HAS(三題噺)
ねじ・饅頭・ラーメンをお題とした三題噺です。
とりあえず書きましたが、キャクターがふらふらしていてどうしようもない作品になってしまいました。
もう10月半ばだというのに暑いなと助手は思った。喉が渇く。コーラ1.5L。今日だけで3本も空けてしまった。今飲んでいるのは4本目だ。まだストックはある。だけど食べ物があまりない。お昼にピザを3枚食べた。腹が減った。時計を見ると午後の3時20分だった。おやつだな、そろそろ。助手は巨体をのそりと動かし、贅肉を揺らしながら冷蔵庫へと向かった。やはり研究に熱中するとエネルギーを使う。糖分だ。もっと脳みそを働かせるには糖分。なにかあったかな。ショートケーキは昨日食べてしまった。そうだお土産でもらった黒糖饅頭がまだあったかな。のそのそ。
「お、助手くん。いいところに来たね、ちょっとこっちへ来なさい」
「ちょっと待ってください博士。博士も黒糖饅頭食べますか?」
「饅頭は後でいいから、来なさい」
「だけど3時の……」
「いいから」
助手は不承不承と博士の後に続いた。博士は自室の研究室へと向かった。部屋に入るとき、助手の贅肉がつっかかって壁が軋んだ。仕方が無いので博士が彼の手を取り、引っ張ってやってなんとか中に入れた。
「やれやれ、また太ったんじゃないかね」
「そうですかね。最近体重計には乗っていませんから」
最後に体重を量ったのはいつだろうか。確か4月の健康診断以来だな。あの時は112Kgだったはずだ。あの時の医者め、ダイエットしろなんて言いやがった。そんなこと出来ないと分かっているくせに。
「ダイエットしてみないかね?」
助手は眉をひそめた。露骨に嫌な顔になってしまった。博士までそんなことを言うのか。
「いや、君が幾度もダイエットに挑戦し、そして失敗してきたのは知っている」
「僕にはダイエットなんて無理なんです。運動しようにもこの身体じゃもう満足にできない。それに運動しても食欲がよりいっそう増すだけなんです。わかりますよ言いたい事は、それを抑えろと言うんでしょう。でも無理なものは無理です。僕の自制心はどうしても食欲には打ち勝てないんです。でもいいんです。僕はそれでもいいんです。痩せなくても……いいんです」
助手はそこまで一気呵成に言ってしまうと、うなだれた。滂沱として流れる汗を白衣の袖で拭った。ついでに目頭も擦った。博士は穏やかな笑みでその様を見守る。助手は水笛のような息を漏らしながら、ふと黒糖饅頭のことを思い出した。思い出したら腹が減ってきた。助手は顔を上げて博士を一瞥すると、軽く会釈をして部屋から出て行こうとした。したら博士がまあ待ちなさいと彼の肩に手を置いた。助手はめんどくさそうに振り向いた。僕は早く黒糖饅頭が食べたいんだ。
「今度のダイエットは必ず上手くいく。わたしが保証しよう、ちょっとこっちへ来なさい」
博士は助手を研究室の奥へと誘った。そこには助手も見たことがない機械が設置されていた。腰の高さくらいあるハードウェアからは3本のコードが延び、その先端にには煎餅ほどの大きさの電極がくっついていた。博士はモニターを見ながらその機械のコンソールと思わしきパネルを叩いていく。
「それじゃ助手くん、ちょっとお腹を出してくれ」
言われたとおりにシャツを捲り上げる。汗ばんだ脂肪の塊がたゆんでいた。博士は面白そうにその腹を掴んで暫く揺らしていた。助手は苦笑いしながら何が面白いのかと思う他なかった。彼の贅肉をある程度弄んだ博士は、タオルで腹の汗を拭き、3つの電極を彼の腹に貼り付けた。腹といっても臍より少し上の位置だ。電極のひんやりとした感触が心地よい。
「それじゃ、すこしビリっとくるけど我慢してくれ」
博士はそう注意して、コンソールのキーを1つ叩いた。確かに電流が流れた感覚はあったが、針で刺した程度の刺激しか感じなかった。博士はモニターをじっと見ており、助手も同じようにモニターを覗いた。数値の羅列が次々と流れていく。よくは分からないが、僕の身体に関することだろうと助手はぼんやり考えた。
しばらくしてまた電極から刺激がきた。それが等間隔で何度か繰り返された後、モニターに「FINISH」のサインが表示された。博士は上手くいったと呟いて、助手の腹から電極を引き剥がした。シャツの裾を戻しながら「なんだったんです、今のは? これで僕の体脂肪でも調べていたんですか。それとも昼に食べたピザがどうなっているか観測していたんですか」 訳の分からぬまま体内を調べられたようで、助手はいささか不機嫌だった。博士はそんな彼を無視して、ハードウェアの方に向き直った。よく見ると、無骨な機械のその側面に取っ手の様なへこみがある。博士がその取っ手を引くとダッシュボードがパカンと開き、中で金属の転がる重音がした。博士は中に手をつっこみ、音の正体を握り取り出した。
「なんですか、それは」
博士は手を開いて黒糖饅頭くらいの大きさのそれを助手に前に差し出した。黒く鈍く光る丸いそれは本当に黒糖饅頭かなと助手は思った。おお、まさかこの機械は腹を精査することで、その人物が食べたいものを具現化する夢のような発明品だとはこれっぽっちも思わなかった。なぜなら黒糖饅頭の中央には見落としようがない太いねじが突き刺さっているからだ。どんな健啖家でも流石にねじは食えない。
助手を博士の手からそれを受け取り、しげしげと眺めた。重さも感触も饅頭のものではな、文鎮のようにどっしりとして、金属独特の冷たさと硬質さを感じられる。ねじに触れてみると、やはりそれはねじだった。円筒で側面に凹凸があり頭にはY字型のとってがついている。スクリューである。こんなものをどうすればいいのだと助手は博士を見やった。博士は今からひどく重要なことを言うぞと示すように喉を鳴らした。
「助手くん。君は今空腹かね? 黒糖饅頭を食べたいかね?」 答えは解っているが念のためという風に博士は尋ねた。「どうだね?」
「そりゃ、食べたいです。もうおやつの時間はとっくに過ぎてしまいましたよ。だけどそれがどうしたというんです? このへんてこな塊を食べろというんじゃないでしょうね。もしかして胃石ですか? これを胃の中に入れれば消化がよくなるとか」
「残念だが食べてみたところでそういう効果はないだろうな。試してみてもいいが、まあその前にそのねじをちょっと閉めてみなさい。軽くでいい」
助手は怪訝な顔でその物体を裏返してみた。底は平板で黒々とし、それ以外なにもない。ねじを締めていくと突き抜けてくるというわけでもなさそうだ。この塊を何かに固定するためのねじではないらしい。ますます意味のわからない品だったが、博士が言うからにはねじを回すことで何かしらの機能が働くのだろう。助手はY字の取ってをつまんで、左に1度回転させた。ねじが底に向かう手ごたえを感じる。ねじ饅頭に落としていた目をあげて博士を見やった。博士はもう少し回してみなさいと促すように頷いた。助手はもう2回転させてねじを締めた。ねじ頭と本体の間の隙間は指一本分ほどになっている。
「どうだね?」
博士は何が嬉しいのか、お小遣いをもらった子供のようにはしゃいだ笑顔を見せた。助手は肩をすくめるしかなかった。質問の意図がまったくわからなかった。もしかして博士はとうとうボケ出したのじゃないだろうか。もうこの方も齢いくつだったろう……博士の年齢を思い出そうとした時、ふいに違和感を感じてとっさに腹に掌を当てた。先ほどまで執拗に訴えていた空腹感がない。腹の虫がどこかへ身を隠してしまった。助手は驚き博士を凝視した。老人は一度手を叩き「上手く機能したようだね。結構結構」と満足げに笑った。助手はしばらく口を開いたまま呆けていたが、つられるように短く笑い出した。そしてはっと思い立ち、今度はねじを右に回して緩めていった。最初に手渡された頃よりもねじは長くのび、かたかたと揺れて不安定な状態になった。するとどういうことか、腹の虫が舞い戻ってきたばかりか先ほどよりも空腹は激しく、贅肉の下からグゥと大きな音を立てた。助手はそこで再度ねじを締めた。ねじを回すたびに空腹が満たされていくことをはっきりと感じとれた。夜の海辺で波が引いていくように、空腹感は静かに消えていった。
「これは一体……これは……博士、どういうことでしょうか。さっきまであんなに腹が減っていたのに、今はすっかり!」
つい声をはりあげてしまい、助手は口を覆った。あまりの驚きと喜びで体が打ち震えている事がわかった。このままでは知らず知らず涙が溢れてしまいそうだ。今僕が手にしているのは夢の欠片だ。長年夢想し続けていつの間にか過去へ置いてきてしまった些細な理想。そいつを今握っている。絶対に放しはしない。この歓喜は抑えられそうも無かった。叫びながら跳ね回りたい気分だがこの狭い研究室と巨体では無理だ。そこで助手は博士を抱きしめることで歓喜と感謝を表現することにした。博士は巨乳に顔を埋めて苦しそうに呻きながら助手の背中を二度叩いた。助手は感情が噴火してしまいそうなのを抑えながら、博士から一歩身を引いた。あなたは神だという畏敬の念でその瞳は輝いていた。
「まあ少し落ち着いて話を聞きなさい。もう解ったと思うがこれはねじの緩締で空腹感を調整する装置だ。まだ大雑把な調整しかできない試作型だが、その効果は今体験したから解っているね。それで、ちょっとそれを渡してくれ」 博士は助手の手から装置を受け取ると、すこしねじを緩めてまた返した。「スクリューのところに赤い線があるだろう」 よく見ると、確かに側面をぐるっと周って赤い線が入っている。今はちょうどそのラインと、ねじの差込口が重なるようになっている。「その赤い線が通常の君の空腹度だ。いつもの大食いの君の状態だね。その線を基準に緩めていけば空腹になっていき、締めていけば空腹は満たされるというわけだ。もちろん満たされるといっても実際に栄養補給をしているわけではない。ねじの役割はあくまでも、君の脳が満腹だと感じる限界値を増減させるだけということは注意してほしい。それから言うまでもないと思うが、その装置は君専用で他の人に効き目はない」
「ああ、ああ! 聞けば聞くほどなんと偉大な発明でしょうか。何故これほどの発明品を僕に黙って開発していたのですか」
そう言う助手は大きく手を広げ、身をねじりながらまるで芝居役者のように見えた。体格も相まって、オペラ歌手を連想し博士は苦笑した。この助手は優秀ではあるが研究者としてのプライドが高く、感情の起伏が激しいばかりかそれを抑えられない幼稚な精神面を持っている。おそらく今も、博士に対して崇敬の念を抱きつつ、研究を内密にされていたことでプライドが傷ついたという怒りが少しずつ沸騰しはじめているのだ。ここは用心深く彼を制御しなければならないと博士は内心言い聞かせた。彼の逆鱗に触れず、うまく彼をなだめなければならない。彼は沸騰しかけているヤカンだ。蓋をあけて、蒸気を逃がしてやればいい。
「君に内緒にするつもりはなかった。ただ丁度この研究のとっかかりを得たのは、助手くんの例の研究が難局に直面していた時だったのだよ。そうそう、あの猿の脳から記憶を抽出する研究だよ。今までの努力が水泡に帰すかどうかの重要な局面だった。だから君の邪魔をしたくなくて、わたしはしばらく独自に研究を進めていくことにしたんだよ。そして先日、君は見事その窮地から脱して実験も成功させた。本当に素晴らしいことだ。わたしとしても鼻が高い。そしてこの装置が完成したのもつい先日だ。だからその装置は君の研究が無事完成した事への、わたしからの祝い品だと思って欲しい」
実際には最初からしばらくは研究を隠しておくつもりだった。何故なら以前に一度、彼の暴走のせいで研究が頓挫したことがあったからだ。彼が研究に熱中しすぎたことで、博士の許可なしに勝手な実験を行ってしまったためだ。その事を助手自身はまったく反省していない。最後まで自分の判断と才能は的確だと信じきっていた。博士は厳しく叱責したが、彼は若い者と争論をするにはもう歳をとりすぎていた。そのため自然と博士が折れる形となってしまったのだ。今回の研究でも同じように彼が暴走するのではないかという懸念が博士にはあった。なにしろ助手が強いコンプレックスを抱えている肥満に直接つながる研究である。彼が熱意を持つことは簡単に予測できる。それ自体はむしろ歓迎されるべきことだ。何事をするにも熱意はいいガソリンとなる。しかし彼を管理し、ガソリンに火がつかぬよう上手く制御しきる自信は博士にはなかった。
だから万一の事態にならないよう、ここまで研究を隠し通してきたのだ。大枠は出来上がった。彼が例え暴走したとしても、後始末は容易だ。あとは実験データをとり、中身を詰めていくだけだ。そう、実験。それが重要だ。博士が言ったように、まだこの装置は試作品にすぎない。どこに不具合があるかは解らない。それが重大な欠陥ではないとも限らない。動物実験では危険はないという結論を出したが、人体の被験者はまさしく助手が第1号なのだ。自分の身体で無茶をしてみる気は博士にはなかった。助手は大事な被験体。しかしその様な立場で実験に参加させるということは、また彼のプライドを傷つけることが予測できた。被験者というより、あくまで彼が自主的にそれを使用するのが望ましかった。その上でデータを採取する。それであれば彼のプライドを下手に刺激せずにすむと、博士はそう踏んでいた。
事はまさしく博士の思惑通りに運んだ。助手はしばらく逡巡したが、「そういうことでしたら仕方ありませんね。確かに僕の研究をストップさせるわけにはいかなかった。だけどここからは僕も助手としてこの研究に参加させていただきますよ」と答えた。博士はもちろん快諾し、加えて極めてさりげなく、助手が装置を使用する祭のデータ採取を彼に承諾させる。もちろん助手という立場である以上彼から許可を得る必要などないし、助手も拒否する権限などありはしないのだが、正確なデータを取らせるためには機嫌を損なわせるわけにはいかない。
「ところで博士、こいつの名前はもう決めてあるんですか?」
「いや、まだだ。とりあえずHungry.Adjust.Screwの頭文字をとってHASと呼ぶことにしよう」
異論はなく装置の名前はHAS、研究計画はHASプロジェクトと決定した。
HASの経過は順調であった。むしろ驚くべき成果をあげた。実験開始時に助手の体重を測定したところ116kgであったのが、わずか2ヶ月で102kgとなり14kgの減量である。体脂肪率にいたっては、31%から28%まで低下していた。
助手は歓喜に打ち震え、博士もその結果に満足した。助手の健康状態も問題なく、HASの成功は目に見えて明らかであった。
しかし問題というものは、なんの前触れもなく姿を現すものであり、まさしく今回もそうであった。実験を始めて半年。助手は風船から空気を抜くようにスマートになっていった。体重は75kgまで落ち、体脂肪率も25%を切っていた。世間でいうところの肥満からは抜け出したことになる。助手の方はなんら問題はなかった。不運に見舞われたのは博士の方であった。彼は病床に伏せていた。事が起こったのは2日前。博士はいつもの様に助手の身体データを採取している際に、突然胸を押さえ呻き、倒れた。心筋梗塞であった。突然の事ではあったが、不整脈を抱えていた老体にとっては覚悟してしかるべき事であった。しかし博士は根拠なく、まだ大丈夫だろうと自分の健康を過信して研究に打ち込んでいた。そのため意識が途切れる一瞬、「なぜこんな時に」という思いが胸の中に渦巻きいた。彼の意識はその渦に飲み込まれ、身体の奥底へと沈んでいった。
緊急手術で一命を取り留めたものの、先行きは芳しくなかった。2日間意識は戻らず、快復の見込みも薄いと医者は言った。もはや長くはないだろうと。
それを聞いた助手は思案を巡らせた。HASの研究はもう完成していると言ってよい。博士がいなくとも、研究を纏め上げる事は可能である。1ヵ月後には博士と共に企業へ売り込みにいく予定ではあったが、それだって博士が居なくても問題ない。つまり、もはや博士は不要である。というか、最初にこのHASと対面した時から、この老人は用済みであったのだろう。僕がHASを手に取った時から、この研究は僕の物になるという事が決まっていたのだ。そうとしか考えられない。この半年間HASを使用し、僕との相性は身をもって体感してきた。HASは僕を選んだのだ。
助手の自己中心的思想は、博士が倒れたことで歯止めを失った。そして翌日博士が永遠の眠りについたとき、彼の身勝手さを押しとどめるものはなくなった。
むっとした熱気の中、助手は狭い店内でラーメンを啜っていた。めくるめく季節はあれから2度の夏を超え、今は3度目の夏真っ盛りである。
助手の両隣に座っている男が、信じられないという顔で助手を見つめていた。助手の傍らには、すでに20杯近い丼で築かれた塔が伸びている。今そこに、新たな1杯が重ねられ、そして次のラーメンが助手の前に出される。出した店員も、この男に食べさせているのが本当に自分の作ったラーメンなのか疑いだしていた。
呆ける人々に構わず、助手は一心に麺を啜った。啜るたび、丸いビニール椅子に尻が沈み込んだ。その尻を見守るのは両隣の男と、店員だけではない。マイクを片手に持ち、サーカスの団長のように派手は服を着込んだ禿たおやじと、つばを後ろにキャップを被りカメラを構えた数人の若者。
それもただのカメラではなく、業務用のテレビカメラである。カメラには大手テレビ局のロゴが入っていた。
「ご覧ください! 残り5分となりましたがチャンピオンの箸が止まることはありません! あっと、ここでまた御替りが入りました。もう23杯目です。いったいこの胃袋はどうなっているんだ! 挑戦者ももうただただ見守るばかりです。」
前代未聞の健啖家に、禿頭のおやじもテンションがあがりっぱなしであった。カメラもこの世紀の大記録の瞬間を逃すまいと、助手を凝視していた。
「残り10秒となりました。……3.2.1、終了です! チャンピンが王座を死守しました。なんと今回食べたラーメンは24杯。大会新記録です!」
捲くし立てる司会者を尻目に、助手は余裕の笑みを浮かべた。そりゃそうである。何せ彼はHASを使っているのだから、どれだけ食べようと苦しくはない。
助手はあれから研究者としての人生を捨てた。研究が嫌いというわけではなかったが、他に出来る仕事がなかったから彼は科学者になっただけである。しかしHASを我が物とした今、最早研究者として生きていく必要はなくなった。彼はHASを使い、大食い選手として楽に生きるという浅はかな道を選んだ。HASを製品化して売り出すという予定もあったが、彼の下卑な独占欲によってHASが世に出ることはなくなった。博士の偉大な発明は終に人々の目に触れることはないわけである。なんとも哀れな。
大食いをはじめとして、助手はバラエティというものを蔑視していた。あんなのは馬鹿のやることであり、それを視るのも阿呆であると。しかし1度テレビに出て有名になると、周りの人間が考えられないほどちやほやしてくる。これがなかなか気持ちよく、彼はテレビに出ることで陶酔するようになった。今までの人生において、彼は人から好かれるということがなかった。頭はいいが肥満で愚鈍で怠惰な彼にとっては、自分は疎まれるだけの存在だと思っていた。しかし今の彼はそうではない。HASによって肥満は解消され、一般的な成人男性の肉体を手に入れている。肥満ではないのに底なしの大食いというキャラクターは、どんな時代でも人々の好奇心を鷲づかみにする。彼は一躍テレビスターの仲間入りを果たし、人々の注目の的となった。注目されるというのは非常に愉快なことであった。もちろん彼も皆がただおべっかをつかっているだけというのは解っている。本当に好いているわけではないと。しかし今までおべっかすら使ってもらえなかった彼にとっては、それも心地よかった。
「いや、チャンピンおめでとうございます。自身の20杯という記録を大きく塗り替えての王座防衛を果たした感想は?」
司会者にマイクを向けられた助手は、流れ出る汗を拭きながら答えた。
「ありがとうございます。ですけどまだまだ食べれますよー。今度は制限時間をもっと伸ばしましょうよ」
その場に居た誰も彼もが苦笑するしかなかった。その言葉がただの強がりではないことは、助手の余裕に満ちた顔を見ればすぐに解った。こいつは人間じゃないなと薄気味悪く思うやつもいたが、助手はそのことには気づかずにこやかに笑い返した。
収録も終わり、助手は帰路についていた。既に日は傾いていたが、夏の熱気はまだまだ去りそうになかった。助手はアイスクリーム屋に寄り、バニラアイスを1本買うと舐めながら自宅へと向かっていた。
「さて、そろそろHASを元に戻しておくか」
バニラアイスをペロリとたいらげると、助手はジーンズのポケットからHASを取り出した。いくら食べても苦しくないといっても、やはり胃には限界量がある。それ以上食べれば身体に異常をきたしかねない。それにいくら食べても満腹感を得ないというのは幸福なことのようにも思えたが、際限のない空腹感がそれを上回ってしまってよろしくない。適度にねじを締めるのが、HASを上手く使うこつであった。
ふと助手は足を止めた。非常によい香りが彼の鼻を撫でる。そこは焼き鳥屋であった。
「美味そうな匂いだな」 彼の腹がぎゅるると鳴った。「ちょっと寄ってくかな」
彼はHASをポケットに突っ込みながら暖簾をくぐった。しかしがばがばに緩められていたねじは、ポケットの縁に引っかかり、黒饅頭の土台からするりと抜け落ちた。ねじは一度こつんと路面を転がると、排水溝の隙間に飲み込まれていってしまい、ぽちゃん。
「へいらっしゃい」
焼き鳥屋の主人の威勢のいい呼び声に迎えられた助手の耳にそんな些細な音が聞こえるはずはなく、彼は何を頼もうかと品書きに目をやりながらカウタンーに腰を下ろした。
「あっ。あんた知ってるよ。テレビでよく見る大食いの人だろ。おし、じゃんじゃん食べていってくれよ」
「そうですか。それじゃあね……」
彼はメニューを選びながら、空腹を訴える腹を撫でた。