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第5項 廊下に漏れ出す魔法の香り。ピリつく学園を無自覚に浄化する「心臓」の鼓動

第5項 廊下に漏れ出す魔法の香り。ピリつく学園を無自覚に浄化する「心臓」の鼓動


給湯室のドアを開け放つと、完成したばかりのブレンドティーの香りが、微かな風に乗って保健室を満たしていく。


カモミールの甘いリンゴのような香りに、ペパーミントの爽やかな清涼感が混ざり合った、深く、脳の奥底まで届くような香りだ。

その香りは、保健室のドアの隙間から、薄暗い旧校舎の廊下へと、音もなくゆっくりと流れ出していった。


「っ……だから、このセリフのタイミングが遅いって言ってんの!」

「うるさいわね、私だってギリギリで合わせてるんだから!」


廊下の片隅では、台本を片手にピリピリと張り詰めた表情で発声練習をしていた生徒たちが、激しい口論になりかけていた。

地区大会前の極度のプレッシャーが、彼女たちの交感神経を限界まで引き絞っていたのだ。


しかし――。


「ん……? なんか、いい匂いしない?」


その香りが彼女たちの鼻腔を掠めた瞬間、無意識のうちに、力みきっていた肩の力がフッと抜けた。

浅く、ヒステリックになっていた呼吸が、「スゥ……」と深く、穏やかな腹式呼吸へと変わっていく。


「あ、ホントだ……なんか、リンゴみたいな……」

「……ごめん。私、ちょっと言いすぎたかも」

「ううん、私こそ。……少し休憩しよっか」


さっきまで殺気立っていた空気が、まるで知る由もない陽和は、給湯室から出てくると、自分用と東雲用のマグカップにティーを注ぎ分けた。


「二日酔いですよね。胃壁を保護して、吐き気を抑えるようにペパーミントを少し強めにしておきました。蜂蜜も入れてますから、血糖値も上がりますよ」

「……お前、本当に俺の母親か何かか?」


ベッドからようやく体を起こした東雲は、無精髭を撫でながら呆れたようにマグカップを受け取る。


「いただきます」


東雲は、カップに口をつけた。

熱すぎず、かといって温くもない。胃壁の粘膜にじんわりと染み渡り、疲労した内臓を優しく温める、信じられないほど完璧な温度。

ペパーミントの清涼感が二日酔い特有の気持ち悪さを一瞬で散らし、蜂蜜の優しい甘さが、アルコールでやられた脳の疲労をスッと吹き飛ばしていく。


(……相変わらず、恐ろしい手際だ)


東雲は、優秀な医師としての知識から、この一杯がどれほどの計算の上に成り立っているかを瞬時に理解していた。


カモミールとミントの相乗効果。それを最大限に引き出し、かつ蜂蜜の酵素を殺さないための絶妙な温度管理。

さらに、今日の気候(乾燥と残暑)と、患者(自分)のコンディションを正確に見極め、即座に処方を組み立てる判断力。

それはもはや、ただのハーブティーの領域を遥かに超えた、高度な医療行為に等しい。


「お前、これどこの漢方医からレシピ盗んだんだ?」

「え? ただのハーブティーですよ?」


東雲が呆れ半分で尋ねると、陽和はマグカップを両手で包み込みながら、心底不思議そうにきょとんと首を傾げた。


「おじいちゃんがよく、本番前の役者さんに淹れてたのを真似してるだけです。あとは、ハーブの本を少し読んだくらいで……そんな大層なものじゃないですよ」

「……」


(こいつは、全く分かっていない)


東雲は、深いため息を一つ吐き出した。


自分が毎日淹れるこの一杯の茶と、それに伴う香りが、この狂ったようにプレッシャーに塗れた学園の生徒たちの精神を、どれほど底支えしているか。

彼女は、気づかぬうちにこの学園の『隠れた心臓(生命線)』として、無意識に拍動し続けているのだ。


「まぁ、いい。美味いから全部飲むけどな」

「ふふっ、お粗末様でした」


ワーク・ウェア姿の少女の、天然で、しかし底抜けに温かい笑顔。

その無自覚なナイチンゲールは、今日もマイペースに、学園の空気を浄化し続けていた。

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