第29項 湯冷まし七十度の緑茶。旨味成分テアニンが交感神経を優しくなだめる最後の一滴
第29項 湯冷まし七十度の緑茶。旨味成分テアニンが交感神経を優しくなだめる最後の一滴
「……最後は、『今、味わえるもの』を一つ、なんですが」
陽和は、ふにゃりと優しく微笑むと、控え室の隅に用意していた紙コップの山へと向かった。
そして、その中に、あらかじめ巨大なポットで淹れてきたお茶を注ぎ始め、生徒たちへと手渡していく。
「あ、ありがとう、ございます……」
パニックから抜け出し、少し放心状態になっている生徒たちが、両手でコップを受け取った。
「これ、なんの……? あ、緑茶か」
「少しだけ、飲んでみてください」
陽和がこのタイミングで、『五・四・三・二・一法』の最後のステップである『味覚』を満たすために用意したのは、何十種類ものハーブからではなく、極上の茶葉から抽出された『緑茶』だった。
なぜ、緑茶なのか。
極限の緊張状態にある人間に、カフェインの強いコーヒーや、糖分の高すぎる市販のジュースは、極度に収縮している胃腸に多大な負担をかける。
しかし、上質な緑茶には、豊富なアミノ酸の一種である『テアニン』が含まれている。
テアニンは、脳の興奮を鎮め、リラックスの脳波であるα(アルファ)波を増大させ、同時に集中力を高めるという、まさにこの極限状態の舞台前に最も適した『科学的な特効薬』なのだ。
だが。
(熱湯で淹れちゃうと、カフェインやカテキン(渋み)が強く出すぎて、かえって交感神経を刺激してしまう)
陽和は、テアニン(旨味と甘味成分)を最大限に引き出し、かつ、緊張で硬直している胃腸を驚かせないために、沸騰したお湯を別のポットに移し、手のひらの感覚だけで正確に『七十度から八十度』の間に湯冷ましして、じっくりと時間をかけて抽出していた。
それは、最後の一滴まで、旨味成分を余すことなく絞り切るという、日本茶のプロフェッショナルが用いる究極の温度調整だった。
「……いただきます」
生徒たちが、恐る恐るその緑茶を口に含む。
「――っ」
その瞬間、控え室の空気が一変した。
渋みは一切ない。
まるで極上の出汁を飲んでいるかのような、深く、まろやかな旨味と甘味が、彼らの舌の上にふわりと広がる。
そして、七十度に調整された温かい液体が、食道を通って胃の奥へとじんわりと、抵抗なく染み渡っていくのを感じた。
「……うまっ……」
「なんだこれ、めっちゃ落ち着く……。胃の中が、ぽかぽかする」
テアニンが、交感神経の暴走を優しくなだめ、緑茶のほのかで爽やかな香りが、副交感神経を刺激してリラックス状態へと導いていく。
「ふぅ……」
生徒たちの口から、安堵のため息が漏れた。
彼らの瞳は、先ほどまでの「失敗への恐怖」ではなく、「今、自分が何をすべきか」を明確に見据える、研ぎ澄まされた光を宿していた。
極限の緊張が、舞台に向かうための『良い集中力(フロー状態への助走)』へと、完璧にチューニングされた瞬間だった。
「さあ、みなさん」
陽和は、空になった紙コップを生徒たちから受け取りながら、琥珀色の瞳を細めた。
「もうすぐ出番です。……いってらっしゃい」
その言葉は、まるで魔法の呪文のように、彼らの背中を力強く押した。
星華芸術学園の演劇部は、完全に息を吹き返し、舞台という戦場へと足を踏み出していった。




