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第四章/第七監獄 2

 時計台の最上部に降り立つ。喧騒から切り離された円形状の部屋の中は、戦争中とは思えぬほど平和な空気に満ちていた。そのあまりの乖離に彼女との思い出が脳裏に浮かびそうになり、奥歯を噛みながらそれを消す。

 彼女が居た。仮面を外した、黒ではなく銀糸の髪を伸ばしたアリーシャが、魔法転移してきたラファランにゆっくりと振り返る。

「こうして出会うのは初めてでしたね。ラファラン」

 目の前が真っ白になったように、ラファランが立ち尽くす。

 彼女の持つ釘がかたかたと音を立てて震えた。だが、決死の覚悟を思わせる表情でアリーシャが彼を見つめる。

「なにか言ってください。そう黙られては、言い訳ひとつもできません」

 声など出なかった。壊れたレコードのように世界を罵倒する言葉は捜す必要もないほど湧き出しているのに、彼女にかける言葉がひとつも見つからない。愛を囁けばいいのか、騙していたことを糾弾すればよいのか、そのどれも正しい気がしたし、間違っている気がした。

「ラファラン。昨日、池の林であなたと戦ったのは私です。昨夜、あなたが追っていた魔法使いは私です。ラファラン、あなたが愛して下さったアリーシャは、異端審問機関に所属する、アリーシャ・フィオレンツァ・コペルティーニです」

 世界がぐるりと回った。心臓が破裂したように全身に血を送り、だというのに脳は全く働こうとせず、ただめまいだけをラファランの身体に与えている。

 彼にできたのは、彼女を見つめ返すことだけだった。

「ラファラン。私はもうどうしていいのか分かりません」

 アリーシャが釘を落として彼の元へと歩き出した。足音がすべての終わりを告げる鐘の音のように反響する。

「交わらぬ運命だと頭では分かっているのに、心があなたを求めるのです」

 胸を握って彼女が喘ぐ。

「あなたが好きで、好きで、心の底からあなたを愛しているから、もう、こんな辛い思いはしたくないのです」

 無理やり作った微笑が剥がれ落ち、彼女の顔が悲痛に歪んだ。

「もう……泣いて、いいですか?」

 遂に彼女の声を聞いていられなくなって、足元がふらつき壁にもたれかかる。額に手の甲を押し付けて、嗚咽しそうな口を必死で横に結び、まぶたを閉じる。

 消した視界の中で、アリーシャの泣き声が聞こえる。喉をつまらせ咽び泣き、ラファランが出せなかった嗚咽を漏らして彼女が泣く。

 もう、堪えられなかった。

「ラファラン。ねえ、ラファラン。私はどうすればいいの?」

 普段の口調が消えたアリーシャの声が胸に突き刺さる。分からないから、ラファランも涙していた。

 どうしてこんなことになったのだろうと考える。出会わなければよかった、愛さなければよかったと思い、だけど、彼女を嫌うことなどできないから、胸が張り裂けるほど涙を滂沱と流す。

「私はもう、あなたと戦いたくない。ここが、ここだけがあなたと愛し合える場所だったのに、どうしてここで敵として出会わなければならなかったの? ここは理想の国ではないの? ねえ、お願い……少しでいいから声を聞かせて」

 彼女の懇願が、ラファランの喉に悲鳴を上げさせた。

「アリーシャ、俺は、君を愛しているんだ」

 まぶたを開くと、目と鼻の先にアリーシャがいた。全身で泣く彼女が、顔を凍りつかせていまにも壊れそうな人形のように視線を左右に彷徨わせる。

「あ……あ、ああ――」

 彼女が立ち止まり、膝から床に落ちる。震えて止まらない彼女の手が、頭を抱えた。

「あっ、アアアアアアアアアアアアアアアアア!」

 アリーシャの哀哭が世界を引き裂く。ここは楽園などではなく、地獄なのだと呪うように。

「いやだ、いやだ、いやだあ……。こんなのは、こんな運命はいやだあ……!」

 火がついたように泣き出したアリーシャが、頭を両手で抑えたまま地面に倒れる。呪詛を聞きながら、ラファランもずるずると地面に尻をついた。

「これが私の二十年間だなんて、これが結末だなんて、一体、私は何のために生まれてきたっていうの!」

 ああ、実は年上だったのか。状況が状況でなければ、笑って話しているはずだった。それが今ではどうだ。希望のある未来など、到底見つけることのできない泥沼の中に嵌り込んでいる。

 世界は一体、どれだけ醜いというのだ。

 もう、こんなところからは逃げてしまえばいいと思った。

「アリーシャ、まずここから出るんだ。そうすればひとまずここでの戦闘は避けられる」

「気づいていませんか? 現実との繋がりが一時的に離されています。ここは既に一種の監獄になっているのです」

 ラファランは入界証を出して精神を現実に戻す言葉を紡ぐが、なにも起こらない。用意周到な《連合》の手腕に笑うしかない。

「どうすりゃいい? 分からないことが全部ここに繋がってるのに結局欲しい出口が見つからないなんて、そんな話があるかよ」

 状況は最悪の一言に尽きた。アリーシャを救う方法がないのだ。このまま戦えば、ラファランは間違いなく彼女に殺される。彼女もたとえこの場を切り抜けたとしても、裏切り者として異端審問機関によって処分される。彼女を《連合》に引き入れようにも、《連合》を説得できるだけの対価が見つからない。もし説得に失敗すれば、二人まとめて《連合》に殺される。

 選択肢はふたつ。彼女をなんとかして殺すか、彼女に殺され彼女が生き延びる僅かな希望に縋るか。

 初めから救いなどありはしないと、世界によって逃げ道を塞がれているようだ。

 涙を拭ったアリーシャがのろのろと立ち上がる。

「これが運命ならば、従うしかないでしょう?」

 ラファランも立ち上がって彼女に近づく。そんなのは駄目だと手を伸ばし、だが彼女が後ずさる。

「まだ手はあるはずなんだ。こんなところで諦めてたまるか。だからアリーシャ、この手を取ってくれ」

 足を踏み出し、彼女の救いになるのだと手を差し出す。なのに彼女は下がるばかりで触れようともしない。彼女との距離が広がり、まるで本当に敵対しているようなものになる。

「どうしたんだよ。こんなの嫌だって言っただろ。俺が何とかする」

 アリーシャが首を振る。その仕草が彼女との間に立つ壁のようだと思った。

「アリーシャ……!」

「どんなに愛そうと、どれほど恋情に燃えようと、あなたと私は敵なんです」

「それを何とかしようって言ってるんだよ」

 彼女が両手に釘を生んだ。喉がひきつったように声が出なくなった。どうしてこうなるんだとまた涙が出る。

「これが私の答えです。苦しみのたうちながら見つけた、きっとこれが私の最後の選択」

 彼女の両手には敵を貫く釘があった。そして、彼の左手も敵を撃つ銃があった。だから戦うしかないのだと頭で理解してしまった。

 そして、アリーシャが紫電を纏う。

 魔法使いは魔法世界では生きられない。これはラファランの持論だ。第七天国に在ってなお魔法使いの身体が現実世界のそれと変わらない事実がそれを裏付けている。

 魔法世界では現実世界の自然法則が適用されない。即ち、自然法則によって成り立っている魔法使いの身体は、魔法世界では別の形にならなければおかしいのだ。魔法使いはそれを想像することができないから、魔法世界の秩序を模倣した第七天国においてすら物理法則が存在し、魔法使いの身体も現実世界のそれと同じになる。これが、現実世界に生きる魔法使いの限界だ。

 ひるがえって、魔法使いが自己の肉体を完全な形で魔法的秩序で作り上げた姿を想像することができたとき、魔法使いは自然法則の枠組みを超えた姿になることができる。現実世界では魔法的矛盾を世界の許容量を超えるため実現することは不可能に近いが、この第七天国に限り、魔法使いは魔法秩序で作られた肉体を手に入れられる。

 アリーシャの輪郭が、陽炎のようにがブれる。耳をつんざく異音と共に雷光を撒き散らしながら、遂にアリーシャの身体が人間の《原型》から外れた。

 雷鳴が走る。あまりの速さに音が置き去りにされ、瞬間後に轟音がラファランの顔面を叩きつけた。

 精霊魔法の秩序によって、アリーシャの身体が雷に変換されたのだ。第九階梯の精霊魔導師ですら、現実世界ではその性質の一部しか肉体に還元できないはずの《魔導師の魔法化》を、アリーシャはこの第七天国で成し遂げた。これは、恐らく魔法史的快挙だ。そして、若くして精霊魔法の到達点にまで達した超高位魔導師が敵である事実に、ラファランは最早恐怖以外の感情すら浮かばない。

「太刀打ちできる気がしないんだが」

「諦めるのが早いのですね」

 ラファランの背後、一振りで致命的な攻撃を与えられる距離に立っているアリーシャが呆れたように言った。

「無茶言うなよ。そもそも第七階梯でしかない俺が第九階梯のアリーシャに勝てる道理がないだろ」

「主人公はいつだって無理を押し通して悪を懲らしめるものですよ?」

「おとぎの話は説話魔導師だけで十分だよ」

「わたしは好きですよ、おとぎ話。物語の中にだけは確かな救いがあるのですから」

「そういう話はもっと穏やかな状況でしたかったよ。こんな殺し殺される間柄でなんかしたくはなかった」

 ラファランの背に暖かい感触。アリーシャが身体をしな垂れかからせてくる。

「そうですね。いまはもう、きっと愛すら囁けない」

 肩越しに聞こえるアリーシャの声が、ラファランの耳を優しく撫でる。それがたまらなく心地よくて、一瞬後に殺されてもおかしくないのに心底安心できた。

「ここじゃない“どこか”なら、まだ大丈夫だろ」

「その“どこか”があるのなら教えてください」

「探せばきっと見つかるさ。探す前から諦めてたら、何のために足があるか分からないだろ」

「理想だけを口にして、ままならないことを煙に巻かないで下さい」

 理想ではなく現実を見つめるアリーシャの言葉が辛辣に響く。彼女の言葉は違える箇所が見つからないほどに正論だ。敵対する組織にお互いが属しているから、本当はこうして言葉を交わすことすら奇跡のはずだった。だが、正論をそっくりそのまま飲み込めるほど、ラファランは人間ができていないし、そんな人間になりたくもなかった。恋を知ってしまったから、好きになった相手との未来を手放すことができない。

「理想だっていいだろ。理想をいつも口にしていたら、もしかしたら理想が現実になるかもしれないだろ」

「現実を見ましょう。私は異端審問機関、あなたは連合。互いが互いに弓を引いているのに、どうして私たちが手を取り合えるのですか?」

「そんな、そんなもの――」

 どうだっていい。そう言う事ができれば、きっと彼女が救われるであろうことをラファランは知っていた。知っていてもなお言う事ができない。魔法使いは魔法集団から弾き出された瞬間、生きる場所を失う。一度居場所を亡くしたラファランにとって、それは身を引き絞るような苦痛だ。

「俺は、それでも、アリーシャと一緒に歩きたいんだ」

「無理ですよ」

 アリーシャが容赦なくラファランの願いを切り捨てる。

 でも――と言って、首筋にアリーシャが頬を寄せた。きっと無作為に白と黒に塗り分けてきた彼女の手が、ラファランの胴に回る。

「あなたと歩けるのなら、きっと“どこか”が見つからなくても幸せなのかもしれませんね」

「好きなんだ。この気持ちを捨てて殺しあわなきゃいけないなら、社会の方が間違ってる」

 少しの望みを繋ぎたくて言葉を紡ぐラファランに、アリーシャは容赦なく現実を叩きつける。まるで、否定を続ければ救いが落ちてくると願っているかのような切実さで。そんなもの、都合よく降ってくるわけがないのに。

「なら社会を壊しますか? 私たちを生かす社会がまちがっているからといって、その上で生活する三十万の魔法使いと対峙する覚悟がありますか?」

「間違っている社会でも三十万を生かしているなら二人はどうなってもいいのか? そんなのは数の論理じゃないか」

「それが民主主義です。幸福の最大化のためにはどこかで必ず折り合いを付けなければなりません。今回はたまたま私たちの関係が天秤にかけられたに過ぎないんですよ」

「恋を語るのに民主主義っておかしいだろ。恋がそんな大層なもののはずがないだろ」

「論点をずらしたのはあなたですよ」

「こんなことが言いたかったわけじゃない。社会が間違ってるせいにすれば戦う理由を棚上げできるんじゃないかと思っただけだ」

 ラファランを抱くアリーシャの腕に力が篭る。首に掛かる吐息は茫漠とした憤り震えていた。

「棚上げできるだけの理由を私は既に失っています。持ってさえいなかった。だから私は訪れを受け取り、選択することしかできない。救いを引き寄せるのは範疇外です」

「なら理由を与えてやる。アリーシャは選択するだけでいい」

「無理です。私にとってもう、私の救いよりあなたのほうが大切です」

「ならその大切な人を困らせるようなことを言うなよ」

「私がここで死ななければ、残された未来は必ずあなたを殺します。この戦場で選択できるカードはそう多くはありません。なら私は数少ない訪れの中から私にとっての最大の幸福を選ぶしかありません」

「結局ひとりで全部選ぶのか? その最大の幸福とやらは自分を殺して俺を生かすことなのか? それで納得したら俺はただの馬鹿だろ」

「連合にとっての私は黒であなたは白です。ふたりを生かす灰色は在り得ません」

「理由を他に預けるな。自分の存在意義を他に預けてるからアリーシャはブレるんだよ。心の底にある願望を中心に添えろ。こんな状況なんだから、基盤が自分になきゃ状況に翻弄されるだけだ。訪れを受け取るだけなんて考えはもうやめろ。自分で掴んで選択してくれ。ひとりでは無理でも二人ならもしかしたらジョーカーくらいつかめるかもしれないんだよ」

 ラファランの言葉は、間違いなくアリーシャの琴線に触れた。自分の意思で未来を掴むことを許されない抑圧された環境の中で生きてきた彼女にとって、訪れを受け取り、限られた中から選択することがせめてもの自己同一性だったはずだ。だからラファランの言葉はそっくりそのまま彼女の人生すべてを否定することになる。

 予想される未来だったとしても、アリーシャの体温が背中から消えたとき、ラファランはこれ以上ないくらいに狼狽し、心細さに心が怯えた。

 振り向くと銀糸の修道女が、底のない絶望を宿した群青でラファランを貫いていた。

「あなたも、私をモノのように扱うのですか?」

 これは、見ていた世界が違うからこそ起こったすれ違いだ。ラファランはこれを愛しいと思い込むことでしか、彼女の視線を受け止めることができない。

 アリーシャの輪郭が消える。雷鳴を轟かせながら、雷へとその姿を作り変えたアリーシャが天へと駆け、晴天の蒼穹に神のごとき輝きを放つ。

 ラファランは咄嗟の判断で時間制御による高速化ではなく魔法転移による地点移動を選んだ。それが、彼の生死を分けた。

 時計塔に天空から光の柱が降り注いだ。遅れて到来するは、破壊尽くされた大気の断末魔。立ち昇る粉塵の中には先程まで存在していた建物の姿は見えない。アリーシャが生み出したのは単純な落雷だ。だが、本来であれば刹那的な現象である雷の放射時間を無理やり引き伸ばすことで、戦略級の魔法にまで格上げしたのだ。まさに神の怒りに相応しい究極の魔法だった。

 格の違いに歯の根が震えた。見上げた先には、雲の欠片も見えないのに雷が天空を這っている。その中心には半身を雷に変化させた怒りの権化たる銀の修道女。

 咆哮しながらラファランが時間制御を十倍まで加速する。これから先、限界まで反応速度を加速させなければ即死だ。

 天が胎動するように、光が溢れた。再び破壊の雷がラファランに襲い掛かる。瞬間前に転移を終えていたラファランは、移動が終わると同時に転移。これを繰り返す。魔法転移により景色が変われど幾度も降り注ぐ神の怒りによって視界が点滅し、胃を縮こまらせるような破壊音が断続的に大気を打ち鳴らす。

 本能的な恐怖に心を捕まれそうになって、魔法的照準をアリーシャに定めて引き金を引いてしまった。銃口を向けた意味に慄いたときにはもう遅かった。時間制御によって生み出された相対的な時間差が、銃口から銃弾が射出されると同時にこれを十倍速まで加速。あらゆる物理的防壁を貫徹する魔弾が、神が鎮座するがごとく空に静止したままのアリーシャに襲い掛かる。

 着弾の寸前、アリーシャの姿が消えた。空を駆けるは一条の光。アリーシャは、十倍速の銃弾の発射を見てから全身を雷に変えて避けたのだ。間違いなく魔法で反応速度を上げている。

 銃弾もその矛先を変えていた。慣性を無視した鋭角軌道で空を舞う光を追う。現実世界では焦点を設定することで目標座標に到達する不完全な魔弾が限界だったが、第七天国ではその限界を簡単に乗り越えることができる。因果魔法《因果収束》により、銃弾がアリーシャに必中するという未来を無理やり作り、先の錬金魔法を打ち倒したときと同様の魔弾を生み出したのだ。

 弾丸が遂にアリーシャに到達する。いや、いまや神となった修道女は無傷だった。彼女を中心とした衛星軌道に旋回するは眩い光。

「プラズマで受け止めた?」

 あり得るわけがないと、ラファランは驚愕を飲み込んで転移する。一撃死の雷を避けたあと、もう戦うしか選択肢がなかったから、今度は弾層が空になるまで引き金に絞り続ける。

 ラファランにとっては撃ちごろの的である静止したアリーシャの前方に、また光が生まれていた。プラズマに焼き尽くされた赤い筋が修道女から逃れるように大きく射線を逸れ、後方へ伸びていく。

 ようやく銃弾を受け止められた理由が見えた。恐らく、修道女は周囲に電磁的な索敵網を常に展開しているのだろう。それに銃弾が触れた瞬間、魔法的手続きにより自動かつ瞬間精製された超高温プラズマが銃弾に殺到。これを一瞬にして蒸発し、更に無理やり通電することで磁力を持たせ、外向きに磁力を放射することで射線を反らしているのだ。プラズマだけでは銃弾を蒸発させることはできても、超加速した気化金属を完全には止めることができない。だからとて、物理的防御を薄紙のように貫徹できる攻撃を即席で展開した魔法で受け流すなど正気の沙汰だ。神業としか言いようがない。

 戦いが始まって僅か二分、既に戦略的に詰んでいた。《時間制御》による超加速の弾丸は、アリーシャの多重結界の前では無意味。ならば物理防御を完全に突破しうる《空間圧搾》も展開が遅すぎて回避されるは必至。辛うじて生きているのは、恒常性が働かない故に使用できている因果魔法の魔法的転移があるからに過ぎない。第九階梯と第七階梯の絶望的なまでの実力の差が、神と人の間にそびえ立つ絶壁のようだ。

 情けなさに歯噛みしながらアリーシャを見上げる。彼女の周囲に旋回していた光球が数を増やしていた。二つ、四つ、八つと等比級数的に増殖する光球が、彼女の引力圏から離れるように旋回半径を爆発的に増大させると、手ごろな獲物を見つけたとばかりに突進してくる。防御する方法など浮かばずラファランは転移する。

 一回で二キロ以上も移動したラファランは石畳の道に立ち振り返る。今度こそ眼前に飛び込んだあり得ない光景に目を剥いた。

 百を超える光球が、《第七天国》に並ぶ建物をことごとく融解させいくらか数を減らしながらも、まるで猟犬のようにラファランを追いかけてくるではないか。数度瞬きし、光の群れが鼻先まで迫ってきたときには頭がおかしくなりそうだった。二度三度四度と転移し距離を離すも、無数の光球はいまだ彼に照準を合わせたままだ。

 ――本質的に魔法は現実の物理法則に左右されない。精霊魔法によるプラズマである光球も、プラズマと似た性質を持つ別の何かだ。だから、目標に反応する魔法的な磁力を光球に付与することで、地獄の果てまで追尾するという、自然秩序的にあり得ないプラズマに似た何かを作ることも魔法原理上は可能なのだ。

「いくら第九階梯だからって無茶苦茶だ。俺たちは人間の姿を借りた別の何かにでもなるつもりなのか?」

 ――しかし、魔法は扱う魔法使いが物理法則によって成り立ちこれに慣れ親しんでいる以上これに引きずられるため、原則的に物理法則に乗っ取った形で現れることが多い。精霊魔法ではこれが特に顕著だ。

 アリーシャのような精霊魔法の使い方は、未だかつて聞いたことがない。自らの完全雷化と局地を破壊する放射時間を延ばした落雷、追尾するプラズマ球と、《第七天国》で行使しているアリーシャの魔法は既に精霊魔法の原型から外れている。

「これが本当の魔法なのか。俺たちはどれだけ魔法を知らないんだよ」

 転移しつつ、ラファランは原理は理解していても一度も使用したことのない魔法を編み上げる。

 彼の後方、追尾する光球を防ぐような形で闇よりもなお深い漆黒の壁が、ぬるりと現れた。因果魔法には防御魔法と呼べるものはひとつしかない。黒の壁は、時間制御によって時間軸の流れを堰き止め停滞させた空間だ。時間が止まっているから、これに触れたものも通常の時間軸の系を外れ動きを止める。現実世界なら第八階梯レベルの高位防御魔法だ。

 半数ほどの光球が時間の壁に堰き止められる。同時に、時間の壁を囲むように空間が波立った。効力圏内に存在するあらゆるものが不可視の力に導かれて中心に殺到、時間の壁もろとも拳大まで圧縮される。形を保てなくなった光球が連鎖的に爆発する。

 空間を時間の連続として知覚すると、因果魔法の法則でも空間の形を操ることができる。高位の因果魔導師にのみ許された空間操作により、巨人が握り潰すがごとく空間を圧搾したのだ。

 二種類の高位魔法を使っても光球はまだ半数近く残っている。今日一日で絶望の最高記録を更新し続けるラファランは、背後に時間の壁を五つ展開。すべての光球を止めたことを確認して空間を圧縮する。

 ここに来てラファランはようやく《第七天国》での魔法の使い方を理解し始めていた。ここでは現実世界にある恒常性が存在しない。だから魔法使い自身に関わる魔法が恒常性によってぶれることもないし、物理法則を著しく外れた魔法も少しの減衰もなく行使できる。いままで丁寧に時間をかけて行ったことを適当にやっても期待以上の成果が得られるのだ。

 家屋の屋根を蹴って宙を跳ぶ。時間観測による擬似的な未来予知で危機を察知し、魔法転移を行う。今度はレーザーの豪雨が魔法の街に降り注ぐ。

 遠距離戦では決着はつかない。短期決戦に持ち込まなければならないから、この状況はお互いにとって無為に時間を浪費するだけだ。

 さらに、アイデンティティに並々ならぬ執着を見せるアリーシャにとって、自らを雷に変換する《原型》は、自己の同一性を著しく損なわせる欠陥魔法だ。長時間の行使はそれだけ自我を崩壊させる危険を高めるから、彼女の攻撃を避け続けた先に勝機が見える。

 苛立つように片手で頭を抑えたアリーシャが、ラファランに照準を向けた指を振り下ろす。直後、頭上に十を超える光が生まれた。思考の間もなく二キロ以上もの距離を魔法転移で移動した直後、視界全体に先と同様の光の雨が地上に降り注いだ。砂場に水を落としたように、第七天国の街に底のない穴が穿たれる。

 光の正体が一撃で高層ビルを落とす光速度にまで超加速された荷電粒子によるレーザーだと理解したときには、新たな光がアリーシャの前方に無数に瞬いていた。

 更に転移。地平線の彼方まで走るレーザーを横目に、解けかけていた時間制御の速度を十倍まで加速させる。光速度で飛来するレーザー相手には無意味な加速ではあるが、ラファランにとって時間制御による世界と切り離した時間軸の操作は生命線だ。

 ふいに、ラファランの前方に直視できない程の眩い光が生まれる。背筋に悪寒。即座に転移するも、光のあまりの巨大さに殺傷圏から逃れられない。問答無用で二度、三度と転移し、光がバスケットボールほどの大きさに見える距離まで離れたとき、空中に太陽が生まれた。視界に入れれば目を焼き殺す荘厳な白が、空を、街を一瞬にして飲み込んでゆく。

 太陽が消えた時、地上には赤白く発光する巨大なクレーター出来上がっていた。太陽に匹敵する熱量が一気に解放されたせいで、あらゆるものが蒸発、もしくは液化していた。陽炎に揺らめく地上はもはや人間が生存できる環境ではない。戦線が反対側ではなかったら、下手をすれば先の一撃で全滅していたかもしれなかった。

 アリーシャが使った魔法は核融合爆発だ。第九階梯に到達した魔法使いは、恒常性に阻害されなければこれほどの魔法を手軽に扱える。最大出力で放てば或いは第七天国をまるごと蒸発できるかもしれない。これが現実世界で可能になれば、一人で一国すら落とせるのではないかと本気で思いそうになる。

 底冷えするような恐怖を押し殺して、ラファランは一定の広さを持った建物の屋上に転移する。大規模殲滅魔法で決着がつけられなかった以上、慣れ親しんでいるであろう接近戦に持ち込んでくるのは見えていた。これがラファランの唯一の勝機だ。

 視界の端では、戦線が《第七監獄》に達しようとしていた。

 ラファランの前方、轟音と共に天から光が落ちる。あまりの破壊力に階下の一部がなくなっていた。積み重なる瓦礫の向こうに、雷の化身となった修道女が悠然と立っている。

 アリーシャが一度の跳躍で屋上まで登る。精霊魔法における生体結合魔法により底上げされた身体能力は、人間の範疇に留まらない。

 虚空から二本の聖釘が現れた。両手に掴んだアリーシャが、言葉など無意味だとばかりに無言のまま打ちかかってきた。その速さ足るや姿が霞むほどで、武術に精通したオーバンにも匹敵する。瞬きひとつの間で距離を詰められ、二本釘が十字に振り抜かれる。

 既に十倍まで加速した時間軸を形成していたラファランは、腰から抜いた小太刀でそれを受ける。叩き割られるほどの衝撃で腕を持っていかれそうになるも、必死の形相で受け止める。匂い立つほど近くにあるアリーシャの瞳が、希望など宿していないかのように濁った群青色をしていた。これが救うべき人なのだと己を叱咤して、小太刀を握る手に力を込める。

 白刃を外側へずらして攻撃を流す。僅かに体勢をずらしたアリーシャの腹部に前蹴りを叩き込む。アリーシャが衝撃を吸収するように後ろに跳ぶ。これが好機だと、地面から足を離している修道女に銃口を向ける。

 覚悟はとうにできていた。

 風を切る音が聞こえた。電磁加速されていない聖釘がラファランの耳を掠めたのだ。《時間制御》を二倍速まで減速し、アリーシャに向けて引き金を二度絞る。投擲したままの体勢の彼女には反応できない唯一の勝機だった。鈍い音がして、アリーシャの両足に穴が空く。宙に血色の花弁が咲き乱れる中、ラファランは銃を捨てて走る。

 勢いのままアリーシャの両肩を掴んで押し倒した。桃色の唇に自らのそれを重ね合わせる。アリーシャの目が驚きに見開かれる。やがて、ラファランの暴挙を受け入れるように舌を絡ませてきた。

 ひと時の官能的な快楽を味わったあと、顔を離した。アリーシャの瞳が名残惜しそうにラファランを見つめる。暴力的な強さで本能がアリーシャを滅茶苦茶にしろと叫ぶが、情事に身を任せる時間もなかった。

「最後に良い思い出ができました」

 理想の夢の中にでもいるようにアリーシャの表情は穏やかだ。

 あの絶望の顔をしたときから両足を撃ち抜かれるその瞬間まで、ラファランはアリーシャの手のひらで泳がされていた。アリーシャは彼に自分を殺す理由を与えたかったのだ。だから緻密に囲うべきところを単純な火力による力押し押しとどめ、雑な戦い方で付け入る隙を与えていた。ラファランも気づいていたから戦場の状況把握に勤め、チェックをかけられた盤上をひっくり返す方法を探り出した。先の戦いは単なる殺し合いではなく、どちらの意見を通すのかというただの喧嘩だった。

「さあ、答えを聞かせて下さい」

 アリーシャは、彼女の言葉を借りるなら訪れを受け取ろうとしている。すべての選択権を彼に委ねることで、彼女なりの生き方を表面上は貫こうとしている。だが、それは彼女が見出し選択した結果であることに気づいていない。

 ラファランは彼女の期待を裏切るために、唯一の救いを与える。

「アリーシャ、この世界で死んでくれ」

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