第9項 すれ違う数秒間のプロファイリング。裏方の琥珀色の瞳が見抜いた、俳優の微かな異変
第2節 すれ違いざまの神業。一杯のブレンドティーが演者の喉を救う
第9項 すれ違う数秒間のプロファイリング。裏方の琥珀色の瞳が見抜いた、俳優の微かな異変
九月の旧校舎の廊下は、地区大会を目前に控えた演劇部員たちの、異常な熱気と焦燥感に満ちていた。
「だから俺がここで――違う、もっと間を置いてからだ!」
「……ええと、それで私が、あいつの背中を、いや、違う、私のセリフは……」
壁に向かって早口でセリフを壁打ちする者。
イヤホンをして、完全に自分の世界に引きこもって目を閉じている者。
ホームルーム前だというのに、誰一人としてまともに息をしていないような、ピリピリとした空間。
その廊下の端を、俳優科の二年生である結城が、俯き加減で歩いてきた。
彼は今回の地区大会で、主役の親友という重要な準主役のポジションに抜擢された男子生徒だ。
真面目で責任感が強い性格ゆえに、誰よりもプレッシャーを抱え込んでいるのは、陽和も知っていた。
「……おはようございます」
陽和は、赤城たちから押し付けられた大量の衣装や小道具のリストと、そのためのアイロンを両手で抱えながら、結城とすれ違う。
彼と目が合うことはなかった。
距離にしてわずか数十センチ、時間にしてたった二秒間の交差。
しかし、その瞬間。
陽和の琥珀色の瞳が、結城の姿を無意識のうちにスキャンした。
『いいか陽和。役者のコンディションは、声を聞く前に体から読み取れ。口では「大丈夫だ」と嘘を吐くが、筋肉と呼吸は絶対に嘘を吐かない』
祖父・日向源蔵から幼い頃に叩き込まれた『プロの裏方』としての教えが、陽和の脳内で自動的に起動する。
(……歩幅が違う)
陽和は、結城の足元を一瞥しただけで、普段の彼の歩幅よりも『約三センチ』狭くなっていること、そして重心が無意識のうちに左足に偏っていることを見抜いた。
(極度の緊張で下半身の筋肉が強張ってる。それに、左足に重心が偏るってことは、疲労の蓄積で無意識に右膝を庇ってるサインだ)
さらに陽和は視線を上に移し、結城の胸の上下運動と、首元の胸鎖乳突筋の張りを確認する。
(呼吸が浅い。肩で息をしてる。交感神経が過剰に働きすぎて、パニックの一歩手前までいってるわね)
そして、決定的なサイン。
結城が、無意識のうちに何度も「こほん」と小さく咳払いをし、唾液を飲み込む際に一瞬だけ、苦痛で眉間にシワを寄せた。
(唾液の分泌が完全に低下してる。あの咳払いは、喉の粘膜が乾燥して炎症を起こし始めてる証拠だ)
陽和は、すれ違っただけのたった二秒間で、結城の肉体のSOSを完璧にプロファイリングし終えていた。
彼の声すら聞いていないのに、だ。
(このままじゃ、今日の通し稽古で絶対に声が飛ぶ。それどころか、左足の重心のズレで、暗転中にセットに躓いて怪我をするかもしれない)
それは、演出家である黒田や、結城を指導する先輩の俳優たちですら気づいていない、微細で致命的な『ノイズ』だった。
陽和は立ち止まり、抱えていたアイロンとリストの束を、近くの使われていない机の上にそっと置いた。
(ちょっとだけ、応急処置をしておきましょうか)
陽和は、結城に背を向けたまま、静かに歩き出した。
その歩みは、先ほどまでの「目立たない裏方」ではなく、完璧な計算と知識を併せ持つ「魔法使い」のそれだった。




