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第25項 九月の市民ホールに潜む魔物。地区大会特有の張り詰めた空気と「六十分」の重圧

第4節 地区大会当日の極度の緊張。命綱となる「グラウンディング」と緑茶


第25項 九月の市民ホールに潜む魔物。地区大会特有の張り詰めた空気と「六十分」の重圧


九月下旬。

地元の巨大な市民ホールに、何十校もの高校演劇部の生徒たちが早朝から集結していた。


地区大会の当日。


「だから! 第一幕の音響キューはもっと早くって言ったでしょ!」

「違う違う、平台はこっちに重ねるんだよ!」


会場のあちこちから、怒鳴り声や悲鳴に近い叫び声が飛び交う。

古い絨毯の匂いと、長年蓄積された埃っぽさ。

そして、極度の緊張とプレッシャーで掻いた、生徒たちの冷や汗が混ざった独特の空気が、ホールの巨大な空間に重く立ち込めていた。


「いいかお前ら! 仕込み(舞台セットの組み立て)は十分! バラシ(片付け)も十分! 少しでも過ぎたら減点だ!」


大会を運営する顧問教師たちの怒号が響く。


「上演時間はぴったり六十分以内! 一秒でもオーバーしたら、どんなに良い演技をしていても、容赦なく幕を下ろす! 審査対象外だぞ!」


プロの演劇の現場ではあり得ない、この『高校生ルール』。

その残酷で絶対的な六十分の壁が、生徒たちの精神をゴリゴリと音を立てて削り取っていく。

特に、星華芸術学園のような名門校にとって、そのプレッシャーは他校の比ではなかった。


『星華は、地区大会を一位で通過して当たり前。それ以外は敗北と同じ』


それは、学園内だけでなく、他校の生徒や審査員たちも共有している共通認識だ。

だからこそ、ホールのロビーを歩くだけで、「あれが星華のトップ俳優か……」「やっぱりオーラが違うな」という、期待と嫉妬が入り混じった無数の視線が、針のように突き刺さってくる。


「……ねえ、星野さん、手が震えてるよ」

「だ、大丈夫よ……ちょっと、冷房がキツいだけだから……」


星華のトップ女優候補である星野瑠璃すら、バックヤードの隅で自分の指先をギュッと握りしめ、顔面を蒼白にしていた。

彼女の取り巻きである赤城や青山も、普段の傲慢な態度はどこへやら、台本を握る手をブルブルと震わせ、過呼吸一歩手前の浅い息を繰り返している。


そんな、極限状態の殺気立った演劇部の中で。


「よし、これで良し、と」


陽和だけは、一人だけ完全に別世界にいるかのように、舞台袖の暗がりで静かに準備を進めていた。


彼女の周囲だけが、まるで嵐の目のように、圧倒的な凪の空間を作り出している。

机の上には、持ち込んだ巨大な保温ポットが三つ。

それぞれ、演者のコンディションに合わせて完璧な温度と成分で調合された、マロウブルー、カモミール、ペパーミントの特製ブレンドティーがたっぷりと入っている。


さらに、その横には、数十個の紙コップが、演者が暗転中にどの方向からでもすぐに手に取れるよう、ミリ単位の計算で美しく並べられていた。


「……んー、もう少し、左かな」


陽和は、紙コップの位置を指先で微調整する。

そして、六十分という戦いの中で、少しの無駄な動きも許されない大道具の転換ルートを、もう一度、脳内で何度もシミュレーションし直す。


プレッシャーに潰されそうな仲間たちを、一人残らず生還させるための、完璧な安全地帯の構築。


「仕込み(準備)は、完璧ね」


琥珀色の瞳は、暗がりの中でも静かに光り、狂乱の市民ホールの中で、ただ一人、完璧な静寂と職人の炎を灯し続けていた。

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