第2項 伝説のプロデューサーの血脈。魔法使いの裏側に魅せられた少女の、誰にも語らない誇り
第2項 伝説のプロデューサーの血脈。魔法使いの裏側に魅せられた少女の、誰にも語らない誇り
ひんやりとした古いワックスと、微かな埃の匂いが混じる旧校舎の廊下。
陽和は歩を進めるごとに、その匂いに引っ張られるように、幼い頃の記憶をフラッシュバックさせていた。
(この匂い、やっぱり落ち着くなぁ……おじいちゃんの楽屋みたいで)
陽和の祖父は、日本の演劇界でその名を知らぬ者はいないとされる伝説の舞台プロデューサー・日向源蔵。
決して表舞台に立つことはなく、パンフレットの隅に名前が載るだけ。
だが、彼が手掛けた舞台は必ず演劇史に名を残すとまで言われた、本物の怪物だ。
両親が幼い頃に他界した陽和は、祖父に育てられ、物心ついた頃から劇場の楽屋や舞台袖を遊び場にして育ってきた。
「はぁっ……はぁっ……どうしよう、もう無理……」
脳裏に蘇るのは、幼い日の記憶。
開演五分前。日本を代表する大女優が、プレッシャーのあまり楽屋の隅で嘔吐し、震えて立ち上がれなくなっていた。
周囲のスタッフがパニックになり、「代役を立てるか!?」と叫び交わす中。
「……源蔵さん、助けて……」
青ざめる大女優の前に、静かに祖父が現れた。
『大丈夫だ。……ちょっと白湯を飲め』
祖父は、ただ絶妙な温度の白湯を一杯渡し、大女優の背中を一定のリズムで数回、優しくトントンと叩いた。
そして、耳元で何かを短く囁く。
それだけ。
たったそれだけで、ガタガタと震えていた大女優の呼吸が嘘のように落ち着き、彼女は立ち上がった。
そして、数分後には何事もなかったかのように、まばゆいスポットライトの中へ完璧な笑顔で飛び出していったのだ。
幼い陽和にとって、その光景は強烈だった。
表で何千人もの拍手をもらう美しい俳優たち。
でも、陽和の目には、裏で彼らの悲鳴や絶望を受け止め、魂のチューニングを行い、たった一杯の白湯で光に変えてしまう祖父たち『裏方』こそが、本物の魔法使いに見えた。
『いいか陽和。舞台ってのはな、役者だけで作るもんじゃない』
祖父はよく、煙草をふかしながら陽和に語って聞かせていた。
『照明の〇・一秒のタイミング、小道具の一ミリの配置。そして何より、役者が【安全に狂える場所】を作る裏方がいて、初めて奇跡が起きるんだ』
その言葉は、陽和の心に深く、深く根付いている。
学園の生徒たちは、裏方専攻である陽和たちを「才能がない奴の逃げ道」「誰にでもできる雑用係」と見下している。
それは、彼らが『本物の裏方』の恐ろしさを知らないからだ。
(完璧な裏方は、演者の呼吸から筋肉の張り、精神の揺らぎまでをすべて把握して、無自覚にコントロールする。本当の舞台の支配者はおじいちゃんたちだもの)
陽和は、華やかな才能がないから裏方を選んだわけではない。
祖父のような、誰にも気づかれない『魔法使い』になりたくて、自ら望んでこの底辺と嘲笑われる道を選んだのだ。
だからこそ。
「陽和、お前また裏方の仕事サボってんの!?」
「才能ないんだから、せめて雑用くらい完璧にこなしなさいよ!」
すれ違うたびに投げつけられる、そんな安い言葉で彼女の誇りが傷つくことは、決してない。
「ふふっ」
薄暗い廊下の突き当たり。
陽和は、目的地である『保健室』のドアノブに手をかけながら、小さく、満足そうに微笑んだ。




