第23項 帰還の儀式と安堵の涙。自分の名前を取り戻した少年の、堰を切ったような号泣と浄化
第23項 帰還の儀式と安堵の涙。自分の名前を取り戻した少年の、堰を切ったような号泣と浄化
激しく体を震わせ、床を踏み鳴らす音が、保健室という密室に響き渡る。
神谷は無我夢中で、陽和の指示のままに、自らの全身に巣食っていた黒い感情を外へ外へと弾き飛ばし続けた。
およそ一分後。
「はい、ストップ。止まってください」
陽和の静かな、しかし通る声が響いた。
神谷はピタリと動きを止め、ハァハァと荒い息を吐きながら、その場に立ち尽くした。
「…………」
陽和は、神谷の正面に立った。
そして、彼の両肩を、少しだけ力を込めて、しっかりと掴んだ。
手から伝わる、温かくて確かな、他者の存在感。
それは、役の孤独な暗闇に一人で閉じこもっていた神谷にとって、何よりも強力な「現実との接続」だった。
「最後に」
陽和は、まっすぐに神谷の目を見て、一つ一つ言葉を区切るように言った。
「ご自身の『本名』を、フルネームで、声に出して言ってください。……そして、今の『時間』と『場所』を言ってください」
神谷は、まだ少し焦点がぼやけている目で陽和を見つめ返した。
荒い息を吐きながら、喉の奥から絞り出すように、ゆっくりと口を開く。
「……おれは……神谷、透」
自分の名前。
この数週間、稽古場で誰も呼んでくれず、彼自身すらも忘れかけていた、その響き。
「今は……九月の中旬の、放課後の、時間で……」
神谷は、瞬きをした。
視界に映る、白いワーク・ウェア姿の少女。そして、消毒液とハーブの混ざった匂い。
「ここは……安全な、保健室、だ」
その言葉を、はっきりと、最後まで言い切った瞬間。
「…………あっ」
神谷の瞳の奥から、彼を蝕み続けていた役の狂気と、底なしの濁りが、完全に、スッと消え去ったのだ。
顔つきが、人殺しのような凄みを持った悪役から、元の、少し気弱だが優しげな、等身大の高校生男子の顔へと戻っていく。
「……俺、俺……」
神谷は、自分の両手を見た。
そこにはもう、役が握りしめていた怒りも、虚無も、殺意もなかった。
ただの、神谷透という一人の人間の、温かい手だ。
「……戻って、これた……っ」
恐怖から完全に解放された絶対的な安心感と、今まで彼一人で抱え込んでいた極度のプレッシャーが、巨大な反動となって一気に押し寄せてきた。
「あ、あぁぁああああっ……!」
神谷は、顔を両手で激しく覆い、その場に崩れ落ちた。
そして、まるで迷子になっていた子供が母親を見つけた時のような、大声で、しゃくり上げるような激しい号泣を始めた。
「うわぁぁんっ……俺、怖かった……! 自分が自分でなくなるのが、本当に、怖かったんだ……っ!」
彼は床に突っ伏し、感情の決壊に身を任せて、ただただ声を上げて泣き続けた。
誰も分かってくれなかった恐怖を、ようやく吐き出すことができたのだ。
「…………」
陽和は、何も言わなかった。
「頑張りましたね」とも「もう大丈夫ですよ」とも。
ただ、床で号泣する神谷の隣に静かにしゃがみ込み、彼の震える背中にそっと手を当てた。
そして、彼が泣き止むまで、一定のゆっくりとしたリズムで、ポン、ポンと優しく叩き続けた。
それは、まるで幼子をあやす母のようでもあり、熟練のセラピストのようでもある、計算し尽くされた完璧なケアだった。
陽和のその無言の肯定と、手から伝わる温もりが、神谷の心に残った最後の傷跡を、どこまでも優しく浄化していった。




