第24項 精神科医をも凌駕する無自覚な救済。「祖父の真似事」で命を繋ぐ、底辺裏方の日常
第24項 精神科医をも凌駕する無自覚な救済。「祖父の真似事」で命を繋ぐ、底辺裏方の日常
十分後。
神谷は、完全に憑き物が落ち、スッキリとした顔つきで立ち上がっていた。
まだ目元は少し赤く腫れていたが、そこにはもう、狂気に満ちた悪役の凄みも、追い詰められた絶望の翳りもない。
元の、真面目で穏やかな神谷透の瞳が、まっすぐに陽和を見つめていた。
「日向さん……」
神谷は、深々と、九十度のお辞儀をした。
「本当に、ありがとう。……命を救われた気分だ。あんたがいなかったら、俺は今日、完全に気が狂ってたよ」
大袈裟な表現ではない。神谷は、自分が自我を失って、あのまま暗闇の底へと完全に落ちていく寸前だったことを、誰よりも自覚していた。
しかし、それほどまでの劇的な救済を行ったにも関わらず。
「大げさですよ」
陽和は、少し困ったようにふにゃりと笑って、顔の前で手をヒラヒラと振った。
「私はただ、おじいちゃんが昔、役者さんにやってた体操の真似事をしただけですから。神谷くんが、元々持っていた心の強さのおかげで、戻ってこれたんですよ」
陽和にとって、この行為は本当に、祖父の見様見真似で行った『ただの裏方の仕事』の一つに過ぎなかった。
自分のやっていることが、どれほど高度で危険な精神治療であるか、その重大さに全く気づいていない。
「お礼は必ずする」
神谷は、そう力強く言い残し、保健室のドアノブに手をかけた。
「……行ってきます」
その足取りは、保健室に逃げ込んできた時の這うような姿とは打って変わり、羽が生えたように軽かった。
彼はもう、役に飲まれることはない。
『ディローリング(役を脱ぐ)』という、メソッド演技に対する最も強力な「盾」を、陽和から授かったのだから。
再び過酷な稽古場へと戻っていく神谷の背中を、陽和は静かに見送った。
「パタン」とドアが閉まる音が、保健室に響く。
「……おい」
保健室の奥。
ベッドのカーテンの隙間から、薄目でその一部始終を見ていた東雲が、呆然とした声を出した。
「……今の、シェイキングからの自己認知の再構築……。精神科医が、重度のトラウマ患者に対して行うレベルの『ソマティック・エクスペリエンシング(身体志向トラウマ療法)』だぞ、あれは」
優秀な医師である東雲は、陽和が今しがた行った行為の異常性を、専門的な知識をもって正確に理解していた。
薬を使わず、物理的なアプローチと数回の声かけだけで、完全に錯乱していた人間の脳のシステムエラーをリセットし、自我を再構築させる。
それを、十六歳の女子高生が、「祖父の体操の真似事」だと言って平然とやってのけたのだ。
東雲は、デスクに戻り、何事もなかったかのように再びキューシート(進行表)のチェックにペンを走らせる陽和の小さな背中を見た。
(この学園の連中……教師陣も含めて、誰もこいつの恐ろしさに気づいていない)
あんな神業を平然とやってのける少女を、この実力至上主義の学園は「才能のない底辺」「ただの雑用係」と嘲笑い、見下している。
「フッ……ハハハ……」
東雲は、一人でベッドの上で、引きつったような笑いを漏らした。
「この学園は、本当に狂ってる。……一番のバケモノを、雑用係として飼い殺しにしてるんだからな」
その言葉は、誰にも聞こえない独白として、消毒液の匂いのする空気に溶けていった。
「……さてと。そろそろ、照明の当たり具合のチェックに行かないと」
東雲の畏怖と呆れを含んだ視線に全く気づいていない陽和は、マイペースに「よいしょ」と立ち上がった。
彼女にとって、壊れかけた役者の命(自我)を繋ぎ止めることすら、小道具を並べたり、照明をチェックしたりするのと同じ、ただの『日常の裏方業務』の一部に過ぎないのだ。
ワーク・ウェア姿の無自覚なナイチンゲールは、今日も静かに、そして完璧に、狂った演劇部の底を支え続けていた。




