婚約破棄された令嬢は、最後に一度だけ笑った
「――クラリス・フォン・アシュレイ伯爵令嬢。あなたとの婚約を、ここで破棄する」
王宮の大広間に、その言葉が響いた。
今夜は王太子アルベルト殿下の成人を祝う夜会。
王族をはじめ、国内の主要な貴族が一堂に会する、華やかな夜だった。
そんな場所で、誰もが予想していなかった言葉が告げられた。
婚約破棄。
しかも、相手は王太子。
婚約者は、伯爵令嬢クラリス・フォン・アシュレイ。
幼い頃から王太子の婚約者として育てられ、次代の王妃となることを約束されていた令嬢だった。
会場中の視線が、一斉にクラリスへ向けられる。
驚愕。
同情。
好奇心。
そして、一部には期待に満ちた視線さえあった。
王太子に婚約破棄を告げられた令嬢が、どんな姿を見せるのか。
泣き崩れるのか。
アルベルトに縋るのか。
あるいは怒り狂うのか。
誰もが息を潜めて、その瞬間を待っていた。
けれど。
「……ふふっ」
クラリスは笑った。
小さく。
それから、もう一度。
「ふふふ……」
肩を震わせる。
そして。
満面の笑みを浮かべた。
「ありがとうございます」
その場にいた誰もが、言葉を失った。
「……何?」
アルベルトの眉が寄る。
クラリスは優雅に一礼した。
「婚約破棄をお受けいたします。これで、あなたを支える必要がなくなりました」
「……何を言っている?」
「ですから」
クラリスは微笑んだまま答えた。
「これで、私はあなたを支えなくて済むのですね」
その言葉に、アルベルトは鼻で笑った。
「支える?何を馬鹿なことを。私が王太子としてここまで歩んでこられたのは、私自身の努力の結果だ」
「左様でございますか」
「ああ、既に皆が認めている。私には王としての資質がある。つまり、お前などがいなくなったところで何も変わらないということだ」
「……ええ」
クラリスは頷いた。
「その通りです」
そしてもう一度だけ。
嬉しそうに笑った。
「それなら、なおさら安心いたしました」
その笑顔の意味を、このとき理解する者は誰もいなかった。
ただ一人。
王太子の側近である宰相補佐だけが、顔を強張らせていた。
「……で、殿下」
「何だ?」
「少々、お待ちください」
「どうした?」
「アシュレイ伯爵令嬢の言葉は――」
「ふんっ。そんなもの、くだらない負け惜しみだろう」
アルベルトは吐き捨てた。
「婚約者の座を失って、悔し紛れに何か言っているだけだ」
「ですが……」
「もういい」
アルベルトはクラリスを見る。
「お前には王妃になる資格がなかった。私が愛する女性は、エレナだ」
その隣に立っていた令嬢が、恥ずかしそうに顔を伏せた。
男爵令嬢エレナ。
最近になって王太子と親しくなったと噂される女性だった。
「エレナは私を理解してくれる。私の夢を支えてくれる。ただ実家が金持ちなだけのお前とは違う」
「……そうですか」
「だから私は、エレナを妃に迎える」
「おめでとうございます」
「……」
アルベルトが眉をひそめる。
クラリスの態度が、どうにも気に入らなかった。
泣きもしない。
怒りもしない。
ただ、穏やかに笑っている。
まるで。
婚約破棄を喜んでいるように。
「何がおかしい?」
「いいえ」
クラリスは首を横に振った。
「ただ……長かったなと思いまして」
「何がだ?」
「あなたを王にするための十年が」
「……は?」
その瞬間。
クラリスは笑顔を消した。
「失礼いたします」
それだけ告げて、クラリスは踵を返した。
大広間を去っていく。
その背中を、誰も呼び止めなかった。
ただ彼女の最後の言葉だけが妙に長く、会場に残った。
――あなたを王にするための十年。
それが何を意味するのか。
誰も、まだ知らなかった。
翌朝。
コンコンコンコン。
「入れ」
「殿下宛にこちらが」
「ああ、グリーバー宰相か。かけてくれ」
「失礼いたします」
王宮には、一本の書簡が届いた。
差出人は、アシュレイ伯爵家。
内容は簡潔だった。
『本日をもって、王太子殿下との婚約が正式に解消されたことを確認いたしました』
そこまでは普通だった。
問題は、その次。
『つきましては、これまで王太子殿下のために提供してまいりました一切の支援を、契約に基づき終了いたします』
「…………」
アルベルトは書簡を見つめた。
「支援?」
「はい」
宰相補佐が静かに答える。
「アシュレイ伯爵家から王太子殿下へ提供されていた支援の一覧です」
机の上に、分厚い書類が置かれた。
「……こんなものがあったのか?」
「ございます」
「私は知らないぞ」
「殿下が知らされていなかっただけです」
「何だと?」
宰相は一枚目をめくった。
「まず、王太子府の年間運営費の一部」
「……」
「王太子殿下の教育費の補助」
「……」
「外交使節団の派遣費用」
「……」
「王太子領予定地の開発費」
「…………」
「それから、王太子派の貴族への融資」
アルベルトの顔から、血の気が引いていく。
「待て」
「まだございます」
「まだ?」
「近年、王太子殿下の支持基盤が弱まっていたため、アシュレイ伯爵家が秘密裏に複数の貴族家へ資金を融通しております」
「……」
「さらに、殿下が視察された孤児院への寄付金」
「……」
「地方の災害復興費」
「……」
「王都の公共事業への資金援助」
「…………」
アルベルトは書類を奪い取った。
ページをめくる。
めくる。
めくる。
数字が並んでいる。
見たこともない金額。
それが、十年間分。
宰相は、さらに別の書類を取り出した。
「殿下。こちらをご覧ください」
「まだあるのか……」
「はい。これは金銭的な支援とは別のものです」
差し出されたのは、過去十年間に王太子府で起きた問題と、その解決方法を記録した報告書だった。
「五年前、北部の有力貴族であるグランディ侯爵家が殿下への支持を取りやめようとした件を覚えておいでですか?」
「ああ。確か、最終的には向こうから態度を変えてきたはずだ」
「そのとき、クラリス嬢が侯爵夫人へ何度も手紙を送っています」
「……」
「三日間で七通です」
アルベルトは書類をめくった。
そこには、クラリスの名前が何度も記されていた。
『侯爵家の長男が王都の学院へ進学する際、必要となる推薦状を手配』
『侯爵領の水路改修について王家への陳情を代行』
『侯爵家が抱えていた商会との問題を、アシュレイ家の伝手で解決』
そして最後に。
『結果、グランディ侯爵家は王太子殿下への支持を継続』
「……これを」
アルベルトの声が掠れた。
「全部、クラリスが?」
「はい」
「だが、私は……そんなこと、一度も聞いていない」
「聞かされていなかったのでしょう」
次の書類には、別の事件が記されていた。
王都で疫病が流行した際、王太子が予定していた慰問が危険だとして中止になったこと。
そのとき、代わりにクラリスが孤児院や施療院を訪れ、必要な物資を届けていた。
王太子の名前で。
王太子が民を思いやっているという印象を損なわないために。
さらに別の書類には、地方で起きた飢饉への対応が記されていた。
王太子府が動くよりも早く、アシュレイ家から大量の穀物が送られている。
もちろん、その行動も全てクラリスの指示だった。
「……私は」
アルベルトは呟いた。
「何もしていないではないか」
「そういうことではありません」
宰相は静かに答えた。
「殿下が何もしなかったのではありません。殿下が王太子として振る舞えるよう、クラリス嬢が問題の芽を摘み続けていたのです」
「…………」
「殿下が視察へ行けば、その土地の問題を事前に調査する。殿下が貴族と会談すれば、その家の事情を調べて話題を用意する。殿下が失言すれば、相手が不快に思わないようその日のうちにクラリス嬢が謝罪の手紙を送っていたようです」
「……」
「殿下が笑顔で民と話せたのも、殿下が立派な王太子に見えていたのも、その裏側に彼女がいたからです。今となっては手遅れですが」
アルベルトは手にした書類を見つめた。
そこには。
十年間分のクラリスの努力が、事細かに記録されていた。
だが本人が残した記録は、一つもない。
誰かに褒められるためでも。
功績を認めてもらうためでもない。
ただ。
アルベルトが王になるために必要だったから。
その一点のみだった。
「……あいつは」
アルベルトは、初めてクラリスのことを「あいつ」と呼んだ。
その声は震えていた。
「こんなことを……ずっと?」
「はい」
「十年間も?」
「はい、そのようです」
「私が知らないところで?」
「はい、私もここまでは知りませんでした」
アルベルトは両手で顔を覆った。
昨夜。
彼女は笑っていた。
自分が捨てられた女とは思えないほど。
むしろ……ようやく重荷を下ろせたような笑顔だった。
あの笑顔の意味を。
今になって理解した。
「……だから」
アルベルトは小さく呟いた。
「だから、あいつは……笑っていたのか」
王妃の座を失ったからではない。
愛する男を奪われたからでもない。
十年間。
自分の人生よりも優先してきた役目を。
ようやく終えられたから。
クラリスは笑ったのだ。
その事実が。
アルベルトには何よりも苦しかった。
「……馬鹿な」
「事実です」
「なぜ……」
「クラリス嬢が、殿下には知らせないようにと仰っていたそうです」
「……」
「『殿下は自分の力で成し遂げたと思っていたほうが、自信を持って王になれるから』と」
「……」
アルベルトの手が震えた。
昨夜。
クラリスは言った。
『あなたを支える必要がなくなりました』
あれは。
嫌味でも負け惜しみでもなかった。
本当に。
支えていたのだ。
「……では」
アルベルトは、乾いた声で呟いた。
「アシュレイ家からの支援がなくなったら……どうなる?」
宰相は目を伏せた。
「まず、王太子府の運営に支障が出ます」
「どの程度だ?」
「三か月以内に資金が尽きます」
「……」
「また、アシュレイ家から融資を受けていた貴族家の多くが返済を求められるでしょうね」
「そんな……」
「そして」
宰相は一拍置いた。
「地方開発計画も、いくつか停止することになります」
「それはさすがに王家が出せば済む話だろう!」
「王家の財政も余裕があるわけではありません」
「では、私の王太子費から――」
「それも、アシュレイ家の補填を前提に組まれております」
「…………」
部屋に沈黙が落ちた。
アルベルトは椅子に深く座り込んだ。
昨夜まで。
自分は王になるのだと思っていた。
皆が自分を認めている。
自分には王の器がある。
だから、クラリスなど必要ない。
そう思っていた。
けれど。
違った。
自分の足元には。
十年間……ずっと一人の少女が敷き詰めてきた道があった。
クラリスがアシュレイ伯爵家へ戻ると、父親であるアシュレイ伯爵が出迎えた。
「おかえり、クラリス」
「ただいま戻りました、お父様」
「……殿下との婚約破棄」
「はい」
「本当に、これでよかったのか?」
「ええ」
クラリスは笑った。
「とても」
父は少し驚いた。
「お前は……あの方を愛していたのではないのか?」
「昔は」
「昔は?」
「七歳の頃は、大好きでした」
クラリスは窓の外を見る。
十年前。
王太子アルベルトが八歳。
クラリスが七歳だった頃。
初めて会った彼は、泣き虫だった。
剣術が苦手で。
魔法も上手く使えなくて。
何をしても第二王子と比べられていた。
『僕は王になれるのかな』
幼いアルベルトが、クラリスにそう尋ねたことがある。
『なれます』
『どうして?』
『だって、私が一緒にいますから』
クラリスは胸を張って答えた。
あのときの言葉を。
彼女は十年間、守り続けた。
王太子の勉強を支え。
社交界で味方を増やし。
彼が失敗すれば裏で処理し。
王太子府の財政が苦しくなれば実家に頼み。
地方貴族との関係が悪化すれば、自ら手紙を書いた。
彼が王になるためなら。
自分にできることは、何でもした。
それが婚約者としての役目だと思っていた。
けれど。
いつからだろう。
アルベルトはクラリスを見なくなった。
彼女が何をしているのか。
何を考えているのか。
知ろうともしなくなった。
代わりに。
最近はエレナという令嬢と笑っていた。
『クラリスは堅苦しいんだ』
『君は僕を支配しようとしている』
『僕は君の人形じゃない』
そんな言葉を何度も聞いた。
そして昨夜。
とうとう。
『君には王妃になる資格がない』
そう言われた。
だから。
クラリスは笑った。
「私、疲れてしまったのです」
父は何も言わなかった。
「ずっと、殿下に嫌われないようにしていました。殿下に王になっていただくために頑張ってきました」
「……ああ」
「でも」
クラリスは父を見る。
「もう、頑張らなくていいのですよね?」
「もちろんだ」
父は優しく笑った。
「よく頑張ったな」
その一言で。
クラリスの目に涙が浮かんだ。
「……はい」
けれど。
泣くのは。
今日だけにしよう。
明日からは。
自分のために生きるのだから。
婚約破棄から一週間。
王都では異変が起き始めていた。
「アシュレイ家が融資を打ち切った?」
「そうらしい」
「我が家にも返済を求める書状が来たぞ」
「うちもだ!」
アシュレイ伯爵家から資金を借りていた貴族たちは、次々に慌て始めた。
だが。
それだけではなかった。
「王太子殿下の視察が中止になった?」
「予算がないらしい」
「来月予定されていた地方訪問も?」
「延期だ。開発計画も延期だろうな」
「王太子府の職員も何人か解雇されたらしいぞ」
噂は瞬く間に広がった。
そして。
ついには国王の耳にも届いた。
「アルベルトを呼べ」
「はっ」
王の執務室。
父王の前に立ったアルベルトは、俯いていた。
「何が起きている?」
「……アシュレイ家からの支援が終了しました」
「なぜだ」
「私が……婚約を破棄しました」
「……」
国王は目を閉じた。
「この大馬鹿者が!!!」
「父上……」
「お前は一体何を考えている!」
「私は……」
「クラリス嬢は、お前のために何年尽くしていたと思っているのだ!」
「……」
「アシュレイ家がどれほどお前を支えてきたのか、もしや……知らなかったのか?」
「知りませんでした」
「それを恥じろ」
国王は机を叩いた。
「アシュレイ家が支えていたからこそ、お前は王太子として何とか立っていられたのだ」
「ですが、私は――」
「お前自身の力だと思っていたか?」
「…………」
「そう思わせていたのも、全てあの娘の優しさだ」
アルベルトは何も言えなかった。
「クラリス嬢は、お前が王になることを誰より望んでいた」
「……」
「だからこそ、自分が支えていることを決して口にしなかった」
「…………」
「お前は、その娘を自分から捨てた」
その言葉が。
アルベルトの胸に突き刺さった。
さらに二週間が経った。
状況はさらに悪化していた。
アシュレイ家から融資を受けていた貴族たちの中には、王太子派から離れる者まで現れ始めた。
「殿下にはついていけません」
「アシュレイ家の支援がなければ、我が家も立ち行きません」
「申し訳ありません」
一人。
また一人。
アルベルトの周囲から人が離れていく。
その頃。
王宮では、もう一つの問題が発生していた。
「エレナ嬢との婚約を正式に?」
国王の言葉に、アルベルトは頷いた。
「はい」
「却下する」
「なぜです!」
「今のお前に、妃を選ぶ余裕などない」
「しかし、私はエレナを愛しています!」
「愛?」
国王は冷たい目を向けた。
「王になる覚悟もない者が、何を言っている」
「……!」
「お前は、王になるということがどういうことなのか分かっていない!愛で民を救えるか!」
「私は――」
「自分を支えてくれる者を切り捨てることが、王のすることか?」
アルベルトは言葉を失った。
「エレナ嬢を妃に迎えるかどうかは、クラリス嬢との問題を整理してからだ」
「ですが、婚約はすでに破棄したではありませんか!」
「お前が一方的に破棄しただけだ」
「……」
「そして今さら、アシュレイ家に戻ってくれと頼むこともできん」
「なぜです!エレナを側室に、クラリスを正室にすれば……」
「恥を知れ」
国王は吐き捨てた。
「十年間支えてくれた者を、自分から捨てておいて、困ったから戻ってきてくれなどと言えると思うのか」
「…………」
アルベルトは。
初めて。
自分が取り返しのつかないことをしたのだと理解した。
その頃。
クラリスは王都から少し離れた場所にあるアシュレイ家の領地で、のんびりと暮らしていた。
「リナ?今日の予定は?」
「ありません」
「本当に?」
「本当に、です」
「……」
「どうしました?」
「いいえ」
侍女のリナは、少し嬉しそうだった。
クラリスの婚約者が王太子だった頃。
クラリスの一日は、朝から晩まで予定で埋まっていた。
王太子妃教育。
外交の勉強。
社交。
王太子府の書類確認。
贈答品の選定。
地方から届く陳情の整理。
それが。
全部無くなった。
「本日は何をしましょうか」
「庭で本でも読もうかしら」
「それだけですか?」
「それだけよ」
「まあ」
リナは笑った。
「こんなに暇なのは、十年ぶりですもの。しばらくはゆっくりするわ」
「ええ、お嬢様は忙し過ぎました」
そして。
庭へ向かった。
花が咲いている。
鳥が鳴いている。
風が気持ちいい。
以前なら。
そんなものを楽しむ余裕すらなかった。
クラリスは木陰の椅子に座り、本を開いた。
それはそれは穏やかな時間だった。
そんなある日。
「クラリス」
父が庭へやってきた。
「お父様?」
「王宮から使者が来た」
「……」
クラリスは本を閉じた。
「殿下からですか?」
「そうだ」
「何と?」
「会いたいそうだ」
クラリスは少しだけ考えた。
「……お断りします」
「それでいい。私もそう思う。そのまま帰らせても良かったが、一応……な」
「もう、私には関係ありませんから」
そう答えた。
けれど。
数日後。
王宮から再び使者が来た。
「アシュレイ伯爵令嬢に、国王陛下より正式な招待状です」
今度は断れなかった。
王からの呼び出しだからだ。
謁見の間。
クラリスは国王の前で膝をついた。
「顔を上げなさい」
「はい」
顔を上げる。
国王は、以前より少し疲れて見えた。
「クラリス嬢」
「はい」
「まず、謝罪したい」
「……」
「息子が愚かなことをした」
「国王陛下が謝られることではありません」
「いや」
国王は首を横に振った。
「親として、王として、止めるべきだった」
「あれは殿下が独断で押し進めたと聞いております。陛下が謝ることではありません」
「すまない……。アルベルトは、お前を取り戻したいと言っている」
「……お断りします」
「そうだろうな」
国王は苦笑した。
「私も、そう思っていた」
「では、なぜ?」
「一つだけ、頼みがある」
「何でしょう?」
「お前がアルベルトを支えていたという事実を、本人に伝えてやってほしい」
「……」
「私は、あいつに王になってほしい」
「……はい」
「だが今のままでは、無理だ」
国王は深く息を吐いた。
「クラリス嬢がいなくなって、初めてあいつは気づいた。自分一人で歩いていたわけではないことを」
「……」
「だから、一度だけ会ってやってくれないか」
クラリスはしばらく黙った。
「……分かりました」
「ありがとう」
「ただし」
「何だ?」
「復縁の話なら、お断りします」
「もちろんだ」
クラリスは立ち上がった。
王宮の庭園。
そこにアルベルトはいた。
「……クラリス」
「お久しぶりです、殿下」
アルベルトは以前とは違っていた。
華やかな衣装も。
自信に満ちた表情も。
今はない。
「来てくれたんだな」
「国王陛下に頼まれましたから」
「そうか」
二人の間に沈黙が落ちる。
「……謝りたい」
「はい」
「本当に、すまなかった」
「……」
「私は何も知らなかったんだ」
「そうでしょうね」
「君が私のためにしてくれていたことも」
「ええ」
「君がどれほど努力していたのかも」
「ええ」
「全部、自分の力だと過信していた」
「……」
「今思えばどうしようもない馬鹿だった」
クラリスは何も言わない。
「君がいなくなってから、私は何もできなくなった」
「それは違います」
「違う?」
「私がいなくても、できることはあります」
「……」
「殿下が本当に王になりたいのなら」
クラリスはまっすぐ彼を見る。
「これからは、ご自身で努力してください」
「……」
「私はもう、あなたを支えません」
アルベルトは俯いた。
「ああ、分かっている」
「それと」
「何だ?」
「私に戻ってきてほしいと思わないでください」
「……」
「私はもう、王妃になりたいとは思いません」
「……分かった」
アルベルトの声が震えた。
「クラリス。君に……幸せになってほしい」
「ありがとうございます」
クラリスは微笑んだ。
「では、これで」
「クラリス」
「はい?」
「最後に一つだけ聞きたい」
「何でしょう?」
「君は……私を嫌いになったか?」
クラリスは少しだけ考えた。
「いいえ」
「……」
「嫌いではありません」
「なら――」
「ただ」
クラリスは静かに続けた。
「もう、愛してもいません」
アルベルトは目を閉じた。
「そうか」
「はい」
「……今までありがとう」
「こちらこそ」
クラリスは一礼した。
そして今度こそ、振り返らずに歩いていった。
それから一年。
アルベルトは変わった。
王太子府の財政を自ら確認し。
地方へ足を運び。
貴族たちの話を聞き。
民の暮らしを知ろうとした。
最初は誰も期待していなかった。
けれど。
少しずつ。
彼を評価する者が増えていった。
アシュレイ家の支援がなくても。
自分の力で。
少しずつ道を作り始めた。
そして数年後。
アルベルトは正式に王位を継いだ。
戴冠式の日。
新王アルベルトは、王宮のバルコニーから王都を見渡した。
その人混みの中に。
一人の女性がいた。
クラリスだった。
隣には、彼女の夫がいる。
アシュレイ家と長年付き合いのある、穏やかな青年だった。
クラリスは幸せそうに笑っている。
その笑顔を見て。
アルベルトも微笑んだ。
――ありがとう。
声には出さなかった。
クラリスにも聞こえなかっただろう。
けれど。
きっと。
それでいい。
彼女はもう。
自分を支えるために生きる必要などないのだから。
戴冠式から数日後。
王宮に、一通の手紙が届いた。
差出人はクラリス。
アルベルトは静かに封を開いた。
そこには、短い言葉だけが書かれていた。
『陛下、ご即位おめでとうございます』
そして。
『これからは、どうかご自身の足でお歩きください』
最後に。
『私はもう、安心して自分の人生を歩めます』
アルベルトは手紙を読み終えると、大切に机の引き出しへしまった。
あの日。
婚約破棄を告げたとき。
クラリスは笑った。
誰もが。
失恋の衝撃でおかしくなったのだと思った。
でも実際は違った。
あの笑顔は……十年間背負ってきた重荷から解放された喜びだった。
彼女は。
最後に一度だけ。
自分を支えてくれた少女から、一人の女性へ戻ったのだ。
もう。
誰かのために笑う必要はない。
誰かの未来を背負う必要もない。
誰かに必要とされるために、頑張る必要もない。
これからは。
自分のために笑えばいい。
――そして。
アシュレイ領の春。
満開の花畑の中で。
クラリスは笑っていた。
「綺麗ですね」
「ああ」
隣にいる夫が答える。
「来年も見に来よう」
「はい、楽しみにしています」
クラリスは頷いた。
その笑顔には。
もう王太子の姿を探すことも。
国の未来を心配することも。
なかった。
ただ。
一人の女性として。
自分の人生を楽しむための笑顔だった。
かつて彼女が支えた王は。
もう一人で歩いている。
そして彼女も。
もう一人で歩ける。
だからあの日の笑顔は。
婚約破棄を喜んだ笑顔ではなかった。
十年間の役目を終えた、一人の令嬢の。
――自由への、最後の一歩だった。
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