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第三章/壊れゆく人形 5

 どれだけ状況が切羽詰まったものであっても、転がるときは思いも寄らぬ速度で転がるものだ。

 目下の敵であったリカルドを排除した今、ラファランはシャーロットに命じられるまま《第七天国》にいた。彼女から指定された付近を魔法転移しつつ、建物の屋上を移動しながら周囲に目をやる。いくら探しても修道服姿の魔法使いなど見つからない。

 そもそも敵地のど真ん中で分かりやすい服装などするものだろうかと考えるが、すぐに考え直す。異端審問機関の者は、自らを偽ることはしない。神に忠実であるがゆえ、神への信仰の目印としての修道服を脱ぐことなどあり得ないのだ。

 しかし、その固定概念も考え直した方が良いのかもしれない。ラファランは刃を交えた修道女を思い出す。彼女は異端審問機関の常識から外れていた。あろうことか自傷行為に及び、憎むべき敵を引かせようとしたのだ。

 前線に身を置いて五年の経験の中で、ラファランは幾度も彼らと対峙したが、このような経験は初めてだった。

 ふと、眼下を見下ろしたときに、女性が走っている姿を見つけた。ラファランは目を剥く。

 システィーナだった。彼女は何かを探しているのか、黒髪を振り乱しながら周りに首を向けていた。

 声を掛けたかったが、ラファランはじっと我慢した。いまは仕事中なのだ。彼女の姿が遠ざかる。胸の疼きを堪えて視線を外し、仕事に戻る。

 気が付けば夕方になっていた。支部長に報告を行っていたシャーロットの妖精が飛んでくる。

「今日はもういいわ。時計台にでも行って好きに遊んでなさい」

 シャーロットが早口に言う。ラファランは彼女の馬鹿にするような物言いに怒るより先に違和感を持った。

「いいのか? まだ侵入者の姿形すら見つけてないぞ」

「いいのよ」

 シャーロットの声には苛立ちがあった。

「機嫌悪いな、何かあったのか?」

「いえ、別に」妖精がくるりと宙を回って背を向ける。「――に目覚めた女はよく分からないわ」

 羽音で聞き取れずラファランが問い直す。

「はあ? なんて言った?」

「気にしないでちょうだい。ただの独り言よ」それよりも、と彼女が付け加える。「好きにしろとは言ったけど、しばらくは《第七天国》にいなさい。手が必要になればこちらから連絡するわ」

「無茶苦茶だな」

「あら、その割に嬉しそうね。何か良いものでも見つけたのかしら?」

 途中で見かけたシスティーナの姿を思い出す。シャーロットに考えを見透かされているようで、なんとも決まりが悪かった。

「なんでもいいけど、あまり私の仕事を増やさないことね」

 疲れたようにシャーロットが呟いて、妖精が飛び立つ。夕日に消える妖精を見送ったあと、ラファランはすぐさま魔法転移で時計台の最上部へ向かう。理由もなく、彼女がいるような気がしたのだ。

 紅に染まる最上部に降り立つと、人影が床にうずくまっている姿が目に入った。目を凝らすとそれは、黒髪の女性だった。

「システィーナ?」

 ラファランが声をかけると、人影が顔を上げた。

「……違います。私はシスティーナではありません」

 彼女はシスティーナの声のまま首を振って答えた。彼女の顔が、沈む夕日の影に隠れてよく見えない。

「その名は、礼拝堂の名を使った偽名です」

「偽名? いきなり何を言っているんだよ」

「私の本当の名は――」

 彼女がゆっくりと立ち上がる。

「アリーシャです。アリーシャ・フィオレンツァ・コペルティーニです」

 アリーシャだと名乗る彼女が、靴底を鳴らしながら歩いてくる。手を伸ばせば届く距離で立ち止まり、群青の瞳で彼を見返す。

「だからラファラン。私をその名で呼んでください。私の本当の名を言ってください。私は、アリーシャは、ここにいるのですから」

 彼女の声に切実を感じ、ラファランは願われるまま呼び慣れない彼女の名を口にする。

「アリーシャ」

 システィーナ、いや、アリーシャが感極まったように群青を潤ませ、しかし涙は流さずに彼を見上げる。

「私はここにいます。ここにいますから」

 彼女が身体を寄せる。胴に手を回した彼女の手が彼を力強く抱きしめる。

「愛しています。私にとってはあなたがすべてなのです」

 叩きつけるようにアリーシャが言う。

「あなたが、私に価値を与えてくれました」

 一体どうしたというのか、彼女の口から決壊したダムさながら言葉が溢れ出てくる。

「私にとって、あなたは存在意義なのです」

 アリーシャが見上げる。群青で捉えていないと無くしてしまうと信じて疑わない、そんな瞳で彼女が彼を見つめる。

「あなたになら、私は殺されても構わない」

 ラファランは息をつまらせる。彼女が何を考えているのか分からなかった。

「なあ、どうしたんだよ。何を言っているんだ?」

「あなたは、何も知らないのですね」

 アリーシャが笑う。壊れた人形のような表情だった。

「すみません、今日はこんなことを言うつもりはなかったのですが……少し、疲れたのかもしれません」

 彼女の表情が崩れる。

「できれば、あなたとこうして現実で会いたかった」

「会えるだろ。パリとストラスブールなんてそう距離があるわけじゃない」

 アリーシャがラファランの胸に顔を埋めた。

「遠いんですよ。近くて、本当に遠い」

 さめざめとアリーシャが語る。

「ここは、確かに第七天国でした。あなたと出会える、私にとっては唯一の幸せな世界」

 《第七天国》は魔法使いにとっての理想郷だ。世界から魔法を剥奪されず自由に使える、この世唯一の楽園だった。だが、ここは夢の上にたゆたう砂上の楼閣だ。だから、ここにしか救いを見出せないアリーシャがあまりにも不憫でならない。

 抱きしめられながら、ラファランは拳を握った。

「いまの仕事がひと段落したら、無理やりにでもパリに行く。そしたら会おう。夢の中じゃなく、現実で」

 疑問はあった。彼女がなぜ偽名を使ったのか。何に恐れ慄き傷ついているのか。すべてを聞き出して解決できればと願った。それでも、この世界が唯一だと言うアリーシャと現実で出会うことが、一番の最善だとラファランは思った。

 しかし、彼女は否定する。叶わぬ夢なのだと首を横に振るのだ。

「初めから、それは無理なんですよ」

「どうして?」

 だだをこねる幼子のようにラファランが聞く。

「いまはまだ、お答えできません。でもいずれ、いえ、明日になればきっと、あなたは知ることになるでしょう。そうならない事だけを私は祈っています」

 彼女は肝心な事を何も語ろうとしない。語る事で大事な何かが壊れるのだと信じて疑わない頑なさだ。

 氷るアリーシャをどう溶かせば良いのか、経験の少ないラファランには方法すら浮かばない。


 ◇◆◇


「戻ったか。仕事を再開しろ。明日までにでき得る限りの入界証を集めるのだ」

 《第七天国》から戻ったアリーシャを待っていたのは、秘蹟魔法の魔法転移によって現れた初老の神父だった。明日の全容を知る数少ない神父が、アリーシャに命令する。

「彼らが約束を果たすとは限らん。こちらから向こうの意図しない監視を確立するにはこの手法しかない」

「ええ、それが私に求められた役割であるのなら」

 感情なくアリーシャが答える。神父は気にする風でもなく彼女を見下ろした。

「派手に行う必要はない。気取られればそれで終いだ。既にリカルドの件で苦言を呈されている状態なのでな」

 アリーシャは、既に《連合》にバレていることを告げていなかった。修道服を着てはいなかったから、異端審問機関による犯行であると直接は結び付けないだろうが、それも時間の問題だ。

 アリーシャはストラスブールに来てから常に得体の知れない視線を感じていた。元型魔法による監視を受けているのだろう。

 どうでもよかった。だから昨日、ローマから戻ると同時に犯行に及んだのだ。

「必要であればいくらでも手を汚しましょう」

「不敬だぞシスター。我々の行動はすべて神へ捧げるためだ。汚すのではない、清めるのだ」

 声を荒げる神父に対し、アリーシャは内心で冷笑を返す。

「さようですか。それはそれは、失礼しました。私のような物には、違いなど分かり兼ねますので」

 神父が息をつくと、表情を和らげた。

「シスター・アリーシャ。私は君の価値を買っているつもりだ。確かに君の魔法と出生は我々からすれば認め難いものではあるが、我々と同じ神を信仰することでその壁は取り払われると信じている。これは君らにしかできないことなのだ」

 聞こえの良い言葉を紡いでいても、神父の本心が透けていた。

 彼らは、都合の良い生贄が欲しいだけなのだ。それを悟らせぬよう、欺瞞で塗り固めた言葉をいまになって語ったのだ。異端審問機関は、それほどまで経済的政治的に追い込まれている。

 異端審問機関の生活も、《連合》と同じく国家との繋がりによって保証されていた。しかし、そのやり口のあまりの過激さから関係の解消を暗に求められているのだ。いまの時代、宗教国家が異端者を排除しているなどという噂が立つのは不利益しかない。彼らの思想は前時代過ぎていまの世にそぐわないのだ。こんな当たり前のことを彼らは理解すらしていない。

「はい、神父様。ご期待に添えるよう誠意努力致します」

 秘蹟体系など、異端審問機関など、滅んでしまえばいい。

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