第20項 否定も励ましも不要な初期対応。一杯の白湯から始まる、狂気から現実への引き戻し
第20項 否定も励ましも不要な初期対応。一杯の白湯から始まる、狂気から現実への引き戻し
陽和は、デスクにペンをコトリと置くと、ゆっくりと立ち上がった。
そして、床で頭を抱えて震える神谷に向かって、全く足音を立てずに近づいていく。
「ヒッ……!!」
神谷は、近づいてくる陽和の気配にビクッと体を震わせ、まるで野生動物のように怯えた、そして威嚇するような視線を向けてきた。
しかし陽和は、彼の手の届かない一定のパーソナルスペース(安全な距離)を保ったまま、音もなくしゃがみ込んだ。
「大丈夫ですか?」
「落ち着いてください」
普通の人間なら、間違いなくそう声をかけるだろう。
しかし、陽和はそのような言葉を絶対に口にしなかった。
完全に錯乱状態に陥っている人間にとって、「大丈夫ですか」という言葉は、彼らが今感じている強烈な恐怖や悲しみ――『現状の否定』として伝わり、余計に反発を生み、殻に閉じこもる原因になることを知っているからだ。
陽和は、無言のまま。
自分の手の中にあった、無地のシンプルなマグカップを、神谷の震える両手にそっと包み込ませた。
「っ……」
中に入っているのは、人肌より少しだけ熱い、約五十度に設定された『白湯』だ。
熱すぎず、しかし明確な『温かさ』という物理的な刺激。
神谷の冷え切っていた手のひらの温度センサーが、その熱にダイレクトに反応する。
(よし。意識が指先に散った)
暴走し、過去のトラウマと役の感情の処理だけで容量を使い切っていた神谷の脳の処理能力の一部が。
『手の中のマグカップが温かい』という、現在の強烈な触覚(刺激)へと、強制的に引き戻されたのだ。
「……神谷くん」
陽和は、そこで初めて口を開いた。
「手の中のカップ、温かいですか?」
その声のトーンは、錯乱した人間を宥めるような、大袈裟で同情的な響きではない。
まるで「今日はいいお天気ですね」とでも言うような、極めてフラットで、波一つない日常的な響きを持っていた。
「あ……」
神谷の、焦点の合っていなかった血走った瞳が、わずかに揺れ、手の中の白いマグカップへと向いた。
「あ、あたたか、い……」
ボソリと、神谷の口から、自分の意志とは関係のない役のセリフではなく、彼自身の言葉が漏れた。
その、ただ一つの言葉を発したことで、彼のヒューヒューという切迫した過呼吸のペースが、ほんの少しだけ緩む。
陽和の、狂気から現実への引き戻し(初期対応)が、見事に成功した瞬間だった。
(まずは、脳のシステムエラーを物理的にリセットすること。それからが本番よ)
陽和は、琥珀色の瞳を優しく細め、神谷がマグカップの温もりに意識を向けているのを、静かに見守り続けた。




