遺書
果つ薊 かみもまにまに あきつらら
ちにももどらぬ 栄枯の命
文人にとって現代はどうであろうか。文人として死なぬように生きてきたが、今なお、生きていると言い合える狢は、果て何人いるのだろう。仕事柄、というより、世俗と距離をとり世の流れを観測する仕事柄、やはり同族は減っている。もしかしたら私のネットワークにいないだけなのかもしれないが。
哲学とは数学とは、極論、知とは、ある個人という、高層認知資源の端であって、その真理とは傍かも系統のように見えて、本質的には自己完結する論である。この知らぬ裾野が広がる狭間で、人は自己の追求を成すことができていない。要は節目だ。節目を節目として噛みしめる、時間、いとまがないのだ。浅いものが増えてしまった。学問の基底がほぼ統一されて四半世紀。より細かく、より階層を増やしただけの基盤によって、世界の最適化、さらには個人の最適化が行われている。
十年も前であれば、陰謀論だのプロパガンダだの抵抗する一派や強かに受け入れることを拒絶していた芸術家はいたが、事実、圧縮論理に基づくオーダーメイドの人生指標と、産業の身代わり。受け入れないことが馬鹿らしくなるほど、完成され、自動月歩していく日進の中で。人類のほとんどが隣人より、デジタル越しの誰かに執着している。
最適化や効率化の果てに歩き続ける人たちは気づかない。果てにあるのは永続的な停滞だ。死なぬように激情を生み続ける私から言わせれば、永続だの停滞などは死だ。すべてを最適化された世界で君たちは何を望む。臨んだ結果がこの無知の無様で無価値の情報社会だ。まだ最適化の途中であるのにだ。無意味に無価値に生の意味を押し付け、虚無に熱意を注いでいる。
無価値に意味がない訳じゃない。しかし、生来の営みを放棄して、無駄な知、取り扱えない情報量、ありふれた虚構的な自由。最適化という怪物は私たちを無意味にしていく。
無意味に成り下がった私たちは加速していく。停滞の中を加速していく。すなわち、無意味で無駄な大量消費が始まる。馬鹿だから笑える。無知だから笑える。分かってしまえば笑えない。賢くなったら要らない。停滞の中を泳ぐ智の魚は見栄えこそ、初めこそ美味しい。しかし、所詮、停滞を泳ぐ魚。発展も進行もない。搔い摘んでは吐き捨てるだけの生活。これが現代だ。私たちは馬鹿だ。最適利便全能性に捉われて、生きるに値する価値を、波の中を踊る魚を失ったのだ。
今こそ、捨てる時なのかもしれない。未来に進歩をもたらすために。激動を今一度。文人に生を。




