第8項 無自覚ナイチンゲールの微笑み。「誰にでもできる」を「誰にも真似できない神業」へ昇華する器
第8項 無自覚ナイチンゲールの微笑み。「誰にでもできる」を「誰にも真似できない神業」へ昇華する器
「おい、陽和……。お前、怒ってないのか?」
東雲は、唖然として陽和の顔を覗き込んだ。
乱暴に押し付けられた五十人分の衣装と小道具のリスト、さらに買い出しのパシリ。
しかし、陽和の顔には怒りも悲しみも一切浮かんでいなかった。
むしろ、段ボール箱の中身を確認しながら、困ったように、しかしどこか嬉しそうに微笑んでいるのだ。
「東雲先生、大丈夫ですよ」
「はぁ?」
「赤城さんたち、喉が荒れて声が少し掠れてました」
陽和は、段ボール箱から衣装を一着取り出し、生地の素材を指先で丁寧に確認しながら、まるで世間話でもするように言葉を続けた。
「きっとプレッシャーで昨日の夜も眠れていないんです。気が立っているのは当たり前ですよ」
自分を見下し、理不尽な仕事を押し付けてきた加害者のコンディションを心配する。
その底なしの善性――あるいは、狂気的なまでの俯瞰視点に、東雲は言葉を失う。
「……お前、本当に……」
「あ、この衣装、サテン生地ですね」
陽和は、東雲の言葉を遮るように、一人で納得したように頷く。
「サテン生地は、市販の甘すぎるドリンク剤を飲んで汗をかくと、汗の成分が変わって生地が傷みやすくなるんです」
「は? なんだその理論は」
「ですから、買い出しなんてしません。私が全員分の『特製スポーツドリンク』を作ります」
買い出しをサボる、というわけではない。
市販のものでは駄目なのだ。
汗の成分まで計算し尽くした、衣装と演者の体を守るための完璧な水分補給。
「それに、小道具の振り分けも、私がやった方がいいんです」
陽和は、リストに目を落としながら、脳内で高速演算を始める。
「例えば、結城君は最近、左足に重心をかける癖があるから、小道具の定位置は指定より数ミリ左寄りに。瑠璃さんは少し目が悪いから、暗転中の立ち位置の目印テープには、少しだけ蓄光塗料を混ぜて……」
彼女にとって、小道具を配置することは、単なる『並べる』という作業ではない。
演者の癖や身体的特徴に合わせて動きを数ミリ単位で最適化し、あのシビアな『六十分制限』の時間をコンマ数秒ずつ削り出すための、精密な計算式なのだ。
「『誰にでもできる仕事』だからこそ、みんなが気づかないくらい快適に、完璧にこなすのが、私の仕事ですから」
陽和は、重たいはずの段ボール箱を軽々と持ち上げ、ふにゃりと、しかしどこまでも真っ直ぐな瞳で微笑んだ。
「…………」
その姿を見た東雲は、これ以上何も言えなくなった。
(こいつは馬鹿じゃない。ただの善人でもない)
東雲は、口の中でため息をつく。
(赤城たちの悪意ある嫌がらせすら、こいつは完全に『自分の手のひらの上の舞台装置』として消化しやがった。……この圧倒的な器のデカさ。お前は一体、何者なんだ)
「さあ、仕込み(準備)を始めましょうか」
陽和は、ワーク・ウェアの袖をまくり上げ、琥珀色の瞳に静かで熱い職人の炎を灯した。
圧倒的な実力至上主義の学園。
その中で、最も底辺にいると見下されている少女。
だが、実は彼女こそが、誰よりも深くこの学園の命運を握っている。
その無自覚な神業が、静かに、そして確実に幕を開けようとしていた。




