましょうか?」
「結構だ」
彼は手を軽く振って答える。ただでさえ心身ともに疲れきっているところに、互いに忌み嫌っている女の相手などしたくはなかった。
「残念ね。でも今日の私は少しばかり気分が悪いから付き合ってもらうわ」
彼の周りを翡翠の妖精が旋回する。彼女の勝手な発言にラファランはうんざりした。
いまでこそシャーロットは彼と同じ《カドシュの法院》に所属しているが、元々は諜報活動を主任務とする《内部監査室》にいた経歴を持つ。監査室は《カドシュの法院》にも増して魔法使いの技量を重視しているから、在籍する魔法使いはすべてが優秀であり、それ故に自分より実力の伴わない魔法使いを軽視する傾向が強い。《連合》が指定している魔法技能の尺度ではラファランは第七階梯だ。第八階梯になるシャーロットにとっては彼の存在など塵にも劣る存在でしかない。
シャーロットが赤子に教えを説くように、ねっとりとしたふざけた口調で言う。
「世界は、物理法則とは異なる視点で見ることができる。魔法は、この観測方法によって知覚した“別世界”の法則を“現実”にひっぱった結果の現われ。だから、魔法は現実世界に存在することができないし、存在しない」
魔法は一般人の認識の外、つまり知覚外に存在するから、一般人には観測することができない。また、魔法は世界に定義されていない事象であり、世界に対する影響力を一切持たない。
例えば、魔法によって森を焼いても、一般人は森が燃えていることに気づくことはないし、本当は燃えてすらいないという、とんちんかんなことが起こる。これは通常とは異なる観測方法によって見ることができる“別世界”が、現実世界と一時的に重なることで起こる矛盾だ。魔法使いはこの“別世界”である魔法世界と、現実世界を同時に知覚することができるから、彼らにとっては森は燃えているし、現実世界のみを観測する一般人にとっては森は燃えていない。そして、世界は複数の世界が同時に存在することを許さないから、生物がもつ恒常性のように、一定の許容量を超えると世界から魔法世界を引っぺがす。このせいで、現実では魔法はすぐ消えてしまうのだ。
「魔法の初歩だ。それくらい五歳児でも知ってる」ラファランが苛立ちながら答える。
「あら、あなた五歳児じゃなかったかしら? ごめんなさいね。私、最近物忘れが激しくて」ひとしきり笑ったあと、鼻にかけた物言いのままシャーロットが続ける。「魔法使いにとって現実は過酷なのよ。魔法を使っても現実は何も変わらない。だれかに誇ることもできない。それどころか魔法の存在すら現実には否定される。だから、魔法の消されない、魔法が許容される、魔法の法則のみで作られた魔法世界を欲したのよ。私たちが在るべき本当の故郷を」
彼は疲労の混じった息を吐く。憂さ晴らしに長々とした話を聞かされるのはたまったものではなかったが、どうしようもないと諦めるしかなかった。彼女に口げんかで勝ったことなど一度もないのだ。
彼は仕方なく合いの手を打つ。
「その答えがこれか」
「ええ」妖精が小さな両手を翼のように広げた。「夢の答えのひとつがこの《第七天国》。現実で魔法世界を作ることが難しいのなら夢の中で作ればいい。こうしてできあがったのがここよ。魔法使いによる理想郷。幸せの国、第七天国」
ラファランは《第七天国》を見渡すと、多くの魔法使いの姿があった。人種も単一ではなく、欧州に東洋、アフリカと多種多様だ。《連合》に所属する魔法使いは全世界に三十万人はいるとされているのだ。
「一日の平均接続人数が約千人。小規模な魔法体系の総数と同じだけの数が、この第七天国に接続しているのよ。まあ、その殆どが第六階梯以上の高位魔導師なのだけれどね」
「ある意味差別の温床だな」とラファラン。
「区別といって欲しいわね。力の無いものはそれ相応の対価しか得られない。弱肉強食、太古から脈々と引き継がれてきたとても単純で明快な法則よ」
「二十一世紀にもなって言うことがそれじゃ、魔法使いの先が思いやられるな」ラファランは辟易としながら言う。
シャーロットのいつもの仕草を真似て、妖精が身体を抱きしめるように腕を組んだ。
「まだ子どもね。なにも分かっていない。世界はそれ程やさしくできているわけじゃないのよ?」
「やさしく在ろうとするのは世界じゃなく今を生きる人の役目だ。人がその意識を持たなければ、世界はどこまでも残酷になる」
「魔法使い殺しがよく言う」シャーロットが低い声で言う。「《カドシュの法院》にいる時点でそんな幻想は消すべきね。でないと近い内に死ぬわよ? 身体だけじゃなく心もね。私としてはそれはそれで楽しいから良いのだけれど」
妖精が伸びをする。
「さて、私は仕事に戻るわ。ラファラン、早く死んでくれることを祈っているわ」
シャーロットがさらっと酷いことを言う。彼女にとってはラファランなど死んで良い手駒なのだ。
使役主の性格のせいでひと欠片も可愛く見えない妖精が、小さな羽を駆使して飛び立った。索敵範囲から妖精が完全にいなくなったのを確認して、ラファランは嘔吐気味にため息した。
魔法使いと接するときの殆どがシャーロットと対するようなものだ。魔法使いは階梯の上下関係を過度に重んじるから、下の者に対するあたりが尋常じゃなく強い。ラファランやオーバンが例外なのだ。
いっそこのまま帰ってしまおうか、とラファランは考えるが、初めての《第七天国》の思い出がシャーロットの嫌味で終わるのは嫌だった。折角来たのだから少し街を見て周ろうと、周囲をぐるりと見渡す。
ふと、近くに一際目立つ時計棟を見つけた。目を凝らして時刻を確認すると、既に正午を過ぎていた。《第七天国》は、夢の中に存在しながらも現実と同じ時間を流れている。基点として現実のフランスを置いているから、ストラスブールに住んでいるラファランの感覚としては、徹夜明けのせいでひたすらに眠いという点を除いて時差はなかった。
少し視線を上げると、棟の最上部に開けた部屋のようなものがあることに気づいた。高い場所から《第七天国》を見下ろすのも悪くない。
ラファランは、現実では世界の恒常性のせいで使うことが難しい転移魔法を早速使う。彼が知覚する因果世界において、物体の位置は正確に決まっていない。異なる時間の流れが無数に存在し、物事の因果関係がめちゃくちゃになっているから、どこにでも存在し得るのだ。これを魔法として引き出すと、瞬間的な移動――つまりテレポートが可能になる。
転移魔法によって、ラファランは一瞬の内に時計台の最上部に移動していた。魔法の成功と同時に全身からみなぎるような活力が溢れた気がした。《連合》指定で第八階梯級の魔法をこんなに手軽に使えるとは思わなかったのだ。嬉しくてしょうがなかった。
綻んでしまった表情を何とか元に戻そうとしていると、先客がいることに気づいた。
氷の彫像のような透明感を持った美しい女性だった。一陣の涼風に流れる長い黒髪をかき上げる何気ない仕草に色香が混じる。
ふと、女性がラファランに気づいた。凜としたまなじりを向けて静かに問う。
「どなたですか?」
水晶を弾いたような透明な声だった。
黒髪の女性に見惚れていたラファランが慌てて答える。「俺はラファラン。《カドシュの法院》所属の因果魔導師だよ。あなたは?」
細めた目に警戒の色を灯した女性が、少しの間を置いて答えた。
「システィーナと申します。《殿堂の法院》に所属する精霊魔導師です」
精霊魔法は、世界が四種の元素によって成り立っているとして観測する、《連合》でも強い発言力を持つ魔法体系だ。
ラファランは緊張のあまり震える足で歩き、システィーナに並び立つ。ゴシック様式のリブ・ヴォール天井まで伸びるアーチ状の窓からは《第七天国》が一望できたが、景色など目に入ってこなかった。
「俺はフランスのストラスブールから来たけど、システィーナはどこから来たんだ?」
じろじろと見ているのが失礼な気がして、ラファランは目を逸らしながら聞く。こんなにも必死に取り繕うとしている自分の心がよく分からなかった。
「そうですね、私はパリからです」システィーナが静かに答える。
ラファランは素直に感嘆する。パリは《連合》の本部が置かれる街だ。《殿堂の法院》が取引を持つ大企業も多いから、第八階梯級の優秀な人材が集まる。
「連合の本部か。なら相当優秀な魔法使いなんだな」
「そういう訳では……。ただ上の命で動く人形のようなものですよ。そういうあなたもその若さでカドシュの法院なら、相当なものなのでしょうね」
「師が優秀だから。そうでなきゃいまも《メイザース》だよ」
連合は、一般会社と同じ組織構造を持っている。最高意思決定機関である《二十四法院》を筆頭にし、魔法研究機関である《殿堂の法院》、《第七天国》の設計構築および運営を担う《第七法院》、敵勢力の排除を目的とした魔導師部隊《カドシュの法院》、《連合》内部に対する監査や諜報を行う《内部監査室》が存在する。中でも《カドシュの法院》と《内部監査室》は、役割の特性上第六階梯以上の高位魔導師しか所属を許されない。カドシュの法院の下位互換組織である《メイザース》に所属する魔法使いの殆どは、《カドシュの法院》に上がれずに一生を終えることが多いのだ。
「ここは、綺麗なところですね」吹き抜ける風に流れる髪を押さえて、システィーナが囁くような口調で言う。「このような素晴らしい世界を私は初めて見ました」
彼女は、時計台から望める《第七天国》の街を見下ろしていた。見えるのは、現実では絶対には在り得ない魔法に溢れた光景だ。街を我が物顔で練り歩く魔法使い達に混じる光はすべてが魔法だ。その中にはたぶん、シャーロットと同じ元型魔法によって作られた妖精もあるだろう。
「現実だと、こんな風に普通に魔法が見えるなんてことはないから、確かに不思議で綺麗な光景だな」
魔法に全存在を賭ける魔法使いにとって、現実は己の存在を否定し続けられる奈落の底だ。英知の結晶である魔法を消され、一般人には存在さえ知られず、社会の片隅でひっそりと生きていくしかない彼らには、《第七天国》は唯一日の当たる世界なのだ。
彼女の言葉の意味が思いのほか当たり前のように心に響くことに、ラファランは驚く。魔法で家族を離散させた彼にとって、魔法は忌むべき呪いの力だ。この世界で初めて使うことができた魔法に確かに心は躍ったが、所詮は遊び感覚の延長に過ぎない。奥底に眠る得体の知れない何かが帆張って大海洋を旅しているように、心が浮ついていた。眠気が度を越えておかしくなってしまったのかと思った。
システィーナが少し恥ずかしそうに微笑する。
「よろしければ、案内して頂けませんか? もちろん、お時間があるときで良いのですが」
ラファランはまともに答えることができず沈黙する。彼女の言葉の意味がすぐには理解できなかったから、頭の中で繰り返すこと四回。これは夢かと、冗談抜きで思った。
「あ、ああ。いまはアレだけど。明日とかなら、たぶん、大丈夫だ」
うろたえ過ぎて変な口調になってしまった。
「感謝します。それでしたら、明日の同じ時間……というのは仕事もあるでしょうし。明日の夜はいかがでしょうか?」
「明日の夜なら大丈夫。十九時くらいでいいか?」予定も思い出さずにラファランは答えていた。
「ええ、それでお願いします。場所はここということで。では、今日のところは失礼します。明日、楽しみにしていますね」
システィーナは入界証を取り出し、《閉じよ》と唱えて《第七天国》から消えた。
放心状態のまま、ラファランはよく知らない《第七天国》の観光場所を探さなければならないと、遊びの計画でもたてるような感覚に心を躍らせる。
◇◆◇
現実に戻ったアリーシャが最初に確認したのは自分の姿だった。精霊魔法による肉体操作で目立つ髪色を変えていたから、それが元の銀色に戻っているのか心配だった。
鏡の前に立つ自分の姿にほっと安堵を吐き出す。元に戻っていた。
乱れた髪を櫛ですく。仕事は思いの外順調だと言えた。敵の懐である《第七天国》に入ることを命じられたときは死を覚悟したものだが、予想よりも平和な場所だった。
「問題は明日。少し強引だったかもしれませんね」
《第七天国》で出会った剣呑な雰囲気を持った少年を思い出す。所在を尋ねられたときは内心焦ったものだが、機転を聞かせることで事無きを得た。しかし、明日はボロは出せない。
私服から正装である修道姿に着替えて自室を出る。早く明日が来ないだろうか。悪女のように笑ってみて、似合ってないなとまた笑う。




