第39項 一口の温度が奪い去る敵意。あまりの心地よさに毒気を抜かれ、気まずそうにマグカップを両手で包み込む
第39項 一口の温度が奪い去る敵意。あまりの心地よさに毒気を抜かれ、気まずそうにマグカップを両手で包み込む
湯気の立つマグカップを乗せたお盆を持ち、私は静かに部屋へと戻った。
怒りの余韻でまだ肩で息をしている二人に微笑みかけ、テーブルにお盆をコトリと置く。
「お疲れのようですから、少し休んでいってください。どうぞ」
それぞれの前に、マグカップを差し出す。
「はぁ? 誰があんたの淹れたお茶なんて……だいたい、そんなもので誤魔化されるとでも思って……」
赤城さんは眉間にシワを寄せ、そっぽを向いて文句を言いかけた。
だが、その言葉は最後まで続かなかった。
カップから立ち昇る、かりんとハチミツの甘酸っぱい香り。
それが鼻腔をくすぐった瞬間、彼女の身体の『本能』が勝ったのだ。
カラカラに渇き、荒れていた喉が、無意識にゴクリと大きく唾を飲み込んでしまったのである。
隣にいた青山さんも同じだった。
怒りで引きつっていた表情が、フッと緩む。
リンゴに似たカモミールの甘く優しい香りに吸い寄せられるように、無言でカップを受け取り、両手で大事そうに包み込んでいる。
「…………」
「…………」
香りの誘惑に抗えず、二人は同時にカップに口をつける。
その瞬間だった。
「……あ……」
赤城さんの口から、思わず吐息のような声が漏れた。
先ほどまでのトゲトゲしい声とは全く違う、無防備で安らいだ声。
体温に程近い、40度という少しぬるめの液体。
それが、切れた唇や荒れた口内を一切刺激することなく、とろりとした優しい甘さとなって滑り込んでいく。
酷使され、疲弊しきっていた胃の奥底へ。
まるで干からびた大地に慈雨が染み渡るように、じんわりと広がっていくのが分かったのだろう。
一方、青山さんも、目を開いたまま固まっていた。
「……ふぅ……」
温かいカモミールティーが食道を下っていくのと同時に、ガチガチに強張っていた首の筋肉が、スゥッと解けていく。
異常に多かった瞬きの回数が減り、浅く小刻みだった呼吸が、自然と深く、ゆっくりとしたものへと変わっていった。
人間の体というのは、実に正直にできている。
心底リラックスしている状態――つまり、副交感神経が優位になっている時、人間は怒りの感情(交感神経優位の状態)を維持することができないのだ。
頭でどれだけ怒り続けようとしても、身体がそれを許さない。
私が淹れたこの二杯のお茶は、物理的、そして化学的に、彼女たちの怒りを『強制終了』させてしまったのである。
「…………」
「…………」
静まり返る保健室。
さっきまでの怒声が嘘のような、穏やかな空気が流れている。
怒る気力を完全に奪われ、すっかり毒気を抜かれてしまった二人は、急に気まずそうに視線を泳がせ始めた。
振り上げた拳を降ろすタイミングを見失っただけでなく、自分たちが理不尽な言いがかりをつけていたことが、急に恥ずかしくなってきたのだろう。
「……ま、まぁ! アンタがそこまで言うなら、今回はこれで許してあげるわ! 次は気をつけるのね!」
赤城さんが、顔を真っ赤にしてそっぽを向いた。
先ほどの怒りによる赤さではなく、明らかに照れ隠しの赤さだ。
「そ、そうよ! ごちそうさま! 行くわよ!」
青山さんも慌てて残りの紅茶を飲み干すと、コトリとカップをテーブルに置いた。
二人は顔を見合わせると、逃げるようにそそくさと保健室から退散していく。
その足取りは、つのマグカップを片付けながら、私は一人で嬉しそうに呟く。
「少しはリラックスできたみたいでよかったな」
理不尽に怒鳴られたことへの怒りも、被害者意識も、私の中には1ミリも存在していなかった。
役者のコンディションを整え、最高のパフォーマンスを引き出す。
裏方としての私の日常は、今日も変わらず平和なのだ。




