第一章/異端の魔法使い 1
書類仕事は魔法では片付けられない。この事実を五度ほど確認したとき、ラファランは魔法使いでありながら魔法の存在を疑いたくなった。
彼の机の上には、昨日の夜から心不乱にペンを走らせ続けてできた書類が山積している。見るだけでげんなりしそうな、十時間かけた仕事の成果だった。
最後の一枚に署名し、永遠を歩く思いで続けた仕事は、両肩に拭いきれない疲労感を残してようやく終えた。
ラファランは首を鳴らしながら腕を回し、壁一面に並んだ窓から差し込む朝日に目を細める。目の奥がじんじんと熱を持ったように疼いた。書類仕事をしたからだろうと、まぶたを軽く揉んで時計を見た。
そろそろ《殿堂》の魔法使いが出社してくる頃合だった。顔を合わせたくなかったラファランは、オフィスチェアにかけていたローブを肩にかけてオフィスを出た。早くも出社して来た魔法使いらとは目も合わせずに通り過ぎる。目ざとくローブの存在を見つけた彼らが、黙々と歩くラファランの後姿へ遠慮のない陰口を叩いた。彼らにとって、《カドシュの法院》に所属するラファランは、利益を貪る寄生虫のようなものだ。
「うんざりだ」
大きなあくびをしながらビルを出ると、腹が鳴った。昨日の夜から何も食べていなかった。途中で何かつまめる物を買っていこうと考えながら、朝のストラスブールを歩く。途中ですれ違った馴染みの住人や魔法使いに挨拶をして、ラファランは街角に立つ木造りの屋台に立ち寄った。中には全身を画材で汚した小太りな老人がいた。背後には屋台内部を埋め尽くすように、食べ物の描かれたキャンバスが掛けられている。
老人がラファランの姿に気づき、目じりの皺を深くさせて笑いかけた。
「よう、ラファランぼうや」
「ぼうやはやめてくれ。いつものひとつ」
「あいよ」
老人は数あるキャンバスの中からクロックムッシュの描かれたものを選び、手を伸ばした。キャンバスが一瞬鈍く光ると、老人の手の中にはクロックムッシュがあった。
端から見れば売れない画家が行商をしているように見えるが、この老人は魔法使い専門の露天商だ。彼は描くことで食べ物を作る魔法使いだった。
商品と引き換えに代金を支払い、その手で釣りを受け取る。
「おいじいさん、釣りが足りないぞ」
「ラファランぼうやは細かいな」
悪びれた様子も見せず、老人は飄々と絵の具だらけの皺くちゃの手で足りない釣り銭をラファランの手の平に落とした。ラファランはそれをポケットに乱暴に仕舞って、湯気を立たせる熱々のクロックムッシュにかぶりつく。
魔法で作ったものは、現実世界ではすぐに消えてしまうのだ。
「すぐにちょろまかそうとするな。じいさんがそんなだと御伽魔導師全員が詐欺師だと思われるぞ」
「違うなぼうや。取引のときには騙されないように目を光らせてなきゃならん。それがどんなに馴染みの相手でもだ。懐に多くの金が入ってくればそれで問題なし。問題なしだ。これは取引の常識だ。これを忘れたら食いっぱぐれるのは当然よ」
経済を嫌う魔法使いが多い昨今でも、老人のように金の流れに敏感なものも少なくない。それが正攻法か違法かの違いこそあれ、魔法使いが現代社会に少しずつ溶け込んでいる証拠だった。
「どこの世界の法律だよ。魔法使いが組織として動いてるなら、それ相応の考え方に変えろ。中途半端に資本主義に乗るな」
「おまえさんは潔癖だなあ。商人にはなれんぞ」
「俺の仕事はならず者を縛り上げることだからな。俺に関わりのない金の勘定は他の連中に任せるさ」
そんなことより、と声を潜めた老人が身を乗り出す。
「アレを横流しする気はないか? 値は弾むぞ」
ラファランは顔をしかめる。
「俺に犯罪者になれってか? 冗談は顔だけにしてくれ」
「そういうなよぼうや。魔法使いなら一度でいいから《第七天国》には行きたいもんさ」老人の瞳が熱に浮かされた病人ようにギラギラと光る。「だが、あれは高階梯魔導師に優先的に回されておれのような下っ端にはぜんぜん回っちゃこない。差別だとは思わんか?」
鼻息の荒い脂の乗った顔に、ラファランは拳銃に見立てた人差し指を立てた。
「思っちゃいるがそれとこれは話が別だ。話相手が俺じゃなきゃ、今ごろその首は飛んでるぞ。発言には注意してくれ」
冗談めかして言うと、老人はやれやれと首をすくめて顔を引いた。
この老人も、別に悪い魔法使いではない。軽い挨拶のようなものだ。最後の一口を放り込んでから、ラファランは屋台を後にする。
彼の住まいは、旧市街から離れたドイツに隣接した地域にあった。底の抜けたプールを漂っているような眠気に身を揺らせながら部屋に戻り、その足で浴室へ向かう。眠りにつくまでの僅かな時間を稼ぐために、軽くシャワーを浴びた。
昨今の魔法使いは、皆一様に浮ついていた。何もかもが《第七天国》という、魔法使いの理想郷が作られたことが原因だった。
《第七天国》は現実には存在しない。夢の中に存在するのだ。だから《第七天国》へ入るためには入界証と呼ばれる特別なカードが必要になる。このカードは優秀な魔法使いに優先的に配られ、力のない魔法使いには法外な値段で売られる。金で買おうとする魔法使いならばまだ良いが、中には盗みや殺しなどの強行に走り手に入れようとする魔法使いも存在する。最近ではこれに派生して、魔法使いの格差を糾弾する集団もいくつか確認されており、ラファランが所属する部署の頭痛の種になっている。
リビングに戻り冷蔵庫を空ける。中を覗くと、あるのは未開封の牛乳だけだった。仕事に忙殺されて買出しに出ていなかったことを思い出し、ラファランは苦い息を吐き出した。
じりじりとした疲労感が胃の底から持ち上がってくる。眠気は際限なく湧き出してくるのに、言いようのない苛立ちが頭を支配していてとても眠れる心境ではなかった。
すこし荒んだ生活に浸りすぎたのかもしれない。ふらつく頭を抑えたまま、携帯電話から番号を呼び出す。無機質な呼び出し音を聞きながら、あまりの余裕のなさに苦い笑みが浮かんだ。
「久しぶり、ラファラン」
受話器から聞こえたのは、フランス語でもドイツ語でもなく、ストラスブールでは聞き慣れない日本語だった。ラファランがかけたのは、二年前に知り合った日本人女性だ。
「突然すみません、夏狩さん。ちょっとお願いがあって電話したんですが」
「そんな畏まらなくてもいいのに。いいよ、なんでも言って」
夏狩が柔らかい調子で言った。ラファランは、彼女の優しい口調が好きだった。
「買い物に付き合って欲しいんです。今日、予定空いてますか?」
嘘だ。どうしようもなく疲れていたから癒されたかっただけだ。
「いいよ。一時間後でいい?」
「はい。待ち合わせはいつもの場所でいいですか?」
「わかった。じゃあ、またあとでね」
接続の切れた携帯電話をテーブルに置く。ざわついていた心が少しだけ落ち着きを取り戻していた。現実と夏狩との会話の落差を感じ、泣きそうになった。
◇◆◇
アリーシャの耳に不法侵入者の報が入ったのは、この世界でただひとつ心を落ち着かせられる自室で、大好きなベルギー産のチョコレートを食べているときだった。さっきまで人を見下すような陰口を散々聞かされたあとだったから、この至福のひと時を引き裂く古めかしい電話の音には嫌気が刺した。口元を拭って受話器を上げると、いつものように彼女を馬鹿にする皮肉を投げつけられる。
「貴様はさっきまで一体何をやっていたんだ? ちゃんと見回っていたのか? すれ違った男に色目でも使っていたんじゃないのか? まったく、我々に生かされていることをその小さな脳が理解しているのなら、仕事のひとつを完璧にこなすべきだろう。これだから神を信じないものは困る。感謝というものを知らない」
思わずため息をつきそうになるが、寸でのところで踏みとどまる。真面目に聞いている振りをしなければ、電話口の男がいつまでも本題に入ろうとしないであろうことは長年の経験から知っていたのだ。
「申し訳ありません。ええ、全く持って言い訳もありません。ですが、一体何があったというのですか?」
はっ、と男が笑った。
「何があったかだって? 笑わせるよ不埒物。侵入者だよ侵入者。我々の聖域に、よりにもよって魔法使いが足をかけた。汚らわしいことこの上ない。ただでさえおまえのような物がこの場を汚しているというのに、なんたることだ」
口の中に残っていたチョコレートの甘みは、もうなくなっていた。
「それで、その侵入者はいまどこに?」
「既に始末したよ。が、面白いものを持っていた。おまえの存在くらい不愉快で面白いものだ」
「面白いもの?」
アリーシャの言葉を待っていたのか、男がくつくつと笑った。
「じきにおまえの腐った部屋にそれが届けられる。そいつを使ってある場所へ行け。詳細はそいつを届ける人に聞くんだ。これは枢機卿長猊下直々の命令だ」
言うだけ言ってから男は電話を切った。
アリーシャは溜め込んだ息を吐き出した。たった二分程度の会話を交わしただけで、全身が痛くなるような嫌悪感に襲われた。いつものことなのに、剥きだしの憎悪を向けられるだけでこの世に自分という存在が許されていないような気がしてくる。安息地であるこの部屋も、電話があるお陰で一瞬にして色を変えてしまう。
疲れていた。とても、言葉では表せないほどに。