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第16項 怠惰な養護教諭の密かな戦慄。漢方と西洋ハーブを融合させコンディションを支配する怪物

第16項 怠惰な養護教諭の密かな戦慄。漢方と西洋ハーブを融合させコンディションを支配する怪物


「よーし、いいぞ結城! その調子だ!」


第一稽古場に、演出家である黒田の満足げな声が響き渡った。


その様子を、稽古場の隅のパイプ椅子に深く腰掛け、いかにもサボっているように見せかけて、一部始終をじっと観察していた人物がいる。

養護教諭の東雲しののめだ。


彼女は、白衣のポケットに両手を突っ込み、ボサボサに乱れた髪を気怠げに掻き上げながら、舞台上で輝く結城の姿を冷徹な目で見つめていた。


(……結城のやつ、あんなに声が出るようになったのか)


東雲は、優秀な医師免許を持つ身として、朝のホームルーム前に結城とすれ違った際、彼の状態を正確に診断していた。

極度の乾燥とプレッシャーによる急性咽頭炎の初期症状。そして、交感神経の過剰な働きによるパニック寸前の浅い呼吸。


『あいつは、今日の通し稽古で確実に喉を潰す』


医者として、そう断言できるほどの絶望的な状態だったはずだ。


しかし、昼を過ぎた今、結城の声は完全に回復し、いや、むしろ普段よりも艶と張りのある素晴らしい声で長台詞を完璧にこなしきった。

さらに、暗転直後の猛ダッシュによる退場時。


(……あの馬鹿。疲労で重心が左にブレて、本来なら小道具の木箱に激突して足首を粉砕してたはずだぞ)


だが、結城は『偶然』にも、その木箱の横の何もない空間をすり抜け、無傷で舞台袖に生還した。


偶然。

果たして、そうだろうか。


東雲の脳裏に、数時間前、旧校舎の廊下で陽和が結城に小さなピンク色の保温ボトルを手渡していた光景と、先ほどの暗転前、彼女が音もなく木箱の位置を『数センチ』だけズラした光景がフラッシュバックする。


(……マロウブルーで粘膜を物理的に保護し、カモミールで炎症を抑えた。さらに、結城の極限状態の胃腸に負担をかけず、吸収率を極限まで高めるために、あいつ……液体の温度を体温と全く同じに設定しやがったな)


東雲は、陽和が行ったケアの異常なまでの精度を脳内で分析し、背筋に冷たい汗が流れるのを感じた。


西洋のハーブ(対症療法、リラックス)の知識と、東洋の漢方(未病、気・血・水の巡りの観察)の哲学。

それを、ただの高校生の少女が完璧なレベルで融合させ、処方している。

さらに、演者の肉体の状態を秒単位で解析し、数センチの歩幅のズレを見抜いて、空間(舞台袖)の物理的コントロールまで行っている。


東雲は、何も書かれていない手元のカルテを、パタンと閉じた。


(……底辺裏方。落ちこぼれ。誰にでもできる雑用係……か)


「笑わせる」


東雲は、小さく毒づいた。

あの赤城や青山、そして実力至上主義に取り憑かれた教師陣は、何も、本当に何も分かっていないのだ。


(あいつは、ただの世話焼きじゃない。演者の肉体の状態を秒単位で解析し、細胞レベルのケアと空間支配で、この演劇部のコンディションを完全に支配する『怪物』だ)


東雲は、舞台袖で次の小道具の準備に奔走する陽和の小さな背中を、畏怖と、そしてどこか面白がるような目で見つめた。


日向陽和。


この、プレッシャーとエゴに塗れた狂った学園の、本当の意味での『支配者』は、一番目立たない、あのワーク・ウェア姿の少女だ。

彼女の無自覚な神業が、一人の大人の目によって明確に証明され、物語はさらに加速していく。

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