西鉄の奇跡
起源は1949年暮れに、1リーグ体制だった連盟が2リーグに分裂。これを契機に村上は、後の西鉄3代目社長で球団オーナーも務める木村重吉らとともにプロ野球への進出を図り[2]、福岡県福岡市で西鉄クリッパース(にしてつ-、Nishitetsu Clippers)を結成。11月26日に発足したパ・リーグへ加盟(この加盟日が球団創立日とされている)し、1950年1月28日に運営会社「西鉄野球株式会社」を設立登記した(この日を球団創立日とする文献も存在する[3])。
選手は、ノンプロとしての西日本鉄道チームから初代監督となる宮崎要を始め大津守・深見安博・河野昭修・塚本悦郎ら、八幡製鉄の鬼頭政一ら、別府星野組の新留国良ら九州地方のノンプロ選手に加え、佐賀県出身で巨人の主戦投手であった川崎徳次、福岡県出身で前年度南海で20勝を挙げた武末悉昌、同じく福岡出身の野口正明ら、九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。
1951年1月30日、同じく福岡市を本拠地としていたセ・リーグの西日本パイレーツを吸収合併して西鉄ライオンズ(にしてつ-、Nishitetsu Lions)となる(球団名変更は3月1日)。西日本からは、後の黄金時代の主力となる関口清治・日比野武が加入。
1952年、シーズン途中に、契約が難航していた東急の大スター大下弘を深見安博とのトレードで獲得。
1954年は2番打者豊田泰光の18本に続き、クリーンアップ全員が20本塁打(中西太(31本)・関口清治(27本)・大下弘(22本))を記録する等、チームで両リーグトップの134本の本塁打を記録し、チーム結成以来初のリーグ優勝を飾る。
1956年~1958年に三原脩監督の下日本シリーズ3連覇を達成。このうち1958年は稲尾和久の好投で3連敗から4連勝を飾る。稲尾を始めとしてこの当時の主力には大下弘・中西太・豊田泰光・仰木彬・高倉照幸らの好選手を擁し「野武士軍団」と呼ばれた。
1959年中西太が手首の腱鞘炎で不調だったこともあって4位に終わり、三原監督が辞任。川崎徳次が監督に就任する。