第19項 錯乱する少年と琥珀色の瞳。白衣の裏方は、役に飲まれた役者の狂乱に一切動じない
第19項 錯乱する少年と琥珀色の瞳。白衣の裏方は、役に飲まれた役者の狂乱に一切動じない
「――ハァッ、ハァッ……っ!!」
神谷がフラフラと辿り着き、乱暴に押し開けたのは、旧校舎の最も奥にある保健室のドアだった。
部屋の中には、彼が求めていた通り、誰もいないかのような静寂と、カモミールとペパーミントの穏やかな香りが漂っていた。
奥のベッドのカーテン越しからは、養護教諭である東雲の静かな寝息が聞こえてくる。
そして、手前のデスクには。
「……殺して、やる……いや、俺は、そんなこと、思ってない……!」
神谷は壁に背中を打ち付けるようにして、ズルズルとその場にへたり込んだ。
自分の意志とは無関係に溢れ出す涙と、腹の底から湧き上がる理由のない怒りに震え、完全に自分を見失っている。
「違う、やめろ、俺は、なんでこんなに悲しいんだ……っ! 助けて、くれ……!」
両手で顔を覆い、しゃくり上げながら絶叫する神谷。
顔面は蒼白で、目は血走り、もはや高校生とは思えない異様な、そして狂気に満ちた姿だった。
普通の高校生なら、間違いなく怯えて逃げ出すか、パニックになって大人を呼びに走る場面だ。
しかし――。
「…………」
デスクの前に座っていたワーク・ウェア姿の少女、日向陽和は。
突然飛び込んできた神谷の狂乱を目の当たりにしても、地区大会で使用する音響のキューシート(進行表)にペンを走らせる手を、ただの一度も止めなかった。
「……あ、あぁ……」
彼女の琥珀色の瞳は、限りなく凪いでいた。
陽和は、祖父・日向源蔵のプロデュースする本物の演劇の現場で、重すぎるプレッシャーやメソッド演技の罠に嵌まり、自我を失って暴れ回るプロの役者を、これまで山ほど見てきたのだ。
役が抜けず、包丁を持ち出して楽屋に立てこもった主演男優。
本番前に過呼吸を起こし、爪から血が出るほど自分の腕を引っ掻き回した新人女優。
彼らに比べれば、高校生の神谷が陥っている状態など、陽和にとっては『よくあること』に過ぎない。
(……典型的な『役への過剰同化(憑依)』ね)
陽和の脳内で、冷静な分析が始まった。
(スタニスラフスキー・システムの副作用。未熟な精神で過去のトラウマを引き出しすぎたせいで、脳が現実と虚構の区別を完全につけられなくなって、扁桃体がパニックを起こしている状態だわ)
神谷の暴走は、彼自身の意志の弱さではない。
人間の脳が本来持っている防衛本能が、過剰な負荷によってショートしただけの、純粋な『物理現象』である。
(今、彼に必要なのは、「落ち着いて」というような言葉の説得じゃない。脳のシステムを強制終了させる、物理的な『切断』)
陽和は、ペンをデスクにコトリと置き、ゆっくりと立ち上がった。
そして、床で頭を抱えて震える神谷に向かって、足音を立てずに近づいていく。




