第17項 迫り来る地区大会の重圧。メソッド演技の罠に嵌まり、役に魂を侵食される悪役志望
第3節 役の感情に飲まれた悪役志望へ。舞台裏で伝える「脱役」の儀式
第17項 迫り来る地区大会の重圧。メソッド演技の罠に嵌まり、役に魂を侵食される悪役志望
九月中旬。
地区大会まで残りわずかとなった星華芸術学園の稽古場は、文字通り狂気じみた熱を帯びていた。
「違う! もっと悲しみを、もっと怒りを乗せろ! お前の演技には魂がない!」
「はいっ、すみません!」
演出家である黒田の怒号が響くたび、生徒たちの肩がビクッと跳ね上がる。
誰もが己の限界を超えようと、睡眠を削り、プレッシャーに耐えながら躍起になっている中。
第一稽古場の隅の薄暗い影で、俳優科二年生の神谷は、一人頭を抱え、獣のように荒い呼吸を繰り返していた。
「ハァッ……ハァッ……ハァッ……」
彼が今回の劇で任されたのは、過去の凄惨なトラウマから世界を憎み、復讐に狂う『悪役』のポジション。
本来の神谷は、後輩の面倒見が良く、誰にでも優しく接する、演劇に対して極めて真面目で心優しい青年だ。
それとは正反対の、ドロドロとした怒りと悲しみ、そして底なしの絶望だけで構成された、あまりにも重い役柄だった。
「神谷、お前の悪役は綺麗すぎる。もっとリアルな感情を引き出せ。自分の中にある一番の怒りや悲しみを引っ張り出して、役に重ね合わせろ!」
黒田は、いわゆる『スタニスラフスキー・システム(メソッド演技法)』を生徒たちに強要していた。
自分の過去のトラウマや強烈な感情を引っ張り出し、それを役の感情と同期させる手法。
しかし、これはプロの俳優であっても精神を病む者がいるほど、未熟な高校生が安易に行うには精神的負荷が大きすぎる、危険な両刃の剣である。
「俺は……俺は……」
真面目で責任感の強い神谷は、黒田の期待に応え、役の持つ「底なしの絶望」を理解しようと、何日も寝食を忘れて台本と向き合ってきた。
自分の中にある悲しい記憶を掘り起こし、それを増幅させ、役の怒りと同化させる。
その作業を繰り返すうちに、神谷の心に、取り返しのつかない『侵食』が始まっていた。
「……殺してやる」
ボソリと、神谷の口から、台本にはない言葉が漏れた。
日常の生活の中でも突然、役の持つ「怒り」が抑えきれなくなり、視界が真っ赤に染まる。
あるいは、授業中に突然、理由もなくボロボロと涙がこぼれ落ちる。
(俺は、誰だ? 神谷か? それとも、こいつか……?)
自分という人間の輪郭が、役の感情に塗りつぶされ、境界線が完全に曖昧になり始めていた。
「……なあ、最近の神谷、なんか目つきヤバくないか?」
「うん。昨日、食堂ですれ違った時、本当に人殺しみたいな顔してて……正直、ちょっと怖い」
周囲の生徒たちも、神谷が発する異様なオーラに怯え、遠巻きにヒソヒソと囁き合っていた。
その結果、神谷は稽古場でも完全に孤立し、誰にも相談できないまま、一人で冷たい絶望の底へと沈み続けていたのだ。
「ハァッ、ハァッ……」
神谷の瞳からは生気が完全に消え失せ、目の下にはどす黒いクマが張り付いている。
彼の心は、もう限界をとうに超え、完全に役の狂気に飲み込まれる一歩手前だった。




