第30項 裏方の戦場、仕込み制限時間10分。無自覚な空間把握能力が導く奇跡の8分間
第30項 裏方の戦場、仕込み制限時間10分。無自覚な空間把握能力が導く奇跡の8分間
「――星華芸術学園、仕込み(準備)をお願いします!」
大会役員の、メガホン越しのくぐもった声が会場に響き渡った。
「よし、行くぞ!」
緑茶のテアニン効果で、研ぎ澄まされた集中力を取り戻した演劇部が、気合とともに、舞台袖から暗転したステージへと一斉に飛び出していく。
『仕込み(セットの組み立て)』。
その制限時間は、残酷なまでに短い『十分間』。
巨大な大道具、小道具、音響、照明のセッティングを、すべて高校生だけで、しかも完全に暗転した中で正確に行わなければならない。
この十分間に、星華芸術学園の生徒たちは、一年間積み上げてきた全ての血と汗を懸けていた。
しかし――。
「ちょっと、それどこに置くの!?」
「違う、こっちよ! 早くして!」
本来、裏方や下級生に指示を出すべきヒロイン候補の取り巻き、赤城や青山は、暗闇とプレッシャーに耐えきれず、完全にパニックを起こしていた。
ヒステリックに叫ぶだけで、具体的な指示は一切出ない。
その結果、重い平台を運ぶ大道具の生徒たちの動線が、完全に絡まり合ってしまったのだ。
「ああっ、そこ通らないで!」
「ごめんなさい、見えなくて……!」
ドン、と。
暗闇の中で、平台同士がぶつかり合う嫌な音が響く。
(……このままじゃ、十分以内に終わらない)
十分という制限時間を一秒でも過ぎれば、減点。
最悪の場合、そのまま幕を下ろされ、一年が終わる。
星華芸術学園という名門校の看板が、今、音を立てて崩れ落ちようとしていた。
その時。
「……大道具A班、そのまま直進してバミリ(目印)の赤テープへ」
メガホンも使っていないのに、なぜか不思議なほどよく通る、凛とした声が暗闇に響き渡った。
「え?」
パニックになっていた生徒たちが、ハッとして声の主――舞台袖でワーク・ウェア姿のまま立つ、陽和の方を見た。
「B班、A班が通り過ぎてから『三秒後』に、左から回り込んでください。音響、マイクケーブルは平台の下を通さずに上を跨がせて。小道具班は、今すぐ結城くんの椅子の位置を、青のバミリから『五センチだけ』外側へずらしてください」
陽和は、手元のキューシート(進行表)を一切見ることなく、淀みなく、そして完璧なタイミングで次々と指示を飛ばし始めた。
彼女の脳内には、暗闇の舞台上に存在するすべての道具、人間、そしてこれから起こる移動ルートが、三次元の鳥瞰図(俯瞰図)として完璧に描かれているのだ。
誰と誰が、どのタイミングで、どこでぶつかるか。
それを数秒前に予測し、まるでテトリスのブロックを完璧に組み上げていくように、流れるような交通整理を行っていく。
「ちょっと日向さん、あんた裏方の分際で勝手なことを――」
「青山さん。あなたのヒールの音が、暗転中の無音の客席に響いています。今すぐ靴を脱いで、上手の袖に下がってください」
「っ……!」
陽和の、感情の全くこもっていない、極めて事務的で冷徹な声に、青山は押し黙り、言われた通りにヒールを脱いで逃げるように袖へと下がった。
(……すごい)
(日向さんの言う通りに動けば、ぶつからない……!)
陽和の指示に従った瞬間、絡まり合ってパニックを起こしていた動線が、まるで魔法のようにスルスルと解け、巨大なセットが、暗闇の中で音もなく、次々と完璧な位置に組み上がっていく。
「……残り、三十秒前!」
大会役員の声が飛ぶ。
「――はい。仕込み完了しました。星華芸術学園、準備オッケーです」
陽和は、静かに、しかしはっきりと大会役員に向かって告げた。
「えっ……」
「嘘だろ、あんな複雑なセットを……」
結果。
制限時間を二分も残した、『八分ジャスト』。
一切のズレも、事故もない、完璧で美しい舞台が完成した。
大会役員たちが、手元のストップウォッチと、星華の鮮やかな手際を交互に見比べ、驚愕に目を見開く中。
陽和は、自分が行った空間把握の神業に全く無自覚なまま、ふにゃりと、いつものように優しく微笑んだのだった。




