第3項 サボり魔の養護教諭と暗黙の了解。保健室の鍵を開けるのは、白衣を着た16歳の女子高生
第3項 サボり魔の養護教諭と暗黙の了解。保健室の鍵を開けるのは、白衣を着た16歳の女子高生
旧校舎の最奥、ひときわ静まり返った廊下に、カチャリという小さな音が響いた。
陽和が制服のポケットから取り出したのは、生徒が持っているはずのない、鈍く光る金属の塊――『保健室のマスターキー』だ。
慣れた手つきで扉を開け、陽和は迷うことなく一直線に窓へと向かう。
「よいしょ、っと」
力強く窓を開け放つと、九月の朝特有の少し冷たく澄んだ風が、消毒液の匂いが染み付いた薄暗い部屋を一気に吹き抜けていく。
「……うるさい。朝から陽の光を入れるな……」
その風に乗って、部屋の奥、カーテンで仕切られたベッドの向こうから、地の底から這い出るような低い呻き声が聞こえた。
シーツに深く包まり、白衣を布団代わりにして丸くなっているのは、この学園の養護教諭である東雲だ。
「東雲先生、おはようございます。また昨日もここで寝落ちしたんですか?」
陽和は全く驚く様子もなく、呆れ混じりに声をかける。
「あんたが毎朝勝手に来るから、私は鍵を閉めずに寝てるんだよ……」
「先生がきちんと家に帰って寝てくだされば、私も朝から侵入したりしなくて済みますけどね」
東雲は、優秀な医師免許を持ちながら、ある理由でこの学園の保健室に天下りしてきたとされる二十代後半の女性だ。
ボサボサに乱れた髪に、メイクを落とし忘れた気怠げな顔つき。常にアンニュイな空気を纏っている彼女は、極度の面倒くさがり。
生徒が部活で擦り傷を作って駆け込んできても、「絆創膏はそこ。勝手に貼って」とベッドから起き上がりもしない筋金入りのサボり魔である。
そんな彼女と陽和の間に奇妙な関係性が生まれたのは、陽和が一年生の冬のこと。
連日の徹夜で過労で倒れた東雲のために、陽和が完璧な消化の良さを計算し尽くした薬膳粥を作って食べさせたのが始まりだった。
それ以来、東雲は陽和の腕前に完全に胃袋を掴まれ、保健室の管理――清掃、備品の補充、さらには軽度の生徒対応までを、事実上彼女に丸投げしている。
陽和としても、自分の調合したハーブティーを淹れるための給湯室と、乾燥させた大量のハーブを保管できる安全な場所が欲しかったため、この利害の一致による奇妙な共犯関係が成立していた。
「あー……胃が重い。陽和、いつものやつ淹れて」
「はいはい、分かってますよ。昨日は遅くまで飲んでたんでしょう」
陽和は大きなトートバッグを机に置くと、中から真っ白なワーク・ウェアを取り出した。
制服の上からそれをふわりと羽織り、後ろでリボンを結ぶ。さらに、少し癖のある髪をタイトにキッチリと結び上げ、給湯室のシンクで手首まで念入りに石鹸で洗う。
水滴を清潔なタオルで拭き取った瞬間。
彼女が纏う空気が、どこにでもいる『目立たない女子高生』から、冷たく研ぎ澄まされた『プロの職人』へと、静かに、そして劇的に切り替わった。
(……相変わらず、ただの女子高生とは思えない手際だね)
東雲は、シーツの隙間から薄目で陽和の動きを眺めていた。
ポットに水を注ぎ、火にかけるまでのわずかな動作。
そこには、一切の無駄も迷いもない。
まるで外科医がメスを握る前のような、恐ろしいほどの集中力と完璧なルーティン。
東雲は、学園中が陽和を「ただの雑用係」と見下す中、彼女の指先に宿る底知れぬ実力と異常性にいち早く気づいている、唯一の大人だった。
「あんた、本当にそのうち過労で倒れるよ。あの馬鹿ども(生徒たち)の裏方なんて適当にやっときな」
「先生と一緒にしないでください。私は、この仕事が大好きなんです」
陽和は、火にかけたポットの隣で、ガラス瓶に入った数種類のハーブをピンセットで慎重に取り出しながら、ふにゃりと柔らかく微笑んだ。




