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お見通し令嬢は騎士にレモンを添える

作者: 佐久矢この
掲載日:2026/06/07

降り注ぐ午後の陽光が、ベルン侯爵邸のサンルームを淡い金色に染め上げていた。


テーブルの上には、ガラスの器にたっぷりと満たされた黄金色のはちみつ。

その中に沈む薄切りのレモンは、光を透かして瑞々しく輝いている。


グレーテは銀のトングを丁寧に扱い、それをひとつ紅茶の中に落とした。

ついでに向かい側で難しい顔をしている男の紅茶にも沈める。


「――というわけだ。すまないが、秋の結婚は先延ばしにしたい」


対面に座るエトガルの声は、氷のように冷たく、そして酷く硬かった。


淡い水色の双眸はどこか強張り、仕立ての良い上着の肩は、まるでグレーテと向き合うこと自体が酷な労働であるかのように突っぱねられている。


その切れ上がった双眸はグレーテを直視せず、わずかに視線を外して、彼女の背後にある飾り棚のあたりを無味乾燥に睨みつけていた。


その場に控えていた給仕のメイドが、息を呑む気配がした。

実はこの延期、すでに三度目だ。


一度目は彼の所属する騎士団の遠征を理由に。

二度目は領地の不作に伴う政務を理由に。

数々の言い訳を並べ立て、今回は明確な理由すら口にされない、ただの「延期」の通達。


年頃の令嬢にとって、度重なる婚約の延期がどれほどの不名誉か。


周囲の者が「また男側の都合で……可哀想に」と、同情と憐憫の混じった視線をグレーテに注ぐのも無理はなかった。

メイドの握るトレイが、微かに震えている。


しかし、グレーテはトングをそっと置き、いつもと変わらぬ手つきでレースのハンカチを手に取った。

指先についたわずかな蜜を、急ぐ風でもなく丁寧に拭う。


「まあ。それは仕方がないわね、エトガル様」


グレーテの唇から漏れたのは、波ひとつ立たない穏やかな声だった。


その顔には、怒りも、悲しみも、あるいは男を責め立てるような陰りすらもない。

ただ、春の陽だまりのような微笑みが、そこに静かに佇んでいるだけだった。


「仕方が、ない……?」


エトガルの眉間が、ぴくりと跳ねた。

その拳が、ズボンの上で白くなるほど強く握り締められる。


「君は、それでいいのか。俺がまた約束を破ったのだぞ。怒るなり、理由を問い詰めるなりしたらどうなんだ。それとも、俺との婚姻など、その程度のものだと思っているのか」


叩きつけられるような棘のある言葉。



背後に控えるメイドが、恐怖で身をすくめる。

誰の目から見ても、エトガルは不誠実で、身勝手で、婚約者を軽んじている冷酷な男そのものだった。


けれど、グレーテはうっとりとした、まるで夢でも見ているかのような瞳でエトガルを見つめ返した。


「そんなに怒らないで、エトガル様。あなたがお忙しいのは、それだけお国のために大切な役目を果たされているということですもの。私はいつまででも、ここでお待ちしておりますわ」


グレーテがおっとりと笑う。


「……ふん。相変わらず、緊張感のない女だ。では、これで失礼する」


彼は椅子の背を乱暴に引き、踵を返した。


長いマントを翻し、早足でサンルームを去っていくその後ろ姿は、まるで何かから逃げ出すかのようにも見える。


バタン、と重厚な扉が閉まる。


「グレーテお嬢様……っ、あんな言い草、あんまりですわ!」


こらえきれなくなったメイドが、涙ぐみながら駆け寄ってきた。


「エトガル様は、お嬢様の優しさに甘えていらっしゃるのです! いつも冷たく突き放して、ご結婚を先延ばしにするなんて……お嬢様があまりにも可哀想ですわ!」


グレーテはただ、クスクスと上品に、だけどすべてを見透かした目で微笑むだけだった。


「怒ったエドガル様も素敵だったわね。私に相手にされていないような気がするからって、すねていらしたわね」

「え」


メイドが絶句するのにもおっとり目じりに皺をつくって、グレーテは紅茶を一口ふくんだ。



「彼、すごく疲れた顔をしていたでしょう? きっと今、とても大変な壁と戦っているのね。……あのはちみつ漬け、彼の大好物だから、もっとたくさん仕込んでおきましょうね」


そう言って小首を傾げるグレーテを見て、メイドは「ああ、お嬢様は完全に心を病んでしまわれたのだわ」と、さらに深い哀れみの視線を向けるのだった。







きらびやかなシャンデリアの光が、王宮の大夜会会場を埋め尽くす貴族たちを眩しく照らし出していた。


オーケストラが奏でる軽快なワルツの調べ、上質なシルクのドレスが擦れ合う擦過音、そして扇子の影で交わされる密やかな囁き。


そんな華やかな喧騒の中心から少し外れた壁際で、グレーテは一人、手元に持った果実水のグラスをそっと揺らしていた。


その視線の先には、ひときわ目を引く一団がある。

漆黒の騎士礼服に身を包んだエトガルだった。


彼は数人の高位貴族の男たち、そして、深紅のドレスを艶やかにまとった美しい夫人と、深刻な面持ちで密談を交わしている。


時折、夫人が扇子で口元を隠しながらエトガルに顔を近づけ、エトガルもまた、彼女の言葉に耳を傾けていた。


その距離は、夜会の場にしてはあまりにも親密で、不穏だった。


(あら、エトガル様……)


グレーテはいつものおっとりとした歩調で、彼らのもとへ近づこうと歩みを進めた。

彼は王子付きの騎士として参加するため、婚約者としてエスコートしてもらうことはなかったが、夜会の場で挨拶をするのは当然の礼儀である。


しかし、彼女が数歩近づいたその瞬間。

エトガルは鋭い視線をグレーテへと走らせた。


その双眸に宿る光は、まるで不審者を睨みつけるかのように冷徹で、容赦がない。

彼は大股でグレーテとの距離を詰めると、周囲にも聞こえるような低い、突き放すような声で言い放った。


「……何の用だ、グレーテ。見て分からないのか。私は今、重要な仕事の話をしている。公私の区別くらいつけてもらいたいものだな。向こうへ行っていろ」


あまりにも冷酷な物言いに、近くにいた令嬢たちが小さく悲鳴を上げた。

エトガルの背後に佇む艶やかな夫人は、黙って扇を広げた。

普通の令嬢であれば、屈辱に顔を赤く染めて泣き崩れるか、怒ってその場を立ち去る場面。


だが、グレーテはただ困ったようにふんわりと微笑み、エトガルを見つめ返した。


その瞳は、冷たくあしらわれた悲しみなど微塵も映しておらず、むしろ「今日も相変わらずね」とでも言いたげな、深い慈愛に満ちている。


「まあ、お仕事中でしたのね。お邪魔をしてしまってごめんなさい、エトガル様。ゆっくりお話しなさってくださいね」


グレーテは嫉妬に狂うでもなく、取り乱すでもなく、ただ優しくにこにこと笑って、一歩下がって優雅に一礼した。


「ちょっと、グレーテ様!なんなのですか、あれは! あんまりだわ!」


エトガルから離れた直後、一部始終を見ていた友人の令嬢が、怒りに顔を上気させてグレーテの手を引いた。


「エトガル様、いくらなんでも酷すぎるわ! 理由も言わずに結婚を先延ばしにした挙句、あの妖艶なアルデンス公爵夫人とべったりだなんて……! 完全にあなたを軽んじているのよ。もっと怒ったほうがよろしいわ」


友人の言葉はもっともだった。


周囲の女性たちも、一斉にグレーテへ同情の目を向ける。


しかし、グレーテはふわりと小首を傾げると、夢見がちな少女のような、どこか熱を帯びた、だけど完全に周囲と噛み合っていない「根拠のない全肯定」を口にした。


「でも、彼にものっぴきならない事情があるはずよ。……だって、あのエトガル様が私を嫌うなんて、天地がひっくり返ってもあり得ないもの。ねえ、そうでしょう? 私たちの絆は、誰にも引き裂けないのですわ」

「え……?」


友人は絶句した。

周りの令嬢たちも、引きつった笑みを浮かべたまま、じりじりと後退りしていく。


誰もが心の中で確信していた。


――ああ、この子、重い。


完全に恋の病におかされて、都合のいい現実しか見えなくなっているのだわ、と。

哀れみを通り越した、強烈な「ドン引き」の空気がその場を支配する。

グレーテは果実水を口に含みながら、遠くで再び密談に戻ったエトガルの横顔を見つめた。


(横顔も優雅で素敵だわ)


「グレーテ様、あなた……本当に大丈夫ですの?……辛いときは、お話を聞くくらいは私にもできますのよ」


心配と恐怖の混じった目で覗き込んでくる友人に、グレーテは再び、おっとりとした無害な令嬢の微笑みを張り付けた。


「まあ。ありがとうございます。でも、なにも問題ありませんわ。あ、そうだわ。実家で漬けているレモンのはちみつ漬け、そろそろ食べ頃なんですのよ。今度のお茶会に、持って行きますわね」


そう言ってのんびりと笑うグレーテを見て、友人は確信した。


この可哀想な友人は、恋は盲目という言葉を地でいっているのだ、と。





数日後、貴族の貴婦人たちがお茶会を催す庭園には、色とりどりの薔薇が咲き誇っていた。


その片隅、ガゼボに集まった友人たちは、用意された極上の紅茶にも目もくれず、憤慨した様子で扇子を机に叩きつけていた。


「もう聞いていられないわ! グレーテ様、また結婚を先延ばしにされたのですって!?」

「いい加減に文句を言った方がよろしいわ! 婚期を逃したらどうしますの」

「そうですわ。この間の舞踏会でも、あの妖艶な公爵夫人とずいぶんと親し気だったそうじゃありませんか」


口々にエトガルへの非難を連ねる友人たちを前に、グレーテは困ったように眉を下げた。


「でも、仕方がありませんわ。この前もね、実家で父に『いつまで家にいる気だ。お前がのんびりしているから、あんな風にいいようにされるのだ』って、ずいぶん怒られてしまいましたの」

「まあ、ベルン侯爵閣下があなたを責めるのはお門違いだわ」

「なんて可哀想なグレーテ様……。あの男の身勝手のせいで、実の父親にまで責められるなんて!」


父親からの小言というエピソードが加わり、友人たちの同情は最高潮に達した。


グレーテはにこやかに笑うと、テーブルの上の黄金色の瓶を愛おしそうになでた。


「ですから、結婚の準備がなくなって、お時間が空きましたのよ。家にいる間にこれをたくさん作っておこうと思いまして。ああ、このレモン、はちみつ漬けにしていますの。皮の苦味をとるのが少し大変でしたの」

どこまでもマイペースに微笑むグレーテに、友人たちは言葉を失う。


――重症だ。


悲しみのあまり、完全に現実から目を背けてレモンの話をしているのだわ、と彼女たちが哀れみの視線を交わし合った、その時だった。


「――ごきげんよう、皆様。少し、お仲間に入れていただいてもかしら?」


ガゼボの入り口に現れたのは、先日の舞踏会でエトガルと密談していた、例の妖艶なアルデンス公爵夫人だった。


齢は三十歳ほどだったはずだが、美しい黒髪と不思議な緑色の瞳が印象的で、いかにもふっくらとした胸は薄黄緑のドレスに隠されて、それが逆に禁欲的で魅力のひとつになっている。


一瞬にしてお茶会の空気は凍りついた。


友人たちは、あからさまな敵意こそ見せないものの、どこか身を固くして、グレーテを庇うように心配そうな視線をそっと交わし合う。


そんな張り詰めた静寂の中、夫人は周囲を警戒するように素早く見回すと、まっすぐにグレーテの隣へと歩み寄った。


そして、夫人は自身の髪に飾られていた一輪の美しい花をそっと外し、グレーテの手へと滑り込ませた。

それは、炎のように鮮やかな赤と黄色の花びらが反り返った、風変わりな花――グロリオーサだった。


「これは、あなたにしか託せないの」


夫人は、周囲にはただの世間話にしか聞こえない小声で囁いた。

切迫した状況でありながら、その声までどこか妖艶なのだわ、とグレーテは内心で感心する。


「この花の輝きを、エトガル様へ……。しばらく、私は舞踏会には出られそうにないの。だから、今夜の舞踏会で、これをあの方に渡してくださる?」


手渡されたグロリオーサの、肉厚な茎の硬さ。


「グレーテ様、そのような……」


友人たちがそっと声をかけ、止める間も無く、グレーテは優しくにこにこと笑って、そのグロリオーサをそっとドレスのポケットに隠した。


「ええ、承りましたわ。お預かりいたします。エトガル様へ、必ずお渡ししますね」

「ありがとう……。お願いね、グレーテ様」


夫人は深く感謝するような目を一瞬だけ見せると、風のように去っていった。


残されたガゼボには、絶望的な沈黙が流れていた。

友人たちは、声を荒げることすら忘れて深く嘆息し、涙ぐみながらグレーテの手をそっと握りしめた。


「グレーテ様、あなた……どこまでお心が広くていらっしゃるの……」

「自身に見立てた花を、あなたの婚約者に渡せだなんて……おいたわしくて見ていられませんわ……」


悲痛な表情の友人たちに「大丈夫ですわ」とつぶやいて、グレーテはやっぱり、おっとりと微笑むだけだった。


「ですがやはり、早めに手は打つべきですわね。レモンが漬かりすぎては元も子もありませんもの」






その夜、夜会の喧騒の中、エトガルは内心で激しい焦燥に駆られ、いつにも増していかめしい顔で周囲を睨みつけていた。


(――頼むから、俺の言う通りに大人しく安全な場所にいてくれよ、グレーテ)


アルデンス公爵の王太子暗殺計画は、いよいよ最終段階に入りつつある。

公爵は、自分の動きを嗅ぎ回るエトガルの「弱み」を探していた。


その矢先がグレーテに向かうことだけは、何が何でも阻止しなければならない。

だからこそ、あえて公の場で彼女を徹底的に冷遇した。


結婚も延期し続けた。

すべては「俺はあの女に興味はない、人質に取っても無駄だ」とアルデンス公爵に思い込ませるための、命がけのブラフだった。


だが、本音を言えば――冷たく突き放すたび、エトガルの心臓は罪悪感と恥ずかしさで爆発しそうになっていた。


ただ、アルデンス公爵の刺客が、なにかと見張っているのだ。

できるだけぼろを出すような真似はしたくなかった。


(本当は、今すぐにでも抱きしめたい! 世界で一番愛していると叫びたいのに、なんで俺はあんなに冷たい言い方しかできないんだ……!)


元来が超のつく天邪鬼で不器用な男なのだ。


エトガルは公爵の刺客のせいにしてはいるが、正直なところ、まったくそのようなことはない。


幼馴染である彼女を前にすると、好きすぎるあまり緊張し、素直になれず、口から出るのは可愛げのない毒舌ばかり。


公爵邸のサンルームで「婚姻を先延ばしにしたい」と告げた時も、厳めしい顔をしていなければ、彼女の顔を直視することすらできなかった。

だって、グレーテがあまりにも可愛いから。


淡い蜂蜜色の髪に、春の陽だまりのような淡い桃色の瞳。


初めて会った十歳のあの日、瞳と同じ桃色のワンピースの裾を揺らして微笑む彼女を見たエトガルは、「天界から天使が落ちてきたのか」と本気で衝撃を受けたのだ。


十年経ち、天使はなんと女神に成長した。


そんな愛しい人が、自分の冷酷な言葉に傷つきもせず、うっとりと見つめ返してくるのだ。

恥ずかしさと愛おしさで頭がおかしくなりそうだった。


(あいつは何も知らない、ただの純粋で無害な、俺を信じきっている女神だ。俺が冷たくすれば、今頃は実家で泣いているか、俺に愛想を尽かしているはず……。それでいい。俺がどんなに悪者になろうと、あの天使の笑顔だけは、俺が命に代えても守る!)


己の孤独な覚悟に酔うように、エトガルは表情をさらに険しく引き締めた。


だが、彼には一つだけ致命的な誤算があった。


彼が彼女を突き放したせいで、周囲の護衛たちが「もうベルン公爵令嬢を守る必要はない」と勘違いし、警備を薄くしてしまっていること。


そして何より、肝心のグレーテ本人が、泣くどころか「マイペースにレモンを漬けながら、彼の作戦をすべて見切っている」という事実だった。

そんな中、最近不穏を極めている王宮で開催された、緊迫の舞踏会。


エトガルは近衛兵を率い、会場の警備にあたっていた。


視線の先には、貴族たちと談笑する王太子の姿。

ピリピリとした緊張感の中、エトガルが東翼の回廊を巡回していたその時、王宮の使用人がすっと音もなく近づいてきた。


「エトガル様。これをお渡しするようにと言付かりました」


手渡されたのは、一輪の奇妙な花だった。

炎のように鮮やかな赤と黄色の花びらが反り返った――グロリオーサ。


「……! これは、アルデンス夫人からか?」


エトガルは息を呑んだ。


「いえ、アルデンス夫人からこの花を直接預かったそうで、先ほど、エトガル様へ届けるよう私に言いつけられたのは――ベルン侯爵令嬢にございます」

「なっ……何だと!?!?」


エトガルの脳裏に、凄まじい衝撃が走った。

グロリオーサの花言葉は『前進』。

つまり、「計画が動く、危険な状態だ」という裏のメッセージだ。


「なぜグレーテが! 彼女は今どこにいる!」

「ベルン侯爵令嬢は、先ほど、一人の時間を過ごしたいと、西翼のテラスへ向かわれました」

「なっ――!」


エトガルは血の気が引いた。


(なぜ、よりによって一番警備の薄いテラスに……! 華翼の間のここからなら、それほど時間はかからないが…あいつは何も知らないおっとりした、守られるべき俺の天使なんだ、いやあのはちみつ色の髪は女神からの祝福!そしてあの春の女神の化身のような美しくも優しい、まなざしは…)


頭が混乱で脱線しそうになっていたエトガルは、はっと開眼すると、頭を振って叫んだ。


「俺に続け! 西のテラスへ急ぐ!」


エトガルは漆黒のマントを翻し、抜剣しながら、最短ルートの回廊を狂ったように走り出した。


そのテラスで、グレーテが「うん、時間通り」と優雅に自分の足音を待っているとは、夢にも思わずに。







時はさかのぼること10分前。

グレーテは西翼のテラスから見える薔薇の庭を楽しんでいた。


本日のこの公の場では、エトガルはグレーテと顔を合わせても、彼は挨拶すら交わさず、まるでそこに存在しない石ころであるかのように彼女を無視した。


周囲の貴族たちは「いよいよベルン公爵令嬢も、完全に捨てられるのだわ」と囁き合い、彼女に近づくことすら避けるようになっていく。


きらびやかな音楽の裏で、グレーテはアルデンス夫人から託された重みを感じていた。

その『前進』を意味する花は、先ほど使用人にエトガルへ渡すよう言づけた。


会場の喧騒を離れ、彼女は静かに、人気のないテラスへと歩みを進める。


(エトガル様なら、あちらの華翼の回廊から、私の護衛の隙を突いてここに駆けつけられるはず。……よし、動線は完璧ね)


彼女は友人たちと離れて、「少し一人で風に当たりたいの」と、わざと警備の手薄なテラスへ向かった。

もちろんこの言葉は、エトガルに花を届けさせた使用人の前で言ったものだ。


一見すると、恋に傷ついた哀れな令嬢のセンチメンタルな行動。

だがその実、彼女はエトガルが確実に乱入できる「最短かつ他人に目撃されないルート」をあらかじめ冷徹に計算し、舞台を整えていたのだ。


「――おや、こんなところで一人、涙を拭っているのかな? ベルン公爵令嬢」


静寂を破るように、低く粘り気のある声が響いた。

テラスの闇から姿を現したのは、アルデンス公爵――王太子の叔父であり、この陰謀の首謀者。

昨日のお茶会で、妻である夫人の不穏な動きを察知し、尾行を付けていた男だった。


あの場で控えさせていたベルン侯爵家の使用人は、グレーテの護衛の任も受け持つ手練れだ。

あのお茶会の給仕に何人かおかしな人間がいることをグレーテは使用人から報告されていた。


そこにきての、アルデンス公爵夫人からの接触。

あの状態では、夫人はグレーテに託すしかなかっただろう。

グレーテがその花の意味をきちんと理解するだろうと考えたのは、女の勘なのか、危機にある人間の必死さのなせた業か。


アルデンス公爵は、蛇のような目でグレーテをねめつける。


「少し話をしないか。エドガル殿と妻のあの様子には、君も気が気じゃないだろう」


探るような、悪意に満ちた揺さぶり。

グレーテは取り乱すことなく、おっとりとした微笑みを浮かべたまま一蹴した。

 

「そんなことはないはずですわ。私のエトガル様が、そんな不誠実なことをなさるはずがありませんもの」


そのあまりに超然とした態度に、アルデンス公爵は不審の目を向けた。

そして、グレーテがさりげなくドレスのポケットを押さえた指先に、鋭く視線を走らせる。


「……ほう。そのポケットにあるものは何だ? 妻が君に託した、余計な玩具かな」


アルデンス公爵が、優雅な仕草でグレーテに向かって手を伸ばす。

そのポケットに、夫人から受け取った、公爵にとって不利な証拠でもあると思っているのだろうか。


まあ、そう見せるためにわざと指を添えたのはグレーテなのではあるが。


「君も運がないな。あの女から何も受け取らなければ、ここで命を散らすこともなかっただろうに」


公爵の袖口から、鋭利な短剣が滑り出た。

冷たい刃が、街灯の光を反射して怪しく光る。


完全に孤立した人気のないテラス。


薄薄な護衛。

絶体絶命の危機。


迫り来る刃を前にしながらも、グレーテの心臓は驚くほど冷静に、規則正しく脈打っていた。


(うん、時間通り。――そろそろね、エトガル様)

彼女は「怯える女」の仮面を被りながら、愛しい婚約者の足音を、その耳で確かに捉えていた。






夜の闇を切り裂くように、鋭い鉄の擦過音が響き渡った。


「そこまでだ、アルデンス公爵!」


テラスのガラス扉が内側から激しく打ち破られ、幾重もの足音がなだれ込む。

先頭に立っていたのは、抜剣したエトガルだった。


彼の背後には、彼が密かに率いていた精鋭の近衛兵たちが一斉に展開し、瞬く間にアルデンス公爵を包囲する。


「な、何っ……!? なぜここに――」


狼狽する公爵が短剣を突き出すよりも早く、エトガルは容赦なくその手首を蹴り上げ、武器を叩き落とした。


骨の砕ける鈍い音とともに、公爵が床に転がる。

兵たちが一斉に群がり、抵抗する間も与えずその体を組み伏せた。


完璧なタイミングで踏み込んできた騎士。


しかし、背後の脅威を取り除いたエトガルがグレーテを振り返った時、その顔は勝利のそれとは程遠かった。


激しい怒りと、それ以上に深い恐怖。

限界まで血の気の引いた真っ青な顔で、彼は肩を荒く上下させながら、思わずグレーテに向かって叫んでいた。


「来るなと言っただろう……! なぜいつも、俺の言うことを聞かない!」


怒声が静かなテラスに響き渡る。


刃を突きつけられ、今まさに殺されかけた直後。

並の令嬢であれば腰を抜かして泣き叫ぶような修羅場だというのに、グレーテは至って冷静だった。


彼女は乱れたドレスの裾を小さく整えると、ふわりと首を傾げて返す。


「ええ。何か事情があるのだろうとは、ずっと思っていましたけれど」


そのあまりに緊張感のない、いつも通りの微笑みに、エトガルはまるで見えない壁に衝突したかのように言葉を詰まらせた。






事態は急速に収束へと向かった。


グレーテが命がけで(実際のところは散歩のついでに)囮になったことにより、実行犯として騎士団によって連行された。


その後、アルデンス公爵家に監査が入ったことにより、暗殺計画の証拠はいくつか見つかったらしい。


その一部は、アルデンス公爵夫人が秘密裡に隠していたもので、これに勘づいた侯爵によって厳しい監視の目を付けられていた夫人は自由になった。

実家に引き取られたそうだが、その後は領地に引きこもっているそうだ。


一度、グレーテ宛てにお礼と危険なことに巻き込んだことへのお詫びが長々と書かれた手紙が届いた。


なんでもアルデンス公爵は夫人に暴力をふるっていたとのことで、夫人としては復習の意味もあったのだろう。


かくして、アルデンス公爵による王太子暗殺計画は完全に未然に防がれた。

陰謀の首謀者とその一派は一網打尽にされ、王宮を揺るがした不穏な空気は一瞬にして霧散した。


――そして、数日後。 かつて三度の結婚の再延期を告げられた、あの公爵邸のサンルーム。


窓外には穏やかな青空が広がり、テーブルの上には変わらず、蜂蜜に美しく浸かったレモンが並んでいる。

エトガルは、痛々しいほど悲痛な面持ちで頭を下げていた。


その拳は膝の上で固く握りしめられ、広い肩が微かに震えている。


「……すまなかった」


それは、十年間分の苦悩を凝縮したような、重く絞り出された謝罪だった。


彼女を陰謀から遠ざけるためとはいえ、冷遇し、社交界で寂しい思いをさせ、恥をかかせ、挙句の果てには命の危険にまで晒してしまった。


対面に座るグレーテは、紅茶のカップをそっと置くと、本気で不思議そうに首を傾げた。


「何がですの?」

「何がって……」


エトガルは顔を上げ、困惑した表情を見せた。


(そういう表情も可愛らしくて素敵だわ)


グレーテは役得だわと微笑んだ。


「婚約を何度も延期して、お前を突き放して、冷たい言葉ばかり浴びせて、待たせ続けたことだ。俺が、お前にどれほど酷いことをしたか……」


エトガルの悲痛な訴えに対して、グレーテはぽつりと呟いた。


「そんなことですか」

「そんなこと、だと……!?」

「ええ。危険だったのでしょう? あなた、昔からそうですもの。十二歳の時に街外れの橋が崩れた時も、十四歳の時に暴れ馬が突っ込んできた時も、去年の春に盗賊が出た時も――あなたはいつも私に『あっちへ行っていろ』と同じことをおっしゃいましたわ」

「……っ」

「だから、今回も何かそういう、私を遠ざけなければならない理由があるのだろうと思いましたの」


サンルームに、張り詰めたような沈黙が流れた。

エトガルは口を微かに開けたまま、彫刻のように固まっている。


彼が必死に演じていた「冷酷な婚約者」の意図は、彼女にとってただの『いつものパターン』でしかなかったのだ。

「……気付いていたのか」


カサカサに乾いた声が、エトガルの唇から漏れる。


「ええ」

「いつからだ」


グレーテは人差し指を顎に当て、楽しそうに少しだけ考える仕草をした。


「十歳くらい?」


エトガルは、今度こそ完全に絶句した。


十歳のあの日、暴れ馬から彼女を突き飛ばして守ったあの時から。彼は彼女を巻き込むまいと、己の全精力を懸けて不器用な「冷たい男」を演じ続けてきたつもりだったのだ。


その十年間におよぶ孤高の苦悩も、孤独な騎士の覚悟も――そのすべてが、最初から彼女に完全に見破られていたのだった。


己の十年間におよぶ孤高の苦悩が、初手からすべて筒抜けだった。


その事実を突きつけられたエトガルは、魂がどこかへ抜けてしまったかのように呆然と立ち尽くしていた。


張り詰めていた肩の線は見る影もなく崩れ、彼は青ざめた顔のまま、震える声で問いかける。


「……どうして、俺なんだ。俺のような不実な振る舞いをする男ではなく、もっとまともな男が、他に行くだらけいただろう」

「ええ、いましたわ」


グレーテは迷うことなく、あっさりと頷いた。


肯定されると思っていなかったエトガルは、目に見えてガーンと衝撃を受け、傷ついたように胸元を押さえる。

そんな彼の様子をおかしく思いながらも、グレーテはそっと声音を和らげた。


「でも。あなたほど、命を懸けて私を大切に守ってくださる方は、他には誰もいませんでした」

「俺が、お前を大切に……? どこがだ。俺はお前に冷たい言葉を浴びせ、傷つけ、遠ざける言い方しかできなかったんだぞ」


本気で困惑している婚約者を見つめ、グレーテは少し呆れたように、ふうと小さく溜息をついた。


「エトガル様。私も馬鹿ではありません。本気で言っているか、言っていないかくらいは、顔や行動を見れば分かりますわ。どうして私がそこまでしてくれるのか分からない、なんて……そんな簡単なこともわからないのですか?」


グレーテに真っ直ぐに見つめられ、エトガルは視線を彷徨わせた後、自信なさげに呟く。


「……君が、優しいから、か?」


その的外れな答えに、グレーテはついに小さく吹き出した。くすくすと鈴を転がすように笑い、それから、諭すように彼の手元へ視線を落とす。


「人は共感性の高い生き物です。好意を向けられれば好意を返したくなりますし、悪意を向ける人を好きにはなれません。答えはとても簡単です。私があなたを好きで、貴方も私が好きだからです。言葉がどれほど冷たくとも、あなたの行動そのものが、十年間ずっと私に最高の愛を注いでくださっていましたわ」


言葉という不確かなものではなく、「命を懸けて自分を遠ざけ、守ろうとしてくれた十年間という行動」そのものを、グレーテは誰よりも正しく受け取っていたのだ。







すべてを優しく包み込むようなグレーテの笑顔を前にして、エトガルはついに、完全に降参したように深く息を吐き出した。


これ以上、彼女の前で頑なな仮面を被り続けることなど、到底不可能だった。


「……かなわないな。もう、結婚の延期はなしだ。すぐに、式を挙げる」


降伏宣言のようでありながら、そこには確かな熱がこもっていた。

グレーテは嬉しそうに目を細め、満面の笑みを浮かべる。


「ええ、喜んで。実家でたっぷり仕込んだ、あなたの大好きなレモンのはちみつ漬けも、一緒に持ってあなたの生家に嫁ぎますわね」


その言葉を聞いた瞬間、エトガルは急に耳の付け根まで真っ赤に染め上げた。

そして、子供のようにぷいっと横を向いて、そっぽを向いてしまう。


「は、はちみつなんて、女性や子供の好物だろう。俺はそんな甘いもの、好きではない」


相変わらずの天邪鬼。けれど、その視線はどこかそわそわと、テーブルの上のガラス瓶へと向いている。

グレーテはクスクスと上品に、だけどすべてを見透かした、最高に愛おしそうな目で笑った。


「言ったでしょう、エトガル様。あなたの本音なんて、私には最初からお見通しですのよ」


差し出された黄金色のスプーンを前に、不器用な騎士はついに観念したように、小さく口を開くのだった。






――それから、一ヶ月後。


王太子暗殺を阻止した英雄として、名実ともに国随一の最若手重鎮となったエトガル。

 

そんな彼とグレーテの結婚が正式に発表され、華やかな祝勝舞踏会が開催された。

会場にグレーテが姿を現すと、待っていましたとばかりに友人たちが駆け寄ってくる。


事件の夜、手薄なテラスで彼女が巻き込まれた一件を知る誰もが、心配そうに彼女を取り囲んだ。


「グレーテ、無事で本当によかったわ……!」

「あんな大変なことがあって……大丈夫? 怖い思いをしたでしょう」

「ええ、お気遣いありがとう。でも私は大丈夫ですわ」


心配してくれる友人たちに、グレーテはいつも通りのんびりと微笑み返す。

その背後から、低く引き締まった声が響いた。


「――グレーテ」


振り返ると、そこには漆黒の騎士礼服に身を包んだエトガルが立っていた。

友人たちは一瞬だけ、かつての彼の冷徹な態度を思い出して身をこわばらせる。


しかし、次の瞬間、エトガルが取った行動に、周囲の全貴族の動きが止まった。


エトガルはグレーテの隣に歩み寄るなり、誰の目も気にせず、彼女の細い腰をごく自然に、しかしひどく独占欲を滲ませた手つきで抱き寄せたのだ。


「あまり俺から離れるな。無理をしてはいけない。……少しでも疲れたら、すぐに言うんだぞ」


その声音は、これまでの氷のような冷たさが嘘のように、甘く、酷く過保護な熱を帯びていた。


さらにエトガルは、グレーテに近づいていた友人たちを、まるで「俺の妻に近寄りすぎるな」と言わんばかりに、もの凄い嫉妬の籠もった視線でうっすらと睨みつけている。


「え……っ?」

「えええええっ!?!?」


友人たちはあまりの衝撃に、持っていた扇子を床に落とさんばかりに驚愕した。

淑女とは、いかに。


冷遇されていたはずの婚約者が、今や片時もグレーテを離そうとしない。 


それどころか、普段は冷徹無比で鳴らすあの若き英雄が、グレーテが「もう、エトガル様ったら心配性ですのね」と小さく笑うだけで、嬉しそうに、そしてどこか決まり悪そうに耳の付け根を真っ赤に染めているのだ。


「ちょっと、グレーテ……これ、どういうことですの……!?」


驚きのあまり泡を吹きそうな友人たちを遠巻きに見ながら、招待状片手にはるばると領地から出てきたアルデンス夫人だけが、「だから言ったでしょう?」とでも言いたげに、グレーテに向かって悪戯っぽくグラスを掲げてみせた。


そんな周囲の「えええええ!?」という大絶叫の渦の中心で。

グレーテは、ぴったりと寄り添ってくるエトガルを見上げ、やはりいつもと変わらぬマイペースな微笑みを浮かべるのだった。


「ほら。だから言ったでしょう? 素直になったって、だれも嫌な顔しないわ」

「……ああ。今更かと思ったが、案外悪くないな」


不器用な騎士の、熱い本音の籠った視線を受け止めながら、グレーテはクスクスと上品に笑うのだった。


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― 新着の感想 ―
ストーリーは面白いのだけど、この独りよがりな男のどこがいいのか、自尊心が欠けてるように見えるグレーテに共感できなかったわ。やはり惚れた弱みなのかな
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