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第15項 転倒回避という無言の救済。誰にも気づかれないまま役者の命を繋ぐ、裏方としての矜持

第15項 転倒回避という無言の救済。誰にも気づかれないまま役者の命を繋ぐ、裏方としての矜持


「――だから俺は、お前を信じるって言ったんだよ!」


結城の熱演が響き渡り、第一稽古場の空気を震わせた。

ピンと張り詰めていた彼の一番の見せ場が、完璧な形で幕を閉じる。


「カット! そこまで! 暗転!」


演出家である黒田の鋭い声と共に、舞台監督(生徒)が音響と照明のフェーダーを一気に下ろした。

パァン、と稽古場のまばゆい光がすべて落ち、真の暗闇に包まれる。


『暗転』。

それは、高校演劇において最も危険で、そして最も素早く動かなければならない戦場の合図だ。


結城は、暗闇の中、体に染み付いた感覚だけを頼りに、次の衣装替えのために舞台下手しもての袖に向かって猛ダッシュした。

しかし、全力の演技を終えた直後、極度の緊張とプレッシャーから解放されたアドレナリンの切れ目が、彼の体に予想以上の疲労として重くのしかかった。


(……あっ、)


ダッシュの二歩目。結城の足元が、わずかにフラついた。

陽和の予測通り、結城の歩幅は普段の彼より数センチ狭く、そして何より、右膝を庇うように重心が左――すなわち、重い木箱の小道具が置かれているはずの方向へと大きく逸れていったのだ。


結城は、完全な暗闇の中で直感した。


(ヤバい、左に寄りすぎた! 木箱にぶつかる!)


本来の立ち位置バミリの設計通りであれば、自分の左足は、猛スピードで硬い木箱の角に激突する。

足首の捻挫は免れない。

最悪の場合は骨折し、地区大会を目前にして、主役の親友という重要な役柄からの降板を意味する。


結城は、想像を絶する激痛と、絶望的な未来を覚悟して、ギュッと目を固く瞑った。


――タンッ。


しかし。

結城の左足は、硬い木製の角ではなく、何もない平らな稽古場の床をしっかりと踏み締めた。

本来なら激突して粉砕されていたはずの場所を、彼の足は、わずか数センチの差で虚空をすり抜けたのだ。


「……え?」


結城は、そのまま勢いよく舞台袖の暗がりに転がり込み、ハァハァと荒い息をつきながら、自分の無事な両足を見下ろした。


「……あっぶな。今日は運が良かった……木箱の位置、俺の記憶より少し外側にズレてたのか……?」


結城は、冷や汗を拭いながら、一人で深く安堵のため息を漏らす。

自分の足の動線が乱れていたことに気づき、肝を冷やしていた。


そのすぐ横で。


「お疲れ様です、結城くん。次の衣装、用意できてますよ」


陽和は、次のシーンで結城が着るジャケットを抱えながら、暗闇の中でホッと優しく微笑んだ。


結城は、朝の廊下で「ただの乾燥対策のお茶」だと思って飲んだピンク色の特効薬で、潰れかけていた喉(役者としての生命)を救われた。

そして今、暗転の中で、歩幅の乱れを予測したミリ単位の空間管理によって、物理的な大怪我(物理的な生命)を救われた。


結城本人は、自分がこの数時間で、名前もよく知らない地味な裏方の少女に二度も命を救われたことに、全く気づいていない。


しかし、陽和にとって、彼が自分の神業に気づかないことこそが、最上の誉れであった。


(裏方は、黒子。役者が自分の運の良さや、魔法を信じたまま、安心して舞台に立てるなら……それでいいの)


陽和は、結城が急いでジャケットを羽織るのを手伝いながら、静かに、しかし確固たる『裏方の矜持』を胸に秘めていた。


「さあ、後半戦も頑張ってくださいね」


陽和の鈴が転がるような声に、結城は「あ、ああ! ありがとう!」と力強く頷き、再びまばゆい光の中へと飛び出していった。

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