波乱万丈タイガース
セ・リーグ元年の1950年、若林に代わり松木が監督に就任し、毎日に引き抜かれずに残留した藤村、金田、後藤次男、藤村隆男、梶岡忠義、白坂長栄らを中心にチームを構成して前年を上回る4位という順位を確保した。しかし新規に加盟した球団を除けば最下位で、レギュラーの3分の2が流出した影響は深刻だった。
一方、チーム再建のため、ファームの結成や本格的なスカウト制度の導入などの改革により、世代交代の準備を進めた結果、1950年代には吉田義男、渡辺省三、小山正明、田宮謙次郎などの若手選手が次々と主力になり、好成績を収めた。しかし投打が噛み合わず、水原茂監督率いる巨人が黄金時代の真っ直中にある中で、優勝から遠ざかることになった。
この間、松木監督は1954年限りで退任。球団は後任にプロでの経験がなかった岸一郎を起用してファンやマスコミを驚かせたが、岸は主力選手との対立や成績不振から1955年5月中旬に病気療養を名目に休養。藤村富美男が監督代行となり、シーズン終了後には正式に兼任監督となる。しかし、1956年のシーズン終了後には、一部の選手が藤村監督の退任を求めて球団側と対立する藤村排斥事件と呼ばれる内紛が起き、解決までに2ヶ月近くを要した。藤村が監督専任となった1957年は巨人と激しく首位を争ったが1.0ゲーム差で優勝を逃す。シーズン終了後、球団は監督を藤村から田中義雄に交代させた。藤村は現役に復帰するが、1958年限りで引退し、背番号10は阪神初の永久欠番となった。
1952年、フランチャイズ制度の正式導入に伴い、保護地域が兵庫県となった。
1959年6月25日の対巨人11回戦は、プロ野球史上初の天覧試合となった。試合は藤本勝巳の本塁打と、小山 - 村山実の継投で優位に進めるも、9回裏に長嶋茂雄の放った左翼ポール際の打球を本塁打と判定され、4-5で惜敗した。