第一章/異端の魔法使い 2
約束からきっかり一時間後、ラファランは旧市街のトラム駅で夏狩と待ち合わせをした。久しぶりに会うからどんな顔をすれば良いのかと、少しそわそわしていると、アジア人らしい彫の薄い顔立ちをした女性がトラム駅から出てきた。長い黒髪を後ろで結った夏狩が、ラファランの姿を見つけて手を振った。
「ラファラン、久しぶり。会いたかったよ」
微笑を浮かべて夏狩が駆け寄ってくる。
「すみません、急に呼んじゃって」
「いいの。顔が見られただけでも私は嬉しいから」
聞いている方が蕩けてしまいそうな声で言う彼女は、ラファランにとっての母親代わりであり、
同じく父親代わりの同僚であり師であるオーバンの妻だった。だから、心が荒むといつも彼女に会いたくなってしまうのだ。
ラファランは夏狩を連れ立ってストラスブールの街で買い物をした。買ったのは一週間分の食材で、誰かと買うような特別なものでもなかった。だが、夏狩は嫌そうな顔ひとつせずに買い物に付き合ってくれた。
「ここは日本と比べてどうですか?」と街路を歩きながらラファラン。
「そうね」
夏狩がストラスブールの街並みをゆっくりと見渡す。
過去に幾度かドイツ領となったこの街は、現フランス領にありながらもドイツの面影を色濃く残している。白やパステルカラーに塗装される木骨の家はその最もたるものだ。
「とてもいい街だと思う。人の営みがそこかしこで息づいていて、フランスとドイツの文化が混じる空気は古臭いけどとても神秘的。現代を生きているのに歴史の一頁を生きているような感じね」
買い物袋を揺らす夏狩の手はどこか楽し気だ。ラファランの三歩前を歩く夏狩が、軽くステップでも踏むようにして振り向く。頬を緩めた柔らかい表情に宿る夜色の瞳が、故郷を回想するように虚空を眺めていた。
「大人なってからは上京してずっと東京で暮らしてた。あの街は、なんていうか」
言葉を切った夏狩が小さく笑う。
「人工的だった。どこまでも文化の見えない銀色の景色。うねるような人集りに、生気のない目をした人々。生きる楽しさや喜び、そんな前向きな気持ちが少しも感じ取れない場所。世界二位の経済大国になり生活が豊かになって技術も進歩した。小さい頃には想像もしなかった機械が生活に溶け込んで便利にもなった。だけど、その分人から暖かさがなくなった。機械に触れ過ぎたせいで体温を奪われたのかもしれないね」
かつての故郷を見ていた夏狩の瞳が、いつの間にか、いまを生きるラファランを慈しむように見つめている。
「ラファランには、この街がどう見える?」
すぐには返事を返さず暫しの間黙考する。
ラファランはいつもふたつの世界を同時に見ている。ひとつは夏狩と同じ現実の景色。
もうひとつは、視界に存在するものすべてが幾重にも揺れる不確かな世界。そこはピントのズレたレンズを覗いたように存在の位置が定まらず、ある存在が突如消失したかと思うと別の場所にずっと前から存在していたように姿を表す。現実感の欠片もない万華鏡のような世界は過去、現在、未来に関係無くすべての出来事をラファランの瞳に映し続ける。それは、魔法使いが見ている世界であり、因果魔導師が知覚する因果世界だ。
どこかひとつに焦点を絞らないと気が狂いそうだったから、まどろむようにふたつの世界を共有した視覚の中で、ラファランは夏狩の姿だけを瞳に焼き付ける。
「そんなに見つめられると年甲斐もなく照れちゃうから少し遠慮して欲しいな」
彼女はじっと見つめられるのが恥ずかしそうに、頬を朱に染めた顔を小さな手のひらで隠している。
「俺にとってこの街は」
夏狩から視線を外す。彼女の隣に並び、少し重そうにしている指から買い物袋を取り上げる。風に漂う黒髪からいい香りがした。出かかった言葉を呑み下す。
「オーバンと夏狩さんがいる限り、いいところですよ」
小さな嘘をつく彼へと、夏狩がくすりと笑った。
「そう言って貰えると私も嬉しい。だけど、理由を他人預けたままだと、いつかその人がいなくなった時に立てなくなるよ。私はね、君にそんな風になって欲しくない。遠慮しないで甘えていいから、自分に対してもっと優しくなってね」
「自分に?」
親が子に諭すように夏狩が頷く。
「君がどう思ってくれているか分からないけど、これでも私は君のお母さんのつもり。お母さんは子どものことはよく知ってるものなのよ」
なんと答えていいのか分からず、ラファランは買い物袋を持つ手を握り締める。
「ラファランを嫌いにならないであげて。君が君自身を好きにならないと、いくら私が君を愛しても君の本当の心には届かない。自分を愛せないと、理由を自分に添えることもできなくなる」
幼い頃、ラファランは本当の両親に捨てられた。その理由は間違いなく自分にあったから、元凶となった魔法を憎み、同時に自分をも嫌いになった。魔法使いの世界に生きるようになってからもそれは変わらず在り続け、時が経つにつれより強固になった。だから優しい言葉ばかりを伝えてくれる夏狩の言いたいことがラファランには理解できない。
「最初は格好だけでいいから、少しずつ私に甘えて」
「甘えるって、そんな歳じゃありませんよ」
微妙な年頃のラファランへ、夏狩は微笑んだまま答える。
「甘えることに歳は関係ないよ。でも、私に甘えられないのならだれか別の人でもいいの。例えば恋人とか」
「そんなのいませんよ」
「なら、まずは恋をしたらどう?」
夏狩の軽い提案にラファランはうろたえる。
ラファランは今年で十七だ。世間一般の常識に照らせば恋のひとつやふたつは経験していておかしくない年代のはずだった。だがそれは魔法使いの常識ではない。魔法使いの中でも更に特殊な集団に身を置く彼にとっては聞き慣れない言葉なのだ。
さりとて、恋がどういうものかは理解してはいた。数少ない魔法使いの友人に勧められて読んだティーン向けの雑誌にそういった類のものが少なからず掲載されていたし、恋を題材にした小説や映像作品も多くはないが観賞したこともある。だからといって、ラファランにとって馴染み深いというわけではない。夏狩のことは好きだが、この感情が恋ではなく母親に向けるそれに近いということが分かる程度だ。
たぶん、恋に対する知識は、本当の両親に捨てられた七歳のときから少しも成長していない。オーバンはそんな俗世のことを教えてはくれなかった。
「どうって、そんな簡単にできるものなんですか?」
一瞬呆然としたように夏狩が目を丸くし「普段は歳不相応に大人なのに、変なところでまだ子どもなんだから」とため息した。
やはり変なことを言ってしまったのかと、ラファランは自分の無知を後悔した。
魔法使いと一般人のこうしたすれ違いは恋だけではない。知覚する世界の違いはそのまま価値観や常識といった人が持つ基盤が変わることを意味する。魔法使いが魔法使いだけで集団を形成したのは、ひとりでは生きていけないだけでなく、この価値観の違いを気持ち悪いと感じるからだ。だからいまも昔も、魔法使いは生活の中で一般人と関わりを極力持たようにしている。
一般人にとって魔法使いはただの人だが、魔法使いにとっての一般人は理解できない宇宙人のようなものだ。生きる世界が違うから、どちらか一方が歩み寄らない限りこの空白を埋めることができない。
ラファランは、魔法使いの大多数が占める魔法使いから生まれた魔法使いではない。出生の異なる彼には魔法使いの常識は完全に根付いているとはいえないが、十年もの時を魔法使いの常識の中で生活していたから一般常識も希薄だ。
夏狩との会話は未知の領域へ連れて行ってくれる楽しい旅行であると同時に、魔法使いと一般人の乖離を思い知らされる苦行を歩いている気分になることがある。だが、魔法使いと一般人の狭間に立ちながら人の幸福を願う彼がこれを気持ち悪いと感じたとき、たぶんラファランはラファランとしての人格を失う。
「ラファラン」
逡巡するラファランに柔らかい声が投げ掛けられる。はっとして、落ちていた視線を前へ向けると、気遣うような色をした彼女が見上げていた。
「難しい話じゃないよ」
両手を背で組んだ夏狩がラファランを向いたまま後ろ向きで歩き出す。
「心に響くような人がいたら、それはもう恋なんだから。意識して生活すれば、きっとすぐにでも恋できるよ」
簡単には思えなかったから、夏狩の言葉が苦いものに感じた。混沌とした心を無理やり飲み下して「そんなものですかね」と軽い口調で答える。夏狩との会話でつまらない感情を掘り起こすのは失礼だと思ったからだ。
「そんなものだよ。複雑に見えるかもしれないけれど、恋の出発点はいつだって単純なんだから」
私もそうだったから、と夏狩が懐かしむように目を細める。
一般人である夏狩の前では魔法使いの常識は通用しない。だから、世界の常識から取り残されたラファランにとって彼女との時間は、例えどれだけ悩まされようと一般常識に触れられる貴重なものだ。オーバンが魔法の師であるなら夏狩は現実の師だから、素直に彼女の意見を参考にしようと思った。
「少し意識してみます」
「うん、その調子」
そのとき、ラファランは視界の端で黒い姿をした集団を見つけた。彼らが身に纏った衣装は、尼僧のものだった。夏狩のような一般人とは隔絶した危険な“魔法使い”あることに気づいたとき、酷く嫌な予感がした。
世界は観測の方法によってその姿を変える。物理法則による知見ではなく、斜めからサイコロを眺めるように観測することで、世界を構築する法則が無数にあることが分かる。魔法とは、通常とは異なる方法で世界を観測し、記述することで起こる現象のことだ。
ラファランは、“因果関係に世界は存在する”という観点で世界を視る因果体系の魔法使いだった。彼は、二十四の魔法体系を束ねる魔法使いの組織《連合》に在籍している。その中にあって、《連合》の不利益になる魔法使いを裁く《カドシュの法院》と呼ばれる部署に彼は所属していた。だから彼の仕事はいつも暴力が耐えない血生臭いものが多い。
「夏狩さん、すみません。仕事が入りました」
ラファランの仕事を知っている夏狩の行動は早かった。彼の両手から買い物袋を掴み取ると同時に反対方向に足早に歩き出した。すれ違いざまに「お願いだから、怪我だけはしないでね」と悲しげに笑った。
ラファランは周囲の景色に溶け込むように気配を限りなく消す。まだ正午にもなっていない街路は多くの住人が行き交っている。目立つローブを着てこなかったことに心底安心した。あれは《カドシュの法院》の正装であると同時に優秀な防具でもあるが、尼僧姿の集団からはすぐに正体がばれてしまう。
彼らの警戒網に掛からない絶妙な位置を取りながら、ラファランはゆっくりと後を追う。携帯電話を取り出し目的の人物に掛ける。電話はすぐに繋がった。
「俺だ」とオーバンの野太い声。
「オーバン、休んでるとこ悪いけど仕事だ。相手は異端審問機関。数は見えてるだけで三人。場所はバトリエ通りを南西に向かってる」
「すぐに向かおう」
《カドシュの法院》は本来三~四人で一組となって動くことが多い。敵対勢力の魔法使いが三人もいる状況下で一人飛び込むのはあまりにも無謀だ。だから、仲間であるオーバンが来るまで見失わぬよう追跡をすればよかった。
電話を切って、すぐに別の人物へ掛ける。留守番電話に繋がった時点で諦めて切り、上着の内ポケットに手を入れる。手の中で拳銃の確かな感触を確かめてから安全装置を外した。
尼僧集団は観光でもするように街並みを見渡しながらのんびりと歩いている。すれ違う住民ひとりひとりに挨拶をする姿は、敬虔な信徒そのものだった。だが、ラファランは知っていた。彼らは“魔法使いは神の敵である”という思想を持つ、魔法使いによる魔法使い狩りの集団だ。
尼僧集団が橋を渡り旧市街へと入っていく。増えてきた人影に隠れて追っていると、胃の底が酸で溶かされる痛みを覚えた。気づけば、まだ肌寒い季節なのに冷や汗で背中がびしょびしょだった。
彼が追っている異端審問機関は、昨今増加傾向にある魔法使い犯罪者とは格がふたつは違う。彼に今朝方まで報告書を書かさせる原因を作った犯罪者たちは、結局のところ《連合》という組織構造が生み出した魔法弱者だ。それはそのまま魔法技量の稚拙さへと繋がる。数が増えてはいるが決定的な命の危機にはならない。
だが、異端審問機関は違った。彼らはまさしく魔法使いを狩るために最適化された魔法使いだ。更に、“魔法使いの中でも特別な存在に格上げされている”から、いま見つかれば確実に殺される。
息が細る緊張感に歯噛みする。彼らの一挙手一投足に神経がすり減らされてゆく思いだった。談笑する彼らの一人が、僅かに視線を背後へ投げる。
息を呑む。恐怖で頭がどうにかなりそうだった。
尼僧集団が大通りの角を曲がった。十分な時間をとって後に続く。
途端、世界が色を変えた。薄い水色が街を球状に覆い尽くしたと思ったら、中にいた人々の動きが止まる。表情を消した人々が皆一様に同じ動きで球状に広がる青の領域から出て行く。街路にいた者達だけではない、建物の中にいたものも矢継ぎ早に姿を現したかと思うと、全員が全員足早に離れていく。人形劇でも演じているのかと訝しむほど統率の取れた動きだった。
これは“神によって世界は作られた”という観点で世界を見る秘跡魔法の観念結界だ。彼らは領域内にいる人々が持つ「神への畏れ」を増長させ、「この場から逃れたい」と思わせこれを行動化させる。だから観念結界内にいた人々は逃げるようにこの場を離れ、外にいる者は神への畏れから中を観測することはない。秘跡魔導師が使う人払いの常套手段だ。
ラファランは拳銃を抜いて躊躇なく引き金を引く。三度の銃声と空薬莢の空虚な音が街路に響く。九ミリパラベラム弾は、尼僧姿三人の身体に命中するはずだった。
「やれやれ、いつでも君らは野蛮だね。挨拶のひとつもさせてくれぬとは。此度我々は少なくとも戦闘行為をするために足を運んだわけではないというのに」
一歩足を踏み出した壮年の尼僧の男が、胸の前に不自然に静止した銃弾を摘みながら呆れたように言った。秘跡魔法には、“現実空間を歪曲することで神が存在する空間を無理やり引き出す”歪曲体系という魔法が存在する。彼はこの魔法で銃弾を指ひとつ触れずに受け止めたのだ。秘跡魔導師が誇る防御魔法《聖域》は、その手軽さに反比例する防御力の高さが特徴だ。
「我々の目的は君のような下っ端ではなく《二十四法院》なのだが。はて、時間の浪費を考えると君が適任やもしれんな。いや、それとも我らに対する非礼を罰することが肝要か」
どうしたものか、と男が胸に輝く金の十字架を握り天を仰ぐ。背後に並び立つ二人の男女は、男の指示をじっと待ちながらもラファランをにらみつけていた。
銃口を尼僧の男に向けたまま動くことができない。動けばすぐにでも殺されると、実戦に身置いて五年という裏打ちされた経験が理不尽な判断を弾き出す。ラファランは元々魔法による近距離戦闘は苦手なのだ。彼らを尾行していることがばれ、観念結界内部に侵入した途端に負けは確定していた。
しん、と静まり返った街路に、遠くからエンジンの駆動音がかすかに届く。震える指先に力を込めて、拳銃を抱きしめるように握り直した。
「一体こんな遠方まで何しに来たんだ? 異端審問機関が国を超えて散歩をする趣味があるなんて聞いたことないんだけど」
壮年の信徒が微笑する。
「我々はお告げに来たのだよ。有体に言うのならば、信書を渡しに来たということだ。残念なことに、我々には君らとの交渉窓口がないものでね。こうしてわざわざ足を運んだ次第だ」
「ならそいつを渡してさっさと消えてくれないか? あまり長く観念結界を張られたままだと経済活動に支障をきたすんだよ」
男の眉間に深い皺が刻まれる。
「君の物言いは身震いするほど度し難いが、確かに言い分には一理ある。我々も人間社会の経済活動に不利益を齎そうなどとは考えてはいない。だがね、君のような者に《二十四法院》との繋がりがあるとは到底思えなくてね。信書が目的の者に渡らねば、我々としてもただ無為に時間を浪費したことになってしまうのだよ」男が一旦言葉を区切る。「まあ、観光にはなったがね」
ラファランは多少の驚きを覚えながらも、とりあえず愛想笑いを返しておく。秘跡魔導師が冗談を言う姿など想像がつかなかった。
バイクのエンジン音が大きくなってゆく。
「こう見えても《二十四法院》とは連絡が取れる。交渉の窓口としては悪くはないと思うぞ?」
「証明できるものはあるかね?」と壮年の男。
「いらないだろ」銃口を上げてラファランは笑ってみせる。「もう確認する必要もなくなる」
そのとき、控えていた女が、背後から近づいてくる異音に気づいて振り向いた。
「フォーゼ司教!」と女が叫んだ。
フォーゼと呼ばれた壮年の男が、バイクに跨った大男が街路を疾走する姿を捉えたときには遅かった。三人とすれ違う瞬間に、大男が銀色の何かを横薙ぎに一閃させた。二人の男女が物言わぬまま、間欠泉のように血潮を吹き上げながらその場に仰向けになって倒れる。街路上に粘ついた赤が広がった。ラファランの同僚たる大男のオーバンが、ただの一撃で《聖域》と共に二人の身体をただの刀で斬り裂いたのだ。
「謀ったか小僧!」
仲間の血を被ったフォーゼの顔に壮絶な憤怒が宿る。ラファランの隣にバイクを停めたオーバンが、裂ぱくの気合と共に銀を一閃。本来七十センチ程度の長さしか持たない刀が、その刀身を伸ばした。錬金魔法による金属操作により刀を液化させて操作したのだ。生きた大蛇となった魔法の刀が、宙を泳いで背後からフォーゼに襲い掛かる。やはりと言うべきか、大蛇の牙が秘跡魔法が誇る《聖域》に完璧に阻まれた。だが、フォーゼが纏う青色の正面側だけ薄くなっていた。彼の注意が完全に背後へ注がれている証拠だ。
これを待っていたのだ。
ラファランが扱う因果魔法は、文字通り物事の因果関係を操る。彼ら因果魔導師にとって、因果を構成する要素である時間軸は手軽に操れるもののひとつだ。
ラファランは因果魔法により独自の時間軸を形成し、現実世界に流れる時間軸の系から切り離した。独自の時間軸が流れる速度を二倍に設定すると、彼の動きが相対速度で二倍まで引き上げられる。
視界に映るすべての事象が、スローモーション再生でもしているようにゆっくりになる。フォーゼがその碧眼に明確な殺意を宿し、腕が振ろうとする。その寸前、ラファランは引き金を引いた。都合三発の弾丸が、銃口から射出されると同時に作られた時間と現実時間の境界に接触。二倍速度に設定された時間の流れに引きずられる形で、現実世界の中を二倍の速度で疾走する。異常加速された弾丸が、フォーゼが展開する防御魔法《聖域》に着弾。実に四倍にも到達する運動エネルギーを宿した弾丸が、通常ならば凌ぎ得るほどの防御力を誇った《聖域》を貫徹する。
拳銃に撃たれたとは思えぬほどの大穴を腹部に空けたフォーゼが、目を見開き天を仰いだまま膝から崩れ落ちる。
「神よ。私は――あなたを、お守りできたのでしょう――か」
今わの際に説いた神への問いに、返るべき言葉はここにはない。それでも満足したように頷いたフォーゼの身体が、音も立てずに地面に落ちる。やがて、彼を包む《聖域》が彼を死後の世界へ誘うように姿を消した。
世界が戻る。街中に突如として生まれた戦場は去り、再び喧騒が戻ってくる。そして悲鳴。警察、救急車を呼べと口々に言う人々。化物でも見るような視線を次々に投げられる。
隣を見る。掛けつけて来た警察にオーバンが身分を明かしている。
今度は前に目をやる。街路に横たわる三体の黒い塊が目に留まった。敵を倒した高揚感はなかった。今日は三人殺したと、感慨にも属さない感想しか生まれなかった。いつから殺した人間を数えるだけになったのだろうかと、ラファランは疲れきった頭で考える。
◇◆◇
鏡に映った水銀色の髪に櫛を通す。清水が流れ落ちるように艶やかな髪に指先で触れ、ほっとため息をついて櫛を置く。
どこかに旅立つとき、アリーシャは必ず髪を整えることにしていた。己の写し身でもある異質な色をしたこの髪が、昔の彼女は大嫌いだった。好きになったのはいつのことだっただろうかと記憶を辿り、つい最近のことだったと思い出す。何の前触れもなく唐突に、自分を否定したときに生まれたものだった。
化粧台の前から離れて簡素な木造りのベッドに横になる。ベッドの脇にある袖机から、一枚のカードを手に取った。
もしかしたら死ぬかもしれない。海の底をすくったような群青の瞳をまぶたに仕舞い、アリーシャはただ一人死地へと向かう。