第三章/壊れゆく人形 1
ストラスブールの朝に、世に見えぬ翡翠の妖精が羽ばたく。歴史ある街を幻想の光が舞うその姿は感動できるものがあったが、正体を知るラファランにとっては愉快になれない魔性の光だ。
朝日を浴びるようにゆっくりと飛翔し、やがて部屋の窓を妖精が叩く。
面倒だと思いながらも窓を開き妖精を迎え入れる。
「朝からなんだ? 連日お前と話すのは心底疲れるんだが」
「報告を聞こうと思ってね」
「昨日報告したはずだろ」
「ええ、だから」たっぷりと含みを持たせた口調でシャーロットが言う。「昨日の逢瀬のことよ」
ラファランは、臓腑を抉るような痛い驚きがあった。一番知られたくない女に知られてしまったのだ。
「なぜ知ってる」
「元型体系の情報収集能力を舐めないことね」
妖精がにやにやしながら、彼を見下す。
“諸存在が持つ精神は世界を創る”という観点から世界を視る元型魔法は、“モノ”に精神を吹き込むことで擬似生命体を作りだすことができる。これは五感を元型魔導師と同調させているから、索敵や諜報といった方面に非常に秀でた魔法体系なのだ。
「それで、あそこには行った? 管理区画に」
「答える義務があるのか?」
「いいえ、それだけ聞ければ十分よ」シャーロットが満足したように頷き、続ける。「それから、昨日ストラスブールでひとり、《殿堂の法院》所属の高位魔法使いが殺された」
「昨日逃がした異端審問機関か?」ラファランはからい汗を滲ませる。
「いえ、さっき遺体を検分してきたけれど、損傷具合からみても一般的な秘跡魔法じゃなさそうね。波動魔法か対極魔法、それとも精霊魔法か、どちらにせよ高位魔導師の仕業ね」シャーロットが楽しそうに笑う。「この街も随分愉快になってきたわね。異端審問機関の来訪に謎の犯罪魔導師。この先苦労しそうね、ラファラン」
「笑いごとじゃないだろ。一度に多くのことが起こりすぎだ」
朝から頭の割れるような話に辟易とする。
最高位魔導師セシリアが統括するアルザス地域は、いままで大きな事案が起こったことは殆どない。いわば戦略的価値の高くないアルザスには、《連合》が保有する最大の戦闘部隊である《カドシュの法院》の配置数が極端に少ないのだ。それこそ、ラファランにオーバン、シャーロットの三人しかいないほどだった。
「人手が足りない。未だ潜伏している恐れのある第八階梯級の秘跡魔導師に高位魔導師殺し、流石に三人じゃ手が回らないぞ。どうするんだ?」
「駒ならあるじゃない。ここでも《メイザース》は五十人規模でいるのだから、適当に散らしておけば少しは役に立つんじゃない? 面倒なのは異端審問機関なのだから、見つけ次第物量で挑めば奇跡の欠片くらいは引き寄せられるかもしれないわ」
シャーロットの軽い物言いは、眠気の吹き飛んだラファランの頭を沸騰させる。
「相手の実力を考えろ。魔導師殺しはよくても対異端審問機関は無理だ。無駄に死人を増やすようなものだぞ」
「優先順位を考えなさい。いま我々にとって守るべきものはなに? まさか、《メイザース》とでものたまうのではないでしょうね。正解は《第七天国》よ」
「おい、待て。言っている意味が分からない。それは侵入者の話か? でもあれは入界証がなければ入れないはずだから、これ以上異端審問機関が侵入してくるはずが……」
「愚かね」シャーロットが呆れた声を出す。「《内部監査室》に居た頃から感じてはいたけれど、人生は波乱の連続よ。大変なときほど大きな障害がいくつも立ちはだかる。でもラファラン、視点を変えればそれは、いつだって何かと繋がっているものなのよ? 私たち魔法使いが、ひとつの世界から二十四の世界を知覚するようにね」
これは彼女の普段通りの軽口と同じなのかと、ラファランは考える。彼女はいつも決まって必要最低限の情報しか渡さない。彼は彼女とオーバンの三人一組ではあるが、実際に前線に身を投げるのは彼とオーバンだけだ。だから彼女の情報は彼らにとって死活問題であり、彼女も二人が死ぬと不都合だから死に繋がる情報は迅速に流してくる。それが、今回は遠まわしな表現が多すぎた。
「シャーロット、何を隠している?」
「あなたにすべてを知る権利はない。《連合》の不利益を排除し、正当な利益を得られるだけの足場を作ってくれればそれでいいわ。それが《カドシュの法院》の存在意義でしょう?」
ラファランは二の句も告げない。《カドシュの法院》は、《連合》に害する敵を滅ぼす戦力だ。それを超える領分は持ち合わせていないから、彼女の指摘は冷たいくらい的確だ。いかに高位魔導師集団といえど、不要な情報は与えられない。
「俺はお前が大嫌いだけど、仕事内容については信用してる。頼むから俺たちを裏切ってくれるなよ」
「嬉しくない信頼ね。でもまあ、安心なさい。私が騙すのは《連合》に敵対する者だけよ。あなたが最低限歩む方角さえ間違えなければ、私があなたを騙すことはない」
内臓に重石がいれられるような会話するとき、彼は自分がいまいる場所が虚ろの底なのだと思い知らされる。血にまみれた身体は重くて動かすことすらできないから、遥か天上に見える普通の日常が遠すぎて届かない。
部屋の扉が開く。音に気づいて見やると、サングラスをかけたオーバンが部屋に入ってきた。
「あら、良い朝ねオーバン」涼しい声でシャーロット。
「いつも言っているが、来るならばそれではなく顔を寄越せ」
オーバンの低い声に妖精が肩をすくめる。
「魔法でできることをわざわざ私自身が行うなんて、面倒だとは思わない?」
「礼を欠いているのだと言っている。まあいい」言葉を区切ってオーバンが壁に寄りかかる。「これからの方針を決める必要がある。そのためには整理が必要だ。事案は三つ。ひとつは異端審問機関員リカルドとやらの存在。ふたつ、《第七天国》への侵入者の存在。みっつ、昨日の魔導師殺し。内前者二つは異端審問機関で、最後のひとつはどことも知れぬ馬の骨だ。別々に対処するにも手が足りん」
「優先順位をつけましょうか。ひとまず魔導師殺しとと侵入者の件を対処してもらいたいわね。リカルドの件については、後回しで構わないわ」
「その認識は我々に死ねと告げるも同義だ」オーバンがシャーロットの提案を斬って捨てる。「あれは我々を追っている。ここを知られるのも時間の問題だろう。あれを先にどうにかせねば、これ以上うかつに《第七天国》へも入れまい。あれに行くとき、身体は現実に残ったままなのだからな」
《第七天国》は夢の中に存在する。実体を持つ身体ではなく精神を繋げることで、意識だけを《第七天国》へ移動させているに過ぎない。だから、《第七天国》に滞在する間、魔法使いの肉体は眠っている状態になるのだ。
「それに、我々に死なれるのは“いまの《連合》”にとっても不都合だろう?」
「オーバン、それは脅しのつもり?」苛立たし気にシャーロットが言った。
「我々は《連合》の未来に血を流そう。ならば、《連合》は一体我々に何をしてくれる?」
この中での実動は男二人側だ。だから脅威であるリカルドを排除しなければ遠くない未来、袋小路に追い込まれることになる。オーバンは、リカルドを殺すことで得られる安全地帯を《連合》に要求しているのだ。
「《連合》における目下の敵は《第七天国》への侵入者。その背後にいる異端審問機関であることは分かった」
ラファランが二人の会話に割り込む。主張が対立しあうこの場では、自分の立ち位置を明確にしておかなければならない。
「だが、オーバンが言うように俺たち二人の身近な危機は、そのリカルドって奴だ。そいつを殺さない限り、これ以上仕事を請け負うことは無理だ」
「だからさっきも言ったでしょう。《メイザース》を使いなさい。あの組織の存在意義をいま使わずいつ使うというの?」
「《メイザース》は使えない。使っても魔導師殺しの行方捜査が限界だ。それ以上は俺たちが担当するしかない」
《カドシュの法院》は所属するための条件と死亡率の高さから常に人材不足だ。それを補うために《メイザース》が存在している。だが、本来、《メイザース》が負うべき仕事は、魔法使いが関わる事件の捜査が主で、戦闘行為は精々が《カドシュの法院》の補助だ。
リカルドに魔導師殺しと、双方が高位魔導師であるのに《メイザース》をぶつければ、待っているのはストラスブールに配置された《メイザース》総勢五十七名の死だ。いくら時間を稼ぐのが目的とは言え、想定される犠牲が大きすぎるのだ。
「分からないわね。いいこと? 《連合》にとって最優先事項は《第七天国》の保守よ。《メイザース》の命ではないわ。ならば私たちの選択はひとつ。ラファランが《第七天国》へ行き、オーバンが魔導師殺しを追う。《メイザース》は魔導師殺しとリカルドへそれぞれ分散させる。それが最良であるとなぜ分からないの?」
「ひとつ聞かせろシャーロット」ラファランが目を細める。「なぜ俺を《第七天国》へ配置する必要がある? 他の《カドシュの法院》や《メイザース》が捜索しているのなら、ひとりいなくなったところで大局は変わらないはずだ。魔導師殺しやリカルドの方が現地で起きている以上俺たちが優先的に動くべき事案のはずだろ。なぜだ、シャーロット」
「それが《二十四法院》の決定よ」
彼女の答えを聞いても、ラファランは納得しなかった。
「《二十四法院》が俺を指名する理由はなんだ。因果魔法は、元型や波動、一元魔法のような高い索敵や諜報能力は持っていない。そもそも《カドシュの法院》や《内部監査室》の仕事向きじゃない因果魔導師である俺を選ぶ必要が見当たらない」
自分を否定しているようで気分は最悪だったが、彼は問わねばならなかった。今回は立ち位置があやふやなのだ。自分がいま何処にいて何処へ向かおうとしているのかを把握しなければ、本当に死ぬことになる。
「これもさっき言ったわよね。あなたには知る権利はない。これ以上問いを重ねるのは無意味だと知りなさい」
「もういいだろう」
痺れを切らしたオーバンが一際大きい声で部屋を震わせる。
「俺たちの立場を明確にさせてもらおう。先にリカルドを仕留める。他はお前の采配に任せよう。反論は許さん」
少しの間黙考していたシャーロットが、やがて、ひとつ息を吐いて降参の意を表した。
「分かったわ。上にはそれで報告する。だけど期限を区切らせて」
「いいだろう」オーバンが短く頷く。
「今日一日だけあなた達の意思を尊重させる。これには私もいくらか手を出すわ。だから今日中にリカルドを仕留めなさい。それが上に報告でき得る最大の譲歩よ」
ラファランはオーバンを横目で見る。オーバンは目を閉じることで了承の意を示した。
「分かった。今日中に仕留めよう」
卓上に置かれた拳銃を握ってラファランは方針を決定した。
「すぐに手はずを整える必要がある。敵は単身とはいえ、街中で人に存在を気づかれずに攻撃できる高位の秘跡魔導師だ。昨日はオーバンがうまく人影のない墓地におびき出せたみたいだけど、相手もその経験を生かしてくるはずだ。同じ手は通じない。どうする?」
ラファランの問いに、オーバンが壁から身体を離して答える。
「下策だが、考えがないこともない。多少、《メイザース》に協力を仰ぐ必要があるが、危険はさほどないだろう。シャーロット、必要な物品手配と《メイザース》への協力要請を頼む」
「分かったわ。手を出すと言った以上、私も動くわ。御しきれない人員は互いに身を滅ぼすもの」妖精が窓枠に腰を落とす。「その下策とやら、聞かせなさい」
オーバンが語る。翡翠の妖精の目が、湛えていた光を消した。ラファランもベッドに座って顔を覆った。
「それでかかれば漁師も苦労はしないわ。本当に下策ね」とシャーロット。
「他に方法はない、というかすぐに思いつかない。乗るしかないだろ」ラファランが天井を仰いで言う。
「先に下策と前置きしたろう」
オーバンが少し傷ついたように額の皺を濃くしつつも、机上でペンを走らせる。必要事項を書いた紙を妖精に渡す。受け取ったシャーロットが嫌そうに部屋の中を旋回しつつも、窓から外へと勢いよく飛び出し、天高く飛翔する。




